扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2018

2018年04月07日 | 取材・旅行記

長いこと、一度でかい戦闘艦を見てみたいと思っていた。

21世紀の今日、かつて「戦艦」と呼ばれた巨大な主砲を持つ主力艦は退役、原子力空母がその位置にある。

「横須賀基地に一度空母を見に行こう」と思いつつ早10数年。

とある日、海上から船で第七艦隊の「ロナルド・レーガン」をみられるツアーを見つけて家人と参加することにした。

朝、東京駅をバスで出発。横須賀基地のオープンイベントに参加し、船で艦船をながめるという趣向である。

ところが当日は悪天候のため、船が出せずに陸上見学のみ。

残念。

 

基地には戦艦三笠公園のゲートから入っていく。

様々な屋台が並ぶ中、乗艦体験ができるミサイル駆逐艦に向かって歩いて行くと長蛇の行列。

まあ寄港中の艦船をながめることができるのでさほど退屈でもない。

 

まず間近にみえてくるのが「揚陸指揮艦ブルーリッジ」、第七艦隊の旗艦である。

就役が1971年というから艦歴47年の大ベテラン。

全長190mであるから、旧帝国海軍でいえば軽巡最上より少し短く幅が少し広い。

通信に特化しているため派手な武装はない。

ハワイの司令部とテレビ会議ができるそうで守備範囲が広大な米海軍の旗艦は海に浮かんでいるほうが都合がいいのだろう。

海上自衛隊の指令機能は全て陸上にあり、旗艦という概念はないのと対照的といえよう。

 

艦船の隙間からロナルド・レーガンがちらちらみえているが、想定通りばかでかい艦である。

この新鋭空母は2015年10月に横須賀にやって来た。

全長333m、東京タワーのサイズである。

満載排水量は10万トン超。

F/A18E/Fを50機、その他支援機を搭載する。

第7艦隊の空母は初代が「ミッドウェイ」、「インディペンデンス」「キティホーク」「ジョージ・ワシントン」が務めてきた。

艦上はクレーンで何やら作業中、折しも北朝鮮情勢が緊迫している今年ここまで、どうやら緊急体制でもない様子で少々ほっとした。

 

じわじわと乗艦できる艦に近づいて来た。

ミサイル駆逐艦「カーティス・ウィルバー」。

1991年就役、全長153m余、満載排水量8,362トン。

帝国海軍の軽巡川内などと同じようなサイズである。

私がこれまで乗艦した軍艦は三笠記念艦とN.Y.に係留されている「イントレピッド」。

実戦配備の艦船は初めてである。

2時間近く並んでいよいよ乗船。

案外警備はいい加減なもので甲板を歩き回れるし装備にもほぼ触れることができる。

 

武装は全くもって強力。

2.5inch単装砲1門、機銃を数挺。

そしてミサイル駆逐艦の名のように甲板にMk41ミサイル発射プラットフォームを搭載。

こいつは垂直にミサイルを発射する(VLS)。

湾岸戦争の際、このプラットフォームから発射されるミサイルの映像をよく視た。

対艦対地トマホーク、対空スパロー、対潜アスロックなどやりたい放題。

 

今日一番みたかったのがこのプラットフォーム。

間近でみると意外に普通の造作でコンクリートで固められているようにみえる。

フタがパカッと開いて着火されたミサイルが飛び出していく。

 

誘導管制用のイージスシステムもみえている。

 

甲板からは空母「ロナルド・レーガン」の全体がみえる。

その光景をしばらくながめて退艦。

ツアーの自由時間がほとんどなくなり、三笠記念館にちょっと寄って終了。

公園近くの土産物屋に寄ってツアー終了。

海上から空母を見れなかったのは残念だが満足。

かようなイベントが催されるのも平時のこと、戦が起きぬよう祈る。


種子島行 #6 指宿と知覧と −薩摩今昔−

2016年10月17日 | 取材・旅行記

指宿港に着いたら夕暮時。

宿に歩いて行き荷物を置いたら名物砂蒸温泉。

 

 

さて夕食どうするかと思ったらこれが大失敗。

周辺の店が軒並み閉店。

砂蒸し会館に戻ってラーメンを寂しくすすりようやくみつけたコンビニで晩酌セットを整えて宿に戻る。

 

宿は「民宿たかよし」。

ここはおかみさんがいい人で接待が気持ちいい。

部屋は田舎の子供部屋のような6畳間で何の変哲もないがお値段がお安い。

 

次の日は知覧を見物しようと計画を練り就寝。

すると未明に何やら外が物騒なことになってきた。

盛大に落雷が続きいわゆるゲリラ豪雨のような様相。

とても寝ている場合ではなく、ニュースを視るとJR指宿線が運行停止。

「あいやどこにも行けぬではないか」

こうなると予定が崩壊。

いろいろ探してみると指宿フェニックスホテルからバスでJR平川に行き、バスを乗り換えれば知覧まで行け、帰りはJR鹿児島中央駅までバス1本、空港までさらにバスで行けることがわかった。

 

JRが止まると東京などではえらいことになるのが常だが、指宿線は結構天候次第で止まるらしく地元民はいたって冷静。

フェニックスホテルに行ってみるとバスを待つ人などなく拍子抜けである。

道路はいたって平穏ですいすいと知覧まで行けた。

 

最初は知覧特攻平和会館

一度来てみたかった施設である。

軍事マニアの矜恃として兵器は戦争の道具であること、実戦では必ず人の生き死にがつきまとうことを考え合わせることは肝に命じている。

特攻に使われる兵器はもはや兵器ではない。

死を前提とする出撃などあってはならず、「帰ってくるな」と命じる戦闘などあってはならない。

美化してはならず忘れてもならない過去の悪行である。

 

屋外には一式戦「隼」が展示してある。

 

 

会館の展示室には一式戦、4式戦「疾風」。零戦もある。

特攻のことは思うところ多い故、別項を起こしたい。

 

いろいろ勉強した後、武家屋敷の方に歩いて行く。

本当は山城の傑作、知覧城を見物したかったのだが、今朝の豪雨で一部崩落しているらしく観光案内所の娘っ子に止められた。

知覧城はカルストをくり抜いて曲輪を独立させたまさに難攻不落。

知覧武家屋敷は城の麓、川が流れる平地に開かれている。

西側の入口で入場料を払って武家屋敷群が並ぶ通りを歩く。

韓国人観光客の団体が大勢いてかしましい。

 

 

 

 

屋敷は平屋で庭が見事に整備されて美しい。

人口構造物がほとんどみえない江戸の町である。

かつて薩摩の武家がながめた光景と変わらないのだろう。

 

武家屋敷の外れに亀甲城址がある。

知覧城の出丸といわれ規模は小さい。

 

 

 

時刻は14:00。

バスの時間が迫ってきたので武家屋敷に戻りバスを待つ。

近くの菓子舗でかるかんを買いコンビニおにぎりが昼食。

今回の旅は食事が貧弱だった。

 

駅まで戻るバスから晴天の桜島をながめる内に鹿児島市内に戻ってきた。

 

帰りの飛行機が飛び立つとちょうど夕暮れで雲海が虹色に輝き幻想的だった。

 

この旅もまた得るものが大きかった。

ふだんクルマで移動しているので公共交通機関を駆使する今年の旅は移動時間が新鮮。

マイレージも尽きたのでしばらく飛行機に乗ることはないと思う。

薩摩で行き残した史跡もまだまだ多い。

ぜひ再訪したい国である。

 


種子島行 #5 種子島家のこと 

2016年10月16日 | 取材・旅行記

種子島二日目、夕方高速船が出るまで近隣を散歩。

種子島は戦国以来、種子島家が治め続けその城下が西之表港あたりにある。

 

ホテルの裏山を登っていくと種子島家の本源寺墓地。

 

隣に栖林神社があり、ここは種子島に甘藷をもたらした藩主を祀っている。

甘藷は要するにサツマイモであるが薩摩には琉球から伝わった。

琉球では飢饉対策として大いに耕作されたが、本土に伝わり大いに伝播したのは青木昆陽の時。

薩摩イモよりも琉球イモと呼んだ方がいいのだろうが、琉球は公式に日本ではなかったからだろうか。

本源寺の裏手、さらに丘を登ると赤尾木城跡。

種子島家の本城である。

種子島家は平清盛の孫行盛の子信基が祖というらしく、北条時政の養子となって種子島に封じられたという。

家紋は三つ鱗である。

 

種子島の戦国時代はのどかなもので隣の屋久島も含め、小さな相続争いくらいしかなかった。

よって鉄砲が伝来しても使用の機会がなく、親分の島津家がそれを運用した。

江戸時代の種子島は種子島家が島津配下の臣として治め、無難に明治になった。

 

 

城址はすっかり小学校となっていて土塁の面影が残っているくらいである。

 

城山の西側に「鉄砲館」なる資料館がある。

 

ここは鉄砲関係の資料が豊富にある。

伝来経緯ももちろん、製造方法から運用まで。

さらに古今東西の飛び道具の変遷など実物で学ぶことができる。

ぜひ東京に出開帳してもらいたい。

 

 

幕末維新の戦闘で使われた洋銃などこのように展示されており壮観。

中でも万感の想いは「初伝銃」。

本物かどうかなどは無粋なことで門倉岬の景観と初伝銃の実見でこの旅は満腹。

 

次に鉄砲館から城山の北側に廻ってみると「月窓亭」という旧家がある。

羽生道潔という人が1795年に建てたもので明治維新により島を離れた種子島家当主が島に戻る際、屋敷として使われた。

現在は市の所有となり公開されている。 

 

 

 

 

司馬遼太郎の傑作エッセイ集、街道をゆくシリーズに「種子島みち」があり、司馬さん一行が月窓亭で種子島家の人達と酒宴をはった話がつづられている。

二階部分の小さな部屋がその会場で司馬さんの色紙が飾ってあった。

係の人と話などするうちにスコールが来た。

 

できれば種子島の鉄で鍛えたハサミなど土産にしようと思ったがよいものに出会えず、安納芋のお菓子をあれこれ買い込んで港へ。

 

今日は種子島から指宿港に行く。

船は「ロケット」という船名。

出港時は雨が止んでいたものの薩摩半島がみえてくるころには結構な雨。

指宿港に入港前には晴れ間が出て虹が出た。

 

 

思えば種子島とは鉄砲伝来の地であると共に現代のロケット発射の島でもある。

いずれも何やら「ぶっ放す」代物でその辺、コラムのオチにしようと思ったりした。


種子島行 #4 鉄砲伝来 −門倉岬−

2016年10月15日 | 取材・旅行記

鉄砲伝来は天文年間(1543)のこと、種子島は門倉岬に漂着したポルトガル人から領主種子島時尭にもたらされたというのが定説。

疑ってしまうとキリがないが、この説には異論続出。

「普及が早すぎる」「それ以前から南蛮貿易で入ってきた」等々。

鉄砲の実戦投入は富裕な戦国大名が細々と開始。

石山合戦(1570)あたりが集中運用の草創期とすると30年足らずで大量生産、流通できていたことになる。

平成28年を起点に考えれば平成元年あたりの伝来ということになる。

同じような時間軸で考えるとPCやインターネット、携帯電話などが考えられよう。

そう考えると爆発的普及、コモディティ化の時間軸は鉄砲も「ありえる」かなあと思ったりもする。

 

ともあれ戦国大名が鉄砲を「種子島」と呼んでいたことは確かであり、種子島ブランドが鉄砲の代名詞ではあった。

真実はどうせわかろうはずもないので、読み解く人の勝手でいい。

 

 

一帯は公園として整備されており紀功碑や銅像、展望台などがある。

 

門倉岬は想像していたように断崖絶壁である。

雨交じりの潮風が強く渺々たる海原と相まって凄絶な風景。

この一瞬を実感するために今回の旅があるようなものであり、大きな達成感があった。

南蛮船が漂着したという浜は岬から東の砂浜だといい、岬からは見おろす形になる。

漂着の知らせを受けた番人は役人を呼びに走り、西村某がポルトガル人明人と筆談したという浜がきれいにみえる。

その後の物語は種子島家がまとめた「鉄炮記」に詳しい。

 

公園から少し行くと伝来の浜に降りられる階段があったので行ってみた。

種子島家の末裔の揮毫による記念碑があった。

手抜きのない、いい仕事である。

他は何もない砂浜でしかないが伝説の地というのは立っているだけで妄想がわらわらと湧いてくるものである。

この妄想を連載に使おうと思う。

 

 

さて、門倉岬を堪能して時刻は13:00。

次は種子島宇宙センターに行ってみる。

10kmほどの距離なのですぐに到着。

間抜けなことにツアーの申込みを忘れており参加できず。

発射場は少し北にある。

併設の資料館に寄って終了。

 

次に東海岸にある広田遺跡を訪ねる。

弥生時代後期の遺跡で付属するミュージアムが何とも心地よかった。

 

 

これで今日の予定は終了。

レンタカーを返して宿に歩いて行く。

宿は割烹ホテルいのもと併設のビジネスホテル。

夕食は近所にぶらぶらと出かけ、適当にすませた。

 

 

 

 

 


種子島行 #3 薩摩の船旅

2016年10月15日 | 取材・旅行記

二日目はいよいよ種子島に渡る。

早起きして港まで歩いて行く。

天気は今日もよくはないが桜島が目の前にどーんと構えている。

 

船は高速船、「トッピー2」。

トッピーとはトビウオの意でこの船の性能を表している。

動力源としてジェットエンジンを使い、海水を放出して動く。

海中には水中翼があり揚力を生み出し船体を浮かせる。

このため、外から見ると船は船底まで空中にあり空を飛んでいるように見えるのである。

全長27.4m、163トン、最高速度は時速45kmという。

 

鹿児島港を出港した船は薩摩大隅両半島の間をゆるゆると行く。

幕末の頃、薩摩藩が要所に砲台を築き攘夷に備えた。

実際にイギリス艦隊が侵入、錦江湾で大砲撃戦を展開するのであるが、こうして現場検証してみるとなかなか勇気の要る航路といえる。

 

 

右手に開聞岳がみえてくるといよいよ外洋に出て行くことになる。

波が荒く船は盛大に揺れ、船酔いを通り越して怖いほど。

揺れるままに屋久島に停船。

半分ほど乗客が降りる。

外国人も散見され、トレッカーの装備をしている人が多い。

 

再び発進、馬毛島を左にみて港に向かっていく。

種子島は起伏が乏しく平たい。

南海の島として珍しく耕作に適していて米が豊富に取れ、二期作が可能。

おかげで米に困った薩摩藩に可愛がられた。

薩摩はもう少し南の奄美群島を琉球から取り上げ、相当にあくどいことをやったが、種子島までは同朋意識があったのではなかろうか。

 

無事に西之表に停船、上陸。

港内でレンタカーを借りて門倉岬に出発。

クルマはHONDAのフィット、小型車だがなかなか居住性がよく走行も快適。

種子島はひまわりの種のような形をしており、中程までは西の海岸線を行く。

天気が悪いのが残念であるが、交通量もごく少なくほぼひとり旅。

 

途中、坂井神社に寄り、日本一という大ソテツを見物。

 

 

次に近くにある国の重文「古市家住宅」を見学。

種子島最古の住居である。

切妻の平屋で本土のそれとさほど変わらない。

弘化3年(1846)の築というから幕末の動乱前夜の頃である。

 

 

 

古市という姓は大阪に多く、この古市家は戦国時代に種子島家の招きで来島したとある。

鉄砲伝来程ない頃で、いろいろ妄想が膨らむ。

 

ちょうど雨が降ってきたので雨宿りがてら茫々としていたら、庭掃除を終えた方がやってきた。

屋敷の維持をやっている近在の方で、しばし世間話などした。

旅の途中、こうした何気ないほのぼのとした時間は何とも心安らぐ思いである。

 

さらに南下、丘の上を走って行くと島の南端に向かってゆるやかに道が下っていき、その先に海が見えた。

なかなかドラマティックな景観といえよう。

坂を降りるとそこが門倉岬。

鉄砲伝来の地である。


北九州の島巡り #1 博多まで

2016年09月23日 | 取材・旅行記

博多を起点に壱岐対馬の島ふたつと福岡の一ノ宮を巡ろうと思った。

今年は天候がずいぶん通年と違い、日程が組にくかったのであるが、どうやら雨はなさそうだ。

 

おおまかな予定は、博多空港に入った後、宗像神社に行きあまりの時間で博多近辺の寺社を回って博多泊。

翌日は船で壱岐に渡って壱岐に泊。3日目は壱岐から対馬に船で渡り、対馬泊。

最終日は対馬から博多に船で戻って夜の便で東京に帰る。

 

慌ただしいかもしれないが、概ね各所の雰囲気はわかるのではないかと思った。

 

朝、五時起でJAL307便、8:20分発に搭乗。

ほぼ時刻通りに離陸した。

天候が曇りだったので冨士山は見えなかったが、四国を横切るあたりから雲が切れた。

一度海に出て宗像大社の中津宮がある大島を右手にみて左旋回、博多湾を南北に縦断してアプローチ、着陸した。

 

福岡は空港から市内が近い。地下鉄で二駅だから気持ちを整える前に東京と変わらぬ喧噪に放り込まれるのがいつ来ても戸惑う。


秋の取材思案

2016年08月26日 | 取材・旅行記

JALのマイレージの有効期限切れが刻々と迫っている。

この夏はネコの調子が悪かったため、猛暑の中放置するのもかわいそうなどと考えてしまい、外出を控えていた。

8月末までに予約を終えなければならぬため、意を決した。

 

9月23日から福岡経由、対馬壱岐

10月14日から鹿児島経由、種子島

 

どちらも島は未訪問。

本来、クルマで自走して行くのがポリシーではあるが、島には行けぬ。

 

台風シーズンであるから予定変更はありうる。

船に乗るのが楽しみでもある。


泉州紀州参詣 3日目 #5 空の旅

2016年07月20日 | 取材・旅行記

中山寺から伊丹空港へは30分くらいの所要時間。

16:25のフライトなのでまだ余裕があるが、空港に行ってしまうことにした。

 

空港内でお好み焼きの遅い昼食。

久しぶりの大阪お好み焼きだった。

 

定刻通りにTake off。

右側の窓から大阪城が見え、縄張がよくわかっておもしろい。

生駒山地を越えていくところも、奈良と大阪の関係がわかりやすい。

伊勢湾を抜けてしまうと海ばかりの光景になり、東京湾上空で旋回に入るとやおらアクアラインが視界に入る。

無事到着で帰宅。

 

寺社仏閣三昧の三日間で、クルマを使わない巡礼というものもおもしろいと思った。

夏場は体力の消耗が激しいので安全面からもいいと思う。

 


泉州紀州参詣 2日目 #4 和歌山電鐵貴志川線

2016年07月19日 | 取材・旅行記

和歌山電鐵は南海電鉄から貴志川線を譲渡されて誕生したローカル鉄道である。

この路線はねこを駅長として採用し、勤務させたことで注目された。

いわば地域再生の成功事例ということだが、ネコ好きにとって見逃せない美談である。

 

たまという三毛猫に駅長のコスプレをさせ、乗客とふれあいの場を提供するというアイデアで、それをネコの健康も考えて真面目に取り組んでいるところがいい。

たま駅長はネコブームの先駆けといえるもので「ネコが流行っているから使おう」というあざとさがなかった。

練られたマーケティングにもとづくものではない。

たまは貴志駅近くのお店で飼われていたが、駅舎と周辺の再開発で家を失い、困った飼い主が新たな社長に相談、ひらめいた社長が駅長として働いてもらうということにした。

たまは期待以上の精勤ぶりで新生和歌山電鐵の乗客増に貢献し、とある民間試算では11億円の経済効果をもたらしたという。

 

前回和歌山に来たときは残念ながらたまに会えず、たまは昨年死んでしまった。

16才だったというからネコにしては割と長寿といえる。

今は2代目駅長ニタマが貴志駅で勤務している。

ニタマは保護された野良ネコで伊太祈曽駅に勤務しつつたまの休日に貴志駅で駅長代理をやったりしていた。

たまの死で貴志駅長に昇格したのである。

 

一日乗車券を買ったので和歌山駅からニタマが勤務中の貴志駅まで行ってみた。

やってきたのは「うめ☆電車」で紀州名物梅干をモチーフとした車輌でなかなかよくできている。

 

単線の線路をごとごとと貴志駅までいくと予想通りのにぎわい。

ニタマは駅舎の中の涼しいところで昼寝をしていた。

駅構内にグッズ販売をする一角があり、観光客で一杯だった。

ほとんどが若者で海外旅行者と思わしき人も多い。

私のようなひねくれ者のネコ好きからすると「流行っているから来る」というのはちょっと違うと思ってしまうのだが、売上に貢献しているなら結構なことかと思う。

 

少し土産を買って来た電車の折り返しに急いで乗った。

「たま電車」が来て、車輌内部はたまのキャラクタで埋め尽くされていた。

イキった高校生が長いすで寝ながらスマホゲームに興じていた。

そもそもが生活路線と路線沿いにある神社の参詣用というのが貴志川線の主要客層だと思われ、ネコ好きだけの路線でもあるまい。

ネコブームが去った後の貴志川線の将来が危惧される。

 

たま電車


泉州紀州参詣 1日目 #1 空の旅

2016年07月18日 | 取材・旅行記

大阪に行く。

それに落ち着くまでにずいぶん悶々とした。

JALのマイレージ消化第三弾という目的からスタートである。

沖縄に行き、長崎発訪問とやってみて、季節柄北海道などよかろうとも思われるがどうも気が乗らない。

日本100名城巡りは終わり、一ノ宮巡礼と西国遍路を実施中。

47都道府県は全て訪れ、駆け足過ぎて残念だった町もある。

飛行機で行くなら離島がいい。

そんなことを考えながら、現実逃避のように関西に出かけることにした。

クルマで行ってもそれほど苦でもない近場であるが、都心部など電車で行った方が駐車場や渋滞のことなど考えなくてすむ利点もある。

 

最初は関空から和歌山に出て、西国二番紀三井寺、三番粉河寺に詣で、北へ行き和泉一ノ宮住吉大社あたりを歩くのもいいと考えた。

実は100名城訪問は、城見物は終わっているのだが登城の証となるスタンプは99個、大阪城は宿にスタンプ帳を忘れるという大失態があって未押印なのであった。

ついでにこれを終わらせたい。

それに毎月18日は葛井寺の縁日で本尊が御開帳なのである。

それも日程に混ぜよう。

とすれば伊丹から行った方が楽である。

 

総合すると、伊丹空港→大阪城→葛井寺→住吉大社→和歌山方面→関空

とすると一筆書きになりそうである。

ところが関空は羽田便が少なく、予約状況では夜最終便がほぼ満杯。

長崎に行ったときのように窓からの風景がみられないのもつまらんので便数が多く窓際がとれる伊丹往復便で確定させた。

 

羽田発が7:30なので最寄り駅は始発である。

(ほぼ定刻通りの出発であったが、その時緊急着陸で滑走路が一本閉鎖され随分混乱していたと後で知った)

 

座席が右後方、航路は本州の海岸線のあたりを飛んでいくらしい。

箱根辺りから雲の上の真っ黒い富士山がみえた。

その後、岡崎の上空を行き、濃尾平野が伸び伸びとみえた。

知多半島の上空を横切り、松阪の上空、奈良盆地と進んで伊丹に着陸した。

1時間くらいの所要時間であったが阿呆のように窓に顔をくっつけながら終わってしまった。

今日は暑そうである。

 

  

東京湾

 

中央2本の川の合流点が岡崎城あたり

 

知多半島、島のような陸地がセントレア

 

雲出川河口


長崎探訪3日目 #7 空港にて

2016年07月08日 | 取材・旅行記

丸々3日間の長崎は想像以上におもしろく有意義だった。

長崎は町域が狭いこともあろうが、公共交通機関が充実していて移動に便利である。

ここ数年、クルマで旅をすることがほとんどになっていたが、電車バスの旅というのもいいものだ。

原爆について考え込んだこともいい経験といえよう。

 

空港には出発2時間くらい前に着いた。

土産はホテルの前にあった元亀堂本舗のカステラをいくつか買い込んだ。

他に中華街の月餅、アゴだしラーメンなど。

 

何とも残念なことに飛行機の座席が窓側なのに窓がない。

おかげで本を読み終わらないうちに羽田に着いた。

 


長崎探訪3日目 #6 長崎奉行所跡

2016年07月08日 | 取材・旅行記

三菱造船所から長崎駅に戻って15:00。

20:30長崎空港発の便で帰るため、後ひとつくらい回るかと思い長崎奉行所跡にある長崎歴史文化博物館に行ってみることにした。

 

諏訪神社から坂を少し下ったところにある博物館はかつて幕府直轄の長崎奉行所館山役所があった。

役所は一部が復元されており、畳敷きの間に長崎貿易で入ってきた舶来の物品など陳列されている。

日本からの輸出される産物の主力となった棹銅の見本が私にはうれしかった。

 

雨が依然降り続く中、 ホテルに戻り帰り支度。

 

    

 

   


長崎探訪3日目 #3 長崎原爆記念館

2016年07月08日 | 取材・旅行記

長電で長崎駅前まで戻り、喫茶店でモーニング。

お寺ふたつ詣でてまだ朝の10時である。

 

さて、原爆資料館である。

長電の浜口町から少し坂を登っていくと原爆資料館。

広島の資料館には行ったことがある。

予備知識もあまりない20代の頃のことだが、相当の衝撃があった。

エノラゲイをみるためにワシントンD.C.にも行った。

東日本大震災を経験し、身近なところで放射線の恐怖も体験した。

核爆弾のもたらす惨禍については机の上の耳学問はないよりもあった方がいいが、それがある現代人にとっては現地体験に勝るものはない。

よって長崎に来たからには昭和20年8月9日の追体験を自分なりにしなければならない。

 

50代になり、世界情勢も代わり自分の価値観も相当に変わった。

最近、特に思うのは「この世はもはや私のものではなくなりつつある」ということである。
「人間50年」の時代でもないし、80まで生きられるかもしれないのだが、社会全体に対する影響力を持てるほどの器でない今、「他人に対してこうせよ」「あれをやるな」などと言える立場ではないように思う。
核兵器を語るに、あるいは戦争の善悪を語るのに資格というか条件というか、現実はある。
それは「自分が戦争に行って敵の人間を殺せるのか」であって、私のような50過ぎの老眼の男はもはや徴兵されて訓練を受け、武器を与えられてということはないであろう。
だから「戦争に行かない自分」には戦争をやれという資格はないし、「戦争は反対だ」と頑固に言い張り、敵が攻めてきたら日本まるごと無抵抗に降伏しろという資格もない。
それらは命を張って戦争をやらされる若い人世代が考え決めるべきである。
 
核兵器は私の生きている間には廃絶されることはまずなかろう。
使われる可能性の方がはるかに高い。
核兵器を開発し、使ってしまい、まだ持っているというこの70年は人間が犯したもっとも愚かな罪である。
全ての日本人、核を持っている国の指導者、彼等を選ぶ人全てに伝えたいのは「使うとどうなるか、わかった上で判断せよ」であり、これ以外のメッセージが今のところ思いつかない。
 
資料館では原爆投下の状況や被害状況などが客観的に淡々と綴られている。
ファットマンの実物大模型や内部構造なども紹介されている。
もちろん、熱線と爆風により原型が大きく変わった物体も置いてある。
大量破壊兵器は冷静な判断が狂ってしまうような事実を突きつける。
年末までの死傷者15万人、当時の長崎市の人口の約半分が失われた。
これは原爆の破壊力を意味するわけではなく殺せる範囲にいた人の数を示す。
つまり100万人いれば100万人が死ぬのである。
長崎より広島の方が死傷者が多いのは平野で人が多かったのに過ぎない。
原爆では爆心地近くにあった教会が粉砕され、捕虜となっていた米軍人も当然死んだ。
そうした事情を考慮し得ないほどに倫理が麻痺してしまう。
 
二日間、市街地を歩き回ったお蔭で原爆被害の軽重が体感できたことは大きかった。
浦上地区の上空500mから放射状に放たれた熱線が届く範囲が被害が及ぶ地域となる。
山陰のものは被害が少なく木造建造物も残った。
 
「原爆反対」ということでいえば、国際的にはHiroshimaの方が認知度が高いような気がする。
最初の使用ということもあろうが、Nagasakiの方がキリスト教の影響もあってか平和の強調度合いが強いような気がする。
 
大量破壊兵器については自分で結論を出すしかない。
賛成か反対かといえば国境民族を越えて「反対」の方が率は高いはずだ。
ところが「相手があなたの町に使ったら」「家族が殺されたら」と条件をつければその率は逆転することだろう。
戦争も同じ事であって軍国主義者はそこを利用する。
そう遠くない将来、日本にも「他国と戦争するか」「核兵器を持つか」との現実的な選択が迫られるはずである。
何せ、第二次大戦後今日までという数十年の時期は日本の有史以来、初めて他国と戦争しなかった珍しい時間なのである。
 
雨の中、平和公園にも行ってみた。 
途中、防空壕跡があり、偶然その中にいて熱線を避けられた人は生存したとのことである。
平和祈念像のあたりは中国人観光客で一杯だった。
 
 
 
     
グラウンドゼロ直下の記念碑
 
浦上天主堂遺壁

長崎探訪2日目 #5 グラバー園など

2016年07月07日 | 取材・旅行記

眼鏡橋最寄りの賑橋駅から長電で石橋まで行く。

山を少し登ったところがグラバー園。

グラバースカイロードという斜行エレベータで上った。

グラバー園は世界遺産のひとつともなっているグラバー邸に加え、いくつか洋館を移築したもので構成されている。

愛知県民からすると「小さな明治村」といったところである。

 

 

グラバー邸あたりから港をみると三菱造船所が真正面にみえる。

往時は長崎港に出入りする船が一望でき、商人の館としてはうってつけといえる。

近頃、爆買いで話題の中国人観光客の姿も顕著で港の一角を超大型豪華客船が停泊しているのが間近にみえる。

園の裏手が国宝指定の大浦天主堂。

つい原爆被害を考えてしまうが、本体は無事でガラスが割れたという。

 

天主堂の扇風機で体を冷やしているうちに時計は16:00を回った。

海岸通りに降りて行く途中に「軍艦島デジタルミュージアム」という施設があり、つい入ってしまった。

これは大失敗、デジタル系のミュージアムにありがちな「体験もの」は所詮リアル体験にはかなわない。

 

少し早いが四海楼という大きなレストランで今日もちゃんぽん。