扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

長崎探訪3日目 #3 長崎原爆記念館

2016年07月08日 | 取材・旅行記

長電で長崎駅前まで戻り、喫茶店でモーニング。

お寺ふたつ詣でてまだ朝の10時である。

 

さて、原爆資料館である。

長電の浜口町から少し坂を登っていくと原爆資料館。

広島の資料館には行ったことがある。

予備知識もあまりない20代の頃のことだが、相当の衝撃があった。

エノラゲイをみるためにワシントンD.C.にも行った。

東日本大震災を経験し、身近なところで放射線の恐怖も体験した。

核爆弾のもたらす惨禍については机の上の耳学問はないよりもあった方がいいが、それがある現代人にとっては現地体験に勝るものはない。

よって長崎に来たからには昭和20年8月9日の追体験を自分なりにしなければならない。

 

50代になり、世界情勢も代わり自分の価値観も相当に変わった。

最近、特に思うのは「この世はもはや私のものではなくなりつつある」ということである。
「人間50年」の時代でもないし、80まで生きられるかもしれないのだが、社会全体に対する影響力を持てるほどの器でない今、「他人に対してこうせよ」「あれをやるな」などと言える立場ではないように思う。
核兵器を語るに、あるいは戦争の善悪を語るのに資格というか条件というか、現実はある。
それは「自分が戦争に行って敵の人間を殺せるのか」であって、私のような50過ぎの老眼の男はもはや徴兵されて訓練を受け、武器を与えられてということはないであろう。
だから「戦争に行かない自分」には戦争をやれという資格はないし、「戦争は反対だ」と頑固に言い張り、敵が攻めてきたら日本まるごと無抵抗に降伏しろという資格もない。
それらは命を張って戦争をやらされる若い人世代が考え決めるべきである。
 
核兵器は私の生きている間には廃絶されることはまずなかろう。
使われる可能性の方がはるかに高い。
核兵器を開発し、使ってしまい、まだ持っているというこの70年は人間が犯したもっとも愚かな罪である。
全ての日本人、核を持っている国の指導者、彼等を選ぶ人全てに伝えたいのは「使うとどうなるか、わかった上で判断せよ」であり、これ以外のメッセージが今のところ思いつかない。
 
資料館では原爆投下の状況や被害状況などが客観的に淡々と綴られている。
ファットマンの実物大模型や内部構造なども紹介されている。
もちろん、熱線と爆風により原型が大きく変わった物体も置いてある。
大量破壊兵器は冷静な判断が狂ってしまうような事実を突きつける。
年末までの死傷者15万人、当時の長崎市の人口の約半分が失われた。
これは原爆の破壊力を意味するわけではなく殺せる範囲にいた人の数を示す。
つまり100万人いれば100万人が死ぬのである。
長崎より広島の方が死傷者が多いのは平野で人が多かったのに過ぎない。
原爆では爆心地近くにあった教会が粉砕され、捕虜となっていた米軍人も当然死んだ。
そうした事情を考慮し得ないほどに倫理が麻痺してしまう。
 
二日間、市街地を歩き回ったお蔭で原爆被害の軽重が体感できたことは大きかった。
浦上地区の上空500mから放射状に放たれた熱線が届く範囲が被害が及ぶ地域となる。
山陰のものは被害が少なく木造建造物も残った。
 
「原爆反対」ということでいえば、国際的にはHiroshimaの方が認知度が高いような気がする。
最初の使用ということもあろうが、Nagasakiの方がキリスト教の影響もあってか平和の強調度合いが強いような気がする。
 
大量破壊兵器については自分で結論を出すしかない。
賛成か反対かといえば国境民族を越えて「反対」の方が率は高いはずだ。
ところが「相手があなたの町に使ったら」「家族が殺されたら」と条件をつければその率は逆転することだろう。
戦争も同じ事であって軍国主義者はそこを利用する。
そう遠くない将来、日本にも「他国と戦争するか」「核兵器を持つか」との現実的な選択が迫られるはずである。
何せ、第二次大戦後今日までという数十年の時期は日本の有史以来、初めて他国と戦争しなかった珍しい時間なのである。
 
雨の中、平和公園にも行ってみた。 
途中、防空壕跡があり、偶然その中にいて熱線を避けられた人は生存したとのことである。
平和祈念像のあたりは中国人観光客で一杯だった。
 
 
 
     
グラウンドゼロ直下の記念碑
 
浦上天主堂遺壁

最新の画像もっと見る

コメントを投稿