扶桑往来記

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北関東周遊 #8 HONDAコレクションホール3 二輪レーサーフロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

3Fに上がってみるとHONDAのレーサーが整然と並んでいる。

その全てが伝説を作ったマシン。

HONDAといえばグランプリの雄。

いちいち全部みていると日が暮れてしまいそうである。

お出迎えは「2RC143とNR500」。

2RC143は1961年にマン島TTで初優勝、1〜5位までを独占した。

いわばレースのHONDA、その起源を作ったマシンである。

NRはHONDAの苦難を象徴する不遇のマシン。

世界GPで一勝も上げられずに開発終了した。

惨敗のマシンを玄関に飾るのがHONDAスピリッツ。

本田宗一郎以来、歴代のトップは「新しいことをやれ」「他のマネをするな」を何より大事にした。

あえて4スト楕円ピストンで挑んだのはその精神の呪縛といえる。

NRの遺産はいくつもあって4ストロークV4エンジンは80〜90年代にTT、耐久レースで黄金期を築いた。

また市販マシンにも私などは大型のハイパフォーマンスエンジンはV4とのイメージが一時期はあった。

 

さて1958年にマン島TTに初参戦したHONDA。

第一期のHONDAレーシング最高の年は1966年、50/125/250/350/500CCの全クラスにおいて全37戦29勝。

史上初の全クラスを制覇したメーカーとなった。

1954年に挑戦宣言をしてから12年。

これを長いとみるか短いとみるかは意見が分かれるところであろうが、1945年の敗戦で多くを失った日本、一技術者が這い上がって頂点を極めるまで21年と考える方がいいかもしれない。

二輪GPの歴史を追っていくと「初●●」はHONDAによるものが多い。

実際はSUZUKIがHONDA参戦の翌年、更に翌年にはYAMAHAも参戦した。

Kawasakiは1968年から北米から二輪レースに参加していく。

日本の4大メーカーはどれも栄光の時代を持っているからレース=HONDAでもない。

中でもHONDAらしさは繰り返すと「最新技術・コンセプト」。

125CCに5気筒DOHCをぶちこむなど他のメーカーはまず考えもしない。

しかもそれで結果を出してしまうから当時のHONDAの技術力、情熱はもの凄い。

 

今日最も拝みたかったのが80年代のGP500マシン。

私がバイクに熱中していた頃、世界を駆け回っていたマシンたちである。

同じ世代のバイク野郎はほとんどが同じ気持ちでいるようだが世界GPがまだTVで中継されることがなかった頃、レースの情報はバイク雑誌が最も早く詳しかった。

私が京都に出てバイクに乗るようになり、レースに興味を持ったのが1983年。

この年はGPレースの中で伝説中の伝説の年。

K.ロバーツとF.スペンサーの間で争われ最終戦で勝者が決まった。

HONDAが撤退以来再びタイトルを取ったのがNS500。

そのチャンピオンマシンは残念ながら展示されていないが同型のものがNRの苦闘のマシンと共に置いてある。

 

1983年と共に記憶されているのが1985年、私が限定解除した年のシーズン。

前年の不調から立ち直ったスペンサーが250CCと500CCに参戦、メーカー/ライダータイトルをダブルで獲得。

この栄光のマシンが2つ展示してある。

 

などなど1台1台にドラマがある。

みているだけで当時の記憶が甦りまさに万感迫ってくる。

書き出すと止まらなくなりそうなのでここでやめておく。

 

 

HONDAコレクションホールレーサーズPart5/第二期二輪レーサー

1979年にWGP500CCクラスに復帰したHONDA SUZUKIのRGΓ、YAMAHAのYZRなど主流の2ストローク4気筒ではなくあえて...

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