万感満腹のまま、座喜味城の方へ行く。
東海岸寄りの中城から西海岸へ出て海沿いの道を行く。
この辺りは道路も広く、南国の木が植えられていてアメリカのハイウェイのようである。
ロードスターの運転にも慣れてきた。
オープンカーの運転は人生初めてである。
助手席を含めても一度、IさんにBMWのZ4に乗せてもらったことがあるだけで新鮮この上ない。
屋根がないということは風の流れを感じるという要素があり、視界を遮るものが横より後は何もないという要素がある。
運転していて気に障るのは車線変更やバックする際、Cピラーなどで死角ができることだが、オープンカーにはそれが全くない。
デメリットはというと「他人からみられる」とよく言われるが、元々私は、車を運転するとき、モノを考える癖があり、他をみる習慣があまりないから意外に気にならない。
強いていえば、オーディオをつければ何を聞いているか停車時低速走行時に周りに丸わかりであることだろうか。
視線と同義ともいえるが、開き直ってしまえば何でもない。
デメリットの最大のものは「暑い」ことに尽きる。
まだ3月初旬であるため、夏の暑さはないが、それでも陽が出ていれば相応に暑い。
今、委託販売にかけている335iが首尾良く売却できたら次はオープンカーもいいかもと思ったりした。
海岸を流していて気づいた。
沖縄のドライバーはエアコンを使わず、窓全開でいる人が多いようだ。
また派手な音楽をドンドンやっている人もこれまた多い。
座喜味城に行く前に寄り道し、嘉手納基地を眺める。
航空機マニアには有名な撮影スポットである「道の駅かでな」の屋上から嘉手納基地の滑走路が丸ごと見渡せる。
嘉手納基地は米空軍の基地で4000m級の滑走路が2本あり、極東最大級の空軍基地である。
面積でいえば嘉手納町の82%が基地であり、巨大な弾薬庫、貯油施設も入っている。
ここには旧日本軍の飛行場があり、米軍が上陸後真っ先に侵攻占領した地域である。
航空写真の地図でみると北谷町と読谷村の間にあり、比謝川と基地の外周の間に沖縄住民の生活空間が挟まれている。
今日は離着する航空機も駐機している機も少ない。輸送機とセスナが1機づつ離陸していったのみである。
嘉手納基地といえば私的なイメージがある。
それはB52の禍々しい姿である。
ベトナム戦争は私の世代では初めてライブで体験したアジアの実戦となる。
太平洋戦争終結後、すぐに始まったベトナムの独立運動はフランスとの戦争に発展、さらに南北分裂の事態を招くと米国は北爆を開始した。
その頃、生まれた私が物心つき、学校に通うようになってもかの地の紛争は収まらず、米軍が泥沼
にはまり、1973年遂にベトナムから撤退する。
75年、サイゴンが陥落してベトナム戦争が終わったとき、私は11才。
インターネットもない時代、情報源は限られていたが、B52が8基のジェットエンジンから黒煙を吹きながら離陸していく姿は今でも記憶の奥の方に刻まれている。
沖縄は朝鮮戦争同様、ベトナム戦争の前線基地としてフル活用され、嘉手納基地から飛び立っていった。
今もB52は運用継続中で嘉手納基地には配備されていないはずだが、世界のどこかで羽根を休めている。先般、緊張高まる南シナ海で中国牽制のために飛んだのがB52だった。
B52の全長は48.5m、全幅が56.4m、B29がそれぞれ30.2m、43.1mであるから比較にならないほど大きい。
まさにストラトフォートレス(成層圏の要塞)である。
私は実機を目の前にしたことはないが、B29ですらあほらしいほど大きかったのだから想像はつく。
また、プラモデルも造ったことがある。1/100スケールだったと思うがそれでも相応のでかさで天井から釣ったものの、もてあまして屋根裏に放ってある。
嘉手納の滑走路は海方面から着陸、山方面に離陸していくのだと思うが、危険は危険で過去に爆弾を積んだままのB52が墜落大爆発事故を起こしている。
現在の基地問題についてはやはり「軍用基地などない方がいい、戦争はやるべきではないし、想定するべきでもない」と思う。
悩ましいのは「戦争は常に国家と共にあり、準備は怠るべきではない、獲れる領土は獲ってもいい」と考える国家は今もすぐそばにあり、決してその思想は変わらないだろうということである。
子供を守って戦うという父の心、子供の命は何があっても失いたくないという母の心もまた不変であるから戦争問題は難しい。
座喜味城へオープンエアドライブの道々、嘉手納の滑走路とB52の幻影を重ねながらいろいろ考えた。
嘉手納基地全景