扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行七日目② 肥後の猫寺

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

願成寺を辞して今度は生善院に向かう。

いわゆる猫寺である。

猫寺といってもネコが集まるのどかな寺でも招き猫が福を呼ぶありがたい寺でもなく、祟りをなす化け猫ゆかりの寺である。

天正9年島津の圧迫に耐えかねた相良島主義陽は島津に人質を出して降り、島津の先兵として阿蘇氏を攻めるが、逆襲に遭って戦死してしまう。

翌天正10年(本能寺の変の年)、当主代替わりに際して御家騒動が起こり地頭湯山宗昌と弟で普門寺住職に謀反の嫌疑がかかった。

兄弟を成敗する命が下るも僧を殺してはならぬと急使が派遣される。ところがこの使いが酒好きで途中で飲んでしまって攻撃中止の命が届かず、兄は逃げるが弟は普門寺で読経の最中に惨殺された。

兄弟の母は無念無実の罪で殺された弟の怨みをはらさんと飼い猫の「玉垂」と共に神社に籠もり指をかみ切りその血で呪い人形に塗りたくり猫にもなめさせて怨みを込めに込めた上で猫と共に淵に身を投げた。

すると相良氏周辺に化け猫現れ祟りが降り掛かり弟を殺した下手人は狂い死に。

相良藩は公式に祟り封じに動いて焼失した普門寺跡に生善院を建立、死んだ弟の影仏として本尊阿弥陀如来を母の影仏として観音堂に千手観音像を安置してようやく祟りはおさまったという。

おもしろいのは相良藩が「公式に」化け猫の祟りを信じて藩命で祟り封じに動いたこと。

 

上相良の領地多良木は訪ねてみれば人吉に増してのどかである。そののどかな球磨川沿いに生善院は残っている。

観音堂は国の重文に指定されており、彩色もよく残っている。

本堂には誰もおらず勝手に御参りすればいいらしい。

御朱印も書き置きを持っていく。

御堂の中はネコの意匠だらけで襖の柄もネコ。あちこちにネコのぬいぐるみだの招き猫だのが置かれている。

コーディネイトを全く意に介していないのでネコ好きとしては「置けばいいというものでもなかろう」と思ってしまうのだが、たぶんネコものを持ってくる人の頼みを断れないのだろう。

 

山門にはネコが狛犬代わりに阿吽の対で立っている。

これも造型としてはいかがなものかと思う出来である。

ネコたわけがたまにやってくるようだが、化け猫伝説、立派な観音堂に反して参詣してみればいかにも「ゆるいお寺」である。

 

重文の観音堂

 

 

本堂玄関上の蛙股は化け猫っぽくてよい

 


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