扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行七日目① 相良氏墓所−願成寺−

2019年05月30日 | 仏閣・仏像・神社

朝温泉に入って朝食をいただき7日目行動開始。

今日は鹿児島市内に戻る。

まず相良家の菩提寺である願成寺。

人吉城からみて球磨川の向こうの鬼門の方角にある。

 

 

願成寺は人吉荘に下向した相良氏初代相良長頼によって創建された。

以後、一貫して相良氏の菩提寺として存続し墓地も初代からの当主のものがそろっている。

人吉城も相良氏がずっと城主であり続けた。

鎌倉以来という武家はそこそこあるが、先祖が源頼朝から拝領した土地をずっと治めた武家となると希有になる。

よく薩摩島津家が典型といわれるが、取材してみると島津家はしばしば当主の本拠地が移転し嫡流が途絶えた後、分家同士が抗争している。

薩摩大隅日向三州の太守をずっと維持していた訳ではなく、要するに守護職を名目上とはいえ手放さずに薩摩国内を時に流浪しつつも創業時の面子を復活したということになる。

相良氏は身代は小さいけれどももらった領地、家祖が作った城と墓地を700年守り続けたという点では引っ越しせずにすんだ武家ということになる。

細かくいえば相良氏は人吉城のある西部を領する下相良氏と球磨川上流の多良木を本拠とする上相良氏に分裂していた時期があるが人吉城の表札が他家に変わることはなかった。

とはいうものの地ばえ度日本一は実に偉大というべきである。

相馬氏は歴史の大舞台には登場しない。

しかしチョコチョコと大転換期には小役を演じてきた。

戦国時代には人吉から出て行って熊本南部まで勢力を広げたことがある。

 

九州は経済力のあり中央とのパイプが太い博多久留米熊本の勢力は薩摩大隅を従えようとするときは出水方面から攻略していくのが常道で人吉を経由してわざわざ山中を行軍するような気持ちになりにくかったのだろう。

人吉の相良家は兵も少なく閑かに過ごすことが最善と考えたのではなかろうか。

ただし斥候能力、政局の風を読むことには長けているようだ。

元寇、南北朝の抗争、島津家内訌、応仁の乱と九州が騒がしくなると相良家はちゃんと関係者に名を連ねている。

相良氏最大の危機は三州を統一した島津義久がいよいよ三州外に出て行こうとする時。

島津義弘が伝説の名戦、木崎原の合戦に勝ち伊東勢を追っていくと相良氏は島津に下って九州統一に協力していくことになる。

そうなると難しいのが秀吉と喧嘩を始めた島津との付き合い方。

秀長軍が日向を進み、秀吉本軍が八代に迫ると相良勢は日向方面に出陣。

一方で人吉の留守部隊が秀吉に降伏、本隊も島津を見放して帰ってきて恭順。

無事本領を保持した。

 

次に来た関ケ原の処世術も見事。

石田方に加担した相良は伏見城攻撃に参加、合戦には参加せず大垣城守備隊の一員となる。

本戦で西軍が壊滅するといち早く家康に恭順、石田家臣の首をはねて誠意を示し無事所領安堵と相成る。

(この件、暗躍した家老相良清兵衞の人吉城下屋敷は地下室が発見されたことで有名になった)

 

さてさて長話になってしまったが、相良氏の歴史はもっと深掘りしてみるとおもしろそうだ。

 

彼等の魂は鳥居が迎えてくれる墓地に葬られている。

島津家や宗家といった歴史のある武家の墓地はどれも荘厳であるのが常である。

この墓地は山肌に段々に積み上げられるように墓石が並んでいる。

荘厳というよりは陽気な雰囲気がする。

一角に石田三成の供養塔が並んでいるのがおもしろい。

後味の悪さでも感じたのかあるいは祟りを怖れたか。

 

墓地をさらに登っていくと昔の山城があるらしい。

 

お寺には御参りした後、御朱印をいただいた。

まだお若い女性に朝早くからお願いすることになってしまった。

昨日のうなぎ店軒並み休業の話をしてみたが原因はよくわからないそうだ。

宝物館は事前にお願いしておかないと開けてもらえないらしい。

今も住職はお出かけなのだそうだ。

人吉にはまた鰻丼目当ても来るつもりであるから相良氏の歴史など勉強してから再訪してみようと思う。

 

 

 

 


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