扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

関東城巡り#3 足利尊氏のこと

2012年04月10日 | 街道・史跡

足利氏館を出て足利学校に足を向ける。

足利という町は歴史ある町として定評があるようだ。
ただし旅情という点では木曽路の宿場町などに比べれば少々見劣りする。
緑と水が少ないような気がするのである。
そして天が広々としていることもあるべき古都の雰囲気を散漫なものにしているだろう。

南へ少し行くと足利尊氏の銅像が置いてある。
束帯の立ち姿である。
尊氏の姿としては兜をつけず野立ちを背負った騎馬武者姿の肖像画というのが我々世代の教養であったが、近年それは覆されている。
尊氏のことは小説に取り上げられることが少ない。
皇国史観における逆賊であったためというのが影響しているのであろう。

映像化された尊氏というのも少なく、わずかに大河ドラマの「太平記」がある。
尊氏を演じたのが真田広之。
この人は底抜けに明るく溌剌とした役をやらせればまず無難にはまるのだが、悲愴感とか懊悩という演技が似合わない人である。
真田の尊氏が史実にかなうのか知識が乏しいので何とも評しがたいが、私は尊氏は明るく少し間抜けな人であっただろうと思っている。

ちなみに「太平記」のキャストは尊氏の父、貞氏に緒形拳。
弟、直義に高嶋政伸、佐々木道誉に陣内孝則、高師直に柄本昭、楠木正成に武田鉄矢。
新田義貞は根津甚八である。

尊氏に天下を獲らしめたのはどうみても「運」である。
源頼朝も徳川家康も運がいい人ではあるが尊氏は運と器量のバランスが悪い。
弟に背かれ、倅に背かれ、家宰にのさばられ、盟友楠木・新田と訣別しと散々である。
器量の狭さとしかいいようがない。
それでも武家諸氏に推されて将軍になったというのはやはり運というかあるいは消去法であったのかもしれない。
室町幕府という組織は調整機能しかなかった。
民を制御するという機能を全く持たず常備軍すらまともに持ち得なかった。
義満という尊氏の孫のみは商売という武家にあるまじき能力を発揮し、しばし光をみせた。
後はだらだらと自分勝手に日々を送ったのが足利将軍である。

尊氏は腫れ物に苦しんで死んだ。
その後継者達もろくな死に方をしていない。
室町時代がどうしてもかびくさくなってしまうひとつの理由である。

いずれにせよ、尊氏像の顔にさしたる感慨を発見できないでいる。
 

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