扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

関東城巡り#2 百名城15−足利氏館

2012年04月10日 | 日本100名城・続100名城

鉢形城の次は足利に行く。

利根川を渡って群馬県、上野国である。
上野国の平野部というのは実に単純で関東平野が信濃の山々から開けている入口にある。
中山道を西から来れば碓氷峠を越えほっとするところが上野である。
ゆるゆると下って高崎にいたれば視界に関東平野が開けたであろう。

上野の川はよって西北から東南へと流れていく。
国道407号を北上していくと太田市に入ってくる。
太田市はかつて新田義貞の本貫、新田荘があった。
市役所を過ぎる頃、進行方向に小山がみえる。
これが金山城の城山である。

金山城は新田氏の居城という訳ではないが、この後登りたい。
まずは足利の方に行く。
こちらは足利氏の本貫、足利氏の居館があったとされる。
足利と新田のことを考えてみようと思っている。

北東に転じると渡良瀬川に当たる。
橋を渡れば足利市である。
足利氏館と金山城は10kmしか離れていない。
川一本で足利氏と新田氏は隣同士ということになる。

足利氏館は現在、鑁阿寺(ばんなじ)という寺になっている。
境内にクルマのまま、ずいと入っていく。
足利氏と鑁阿寺の関係はおもしろい。
そもそも足利氏とは八幡太郎源義家の四男、義国の次男義康が足利荘に拠り、足利の名字を名乗ることかは発祥する。
義国の長男が義重、こちらが新田氏の祖である。
よって足利と新田は源義国という源氏のスーパースター義家の倅から別れた親戚ということになる。
源氏の嫡流とみなされた河内源氏を継いだ頼朝の家系は実朝で尽きるため武士の血筋といえばまずは新田・足利がぴかいちとなる。
義国は足利の先人、藤原秀郷流足利氏を追い義康に足利を任せ、兄の義重を新田に任せた。
義康は京にあっては北面の武士となり、保元の乱で義朝と共に戦った。
義康の四男が義兼、足利館を造る人である。

義兼は義家の曾孫になるがすなわち頼朝世代である。
頼朝が起ったときこれに従い抜群の軍功、奥州藤原征伐にも従軍した。
鎌倉初期の北条氏による政権簒奪に、もまれることなく生き延びたのは中央の権力闘争から逃れていたためであろう。
足利氏は義兼の次代義氏が三河守になり、さらに子孫は多方面に散っていった。
都に近い三河では細川や吉良、一色、今川といった分家を生み、高氏(尊氏)は三河で育っている。

さて義兼は足利館に持仏堂を造る。
これが鑁阿寺に発展してゆくのである。
義兼の三男、足利三郎義氏が本堂を建て、堀の外に塔頭をいくつか建てたらしい。
その頃はまだ足利氏自身が住んでいたものと思われる。
ところが館としてのこの地は尊氏が室町幕府を開き、京に将軍、鎌倉に鎌倉公方となってしまえば機能を失い住むものがいなくなる。
兄弟皆が出世して家を出てしまい住むものがいなくなった実家のようなものである。
館の管理を任された寺の方が屋敷の跡地を片付けては徐々に伽藍を整備していったのだろう。
境内をみても足利氏の痕跡は全くない。
四方の堀が館の敷地を表すものというが白線で示しているのと対して変わりはない。

ただし寺としてみた場合、鑁阿寺はなかなかいいものを残している。
重文の本堂は鬼瓦に足利の二つ引き両の家紋を抱えて姿がいい。
真言宗に不可欠な多宝塔(いちおう日本最大という)もあるし配置が窮屈でない分のびのびとしている。

南門は楼門になっていて堀は太鼓橋で渡る。

武家の本貫地を訪れると結構な確率で激しい感動に襲われる私もここはこみ上げるものはなかったようである。
 

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足利館跡というよりも鑁阿寺伽藍図
  

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本堂
 

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本堂屋根の二つ引き両紋
 

Photo_4
南側の楼門、橋が架かる堀のみが足利館の痕跡という

 


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