扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

関東城巡り#1 百名城18−鉢形城

2012年04月10日 | 日本100名城・続100名城

東京は花見の時期を迎えた。

100名城巡りも終盤戦。
行き残した関東の城を3つ回ってみるかと出かけた。

まずは武蔵国の鉢形城。
調布からは北北西に70km。
鉢形城は北条の城である。

平野といいきれるほど真っ平らでないにせよ山低く川広い関東は日本の国土の中で異質である。
これほど天が広い地は他に北海道しかない。
関東という「関の東」ということばは長い歴史の眼でみれば指し示す意味合いが異なる。
古代には鈴鹿の関、不破の関の東が関東であり、鎌倉幕府が起てば三河以東が関東であった。
戦国では箱根以東である。
気分としては鎌倉期は板東、以降は関東といえばよいような気がする。

よって今日は「関東」の表記でいく。
私は関東はちょうど「すき焼き鍋」のようなものと思っている。
鍋の縁は箱根から始まり丹沢、秩父と北上、相模・武蔵・上野国と来たところで東へ転じる。
赤城山、日光と来て下野国。
那須に突き当たり南下すれば筑波山、霞ヶ浦を過ぎれば下総国、ここからは房総の山脈が走る。
三浦半島で閉じればまこと、鍋のようなものではないか。

このすき焼き鍋の中で武者が駆け回った。
平将門は鍋の中で肥え太ったがために都の軍勢に食われた。
都を追われた源頼朝もまた伊豆から鍋の縁を越えて太りに太り箱根を越えて西国を獲り、白河関を越えて陸奧を落とした。
室町期は鎌倉公方や関東管領が鍋奉行をせんとしたが果たせずに荒れに荒れた。
当然であろう。
上方からすれば異質の人間が鍋を煮ているのである。

戦国の鍋奉行は北条である。
伊豆から興った伊勢新九郎は関東鍋が残りカスのようになっているのに乗じまず小田原の辺りから鍋に入り整理を始めた。
倅の氏綱は北条を名乗るようになり江戸と河越を獲って鍋の半分を手中に収めた。
孫の氏康はもう少しがんばって武蔵と下総まで獲った。
すると鍋の具が煮え、霜降り肉を狙って長尾景虎や武田晴信がやってくる。

氏康は元亀2年に死ぬが後を息子達が継いだ。
当主は氏政が継ぎ氏照が肉を、氏邦が野菜を、氏規がしらたきをと分担し北条は鍋の中で栄えた。
さらに弟は上杉に養子にいき、景虎と名乗って越後の米を調達しに行った。
全盛の北条はかくして関東鍋をひとりで食う戦国大名となった。
筑波山の向こうは鎌倉御家人の末裔佐竹が従わなかったがまずは関八州の覇者といえる。

氏政らの兄弟はなかよくそれぞれの国境の城を守り関東は独立王国となった。
北条印の関東鍋を狙ったのが秀吉である。
秀吉の大軍は北から攻める上杉、前田の北陸軍と共に北条の城をなぎ倒す。
鉢形城も落ちた。

鉢形城は荒川の上流の平山城である。蛇行する荒川の侵食による崖の上に縄張してある。
荒川の反対側も支流が削った崖であり天が築いてくれた要害といっていい。
城址は公園としての整備途中と思われ歴史館がある。
ただし住宅が隣接し、舗装道が本丸三の丸などを縦貫、保存状態はいいとはいえない。

曲輪は関東の城の常として土造りなのだが、鉢形城には石組が土留めとして用いられており珍しい。
この城は北条氏邦が大拡張し、武田勢、上杉勢を引き寄せて戦い、落ちなかった実戦の城である。
北条氏が対豊臣戦の後に滅んだときに廃城となっているため、江戸期の改修を受けず戦国の山城の雰囲気をよく伝えている。
今では発掘が進み北条氏が得意とした各馬出や堀切が復元されている。
資料によれば堀の底は障子堀になっているようだ。
木を切り、空堀を掘り起こし戦国の状態に復元すればさぞかし威容のある城であろう。
もっとも堀の高低差はおそらく5~7m にはなろうから事故を心配すれば難しいし、近代建物をどうどかすかというのも問題だ。

さて城址を一周する。
鉢形城の本丸はふたつの川の合流点、すなわち崖上の三角形の頂点というもっとも攻めにくい部分が本丸になる。
寄せ手は最も防衛戦が広い反対側を来るであろう。
この部分が大手、三の丸になる。

大手口に復元された門と石垣をみる。
虎口は折れ曲がったもので堀と土塁がなかなか堅固である。
復元された四脚門を入ると石垣がある。
石垣といっても下の荒川から手頃なものをひろってきたもので丸々した子供の頭ほどの石が几帳面に積まれているだけで西国の山城のような野面積のいかつさはない。
しかも曲輪の内側に階段状に積まれている。
つまり敵が攻めてくる側は土のままで門をくぐってはじめて石垣がみえる。
その意図がよくわからない。

三の丸、二の丸の周囲は大規模な堀切で切り抜かれている。
復元状態もよく戦国の城の雰囲気がよく再現されている。
二の丸と三の丸の間に北条流の特徴、角馬出がひとつ。

東へ降りていく見事な彼岸桜が一本。
深沢川を渡ると歴史館。
川を渡ったところからは外曲輪になっていた。
土塁がめぐり水堀があったらしい。

資料館には北条時代の鉢形城のジオラマが置いてあった。
細部まで細かく気が配られ全体像がよくわかる。
写真撮影禁止であったのが残念だ。

外曲輪の土塁の上を歩いて北へ向かうと搦め手に出る。
三角形の頂点に出るとそこが笹曲輪。
今では荒川の対岸に行く橋が架かっている。
橋の途中まで行き振り返ると荒川側の鉢形城の外郭、すなわち断崖絶壁がみえる。
なるほどここからは攻められまい。

笹曲輪には大型の復元模型が置かれており歴史館のものほど精巧ではないにせよ雰囲気がよくわかる。
秀吉の北条攻めは本軍が東海道を行き、別動隊が北関東を席捲した。

3月29日に伊豆山中城を一日で落とした。
怒濤のように箱根を越えた豊臣本軍は一部を韮山城に回してこれを囲み、本隊は小田原をひたひたと包囲した余勢で関東全域になだれ込んでいく。
北関東方面の責任者北条氏邦は小田原城の軍議で野戦を主張し容れられないと鉢形城に戻ってしまう。

前田勢、上杉勢、真田勢の別動隊は碓氷峠を突破し、3月28日に松井田城に取りつく。
主将は大道寺政繁、激戦の上本丸まで守って4月20日まで持ちこたえて開城する。
厩橋城(前橋)が4月19日、箕輪城が4月24日、河越城が5月1日に落ちる。
本城、鉢形城を後回しにした。
戦火は5月20日頃開かれる。
彼我の兵力差は10倍。
この城はなかなか落ちなかった。
6月14日に氏邦が開城するまで一月保った。
天然の要害というのはかくも堅い。
川に挟まれた合流点、断崖絶壁上という点で鉢形城と似ている長篠城も堅かったことを思い出す。
秀吉は鉢形城の力戦にいらだち、度々督戦している。
前田、上杉らは秀吉の勘気をおそれ、八王子城を力攻めし大きな犠牲をはらうことになる。

北条攻めの支城攻略戦というのは小田原の本戦と関係が薄いためついおろそかになってしまうが、北条の支城は実に堅かった。
これは北条の戦略が徹底されていたということに加え、領民の支持ということも大きい。
北条領は早雲以来伝統的に年貢が安く領民にやさしかった。
氏邦はさらに養蚕、林業を興すようなことをやったらしい。
ひと月保った鉢形城をはじめ、最後まで落ちなかった韮山城、忍城などはさしずめ太平洋戦争の硫黄島のようなものであろうか。

鉢形城を去った氏邦は降りた先の前田家に身を寄せ、能登七尾で余生を過ごした。
この名将のことも掘ってみるとおもしろいのかもしれない。

 
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荒川、左の崖上に鉢形城がある
 

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南側の守り深沢川、郭内に渓谷がある
 

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三の丸の石垣、内側三段に積んである
 

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堀切
 

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鉢形城の屋外模型




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