扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

長崎探訪2日目 #4 眼鏡橋

2016年07月07日 | 取材・旅行記

風頭公園には龍馬像やら司馬遼太郎の文学碑やらがあるというが、あまりの暑さに断念して山を降りる。

山腹は寺町になっていて階段の脇は墓地である。

中島川の手前まで来ると坂は終わる。

この川にはいくつも橋が架かっていい景色を成している。

最も有名な橋が眼鏡橋。

この橋は日本初のアーチ式石橋である。

技術は中国の禅寺のものという。

近くに黄檗宗の興福寺があり、黙子如定禅師住持の時に造作された。

当時の長崎は市中の人、6人に1人は中国人というほどで彼等の信仰のためにいくつもの中国風寺院が建立された。

興福寺には京の万福寺にて日本の黄檗宗を開いた隠元がしばし滞在したという。

興福寺には残念ながら参詣できなかったが、原爆の被害を免れた本堂がある。


さて、興福寺を忘れたのは腹が減っていたからでもある。

眼鏡橋の側にあった「きっちんせいじ」という店で長崎名物トルコライスを昼食にした。




長崎探訪2日目 #3 亀山社中跡

2016年07月07日 | 取材・旅行記

鳴滝塾跡から亀山社中跡に歩いて行く。

 

長崎は坂の街とよくいわれるとおり、急な坂やら石段やらをえいえいと登っていかねばならない。

休みがてら振り向くと諏訪神社がみえている。

中島川が流れる一帯は江戸時代から商業の中心地だったはずで亀山社中を結成した坂本龍馬たちもこうしてふうふういいながら坂を登ってきたに違いない。

最近は便利なものでスマートフォンで地図上の現在位置をみながら移動できる。

ところが長崎の細道は方向音痴ではないと思っている私にとっても難敵でずいぶん迷った。

途中、若宮稲荷神社を見つけた。

龍馬も参拝したという社で龍馬の銅像が立っている。

 

そこからまた迷い、ようやく亀山社中跡をみつけた。

「跡」といっても建物が建っている。

幕末から残っている町家といい、説明員の人によれば「亀山社中が使った可能性は高い」のだという。

日本初の商社の本社としてはずいぶん普通の家でしかなく海援隊のメンバーは通いで出社したらしい。

一室の上に階段で上る隠し部屋がある。

亀山社中の結成は慶応元年のこと、龍馬が京都で死ぬのが慶応3年、2年と少ししか龍馬の命はなかったことになる。

しかしわずかな寿命の中で龍馬は多くのことを成した。

 

社中は風頭山の頂上付近にあり、今では樹木でよくみえないものの往時は長崎港を見下ろす眺めのいいところだった。

 

      


長崎探訪2日目 #2 シーボルト邸

2016年07月07日 | 取材・旅行記

諏訪神社前から長電に乗り蛍茶屋で下車。

少し山の方へ行くとシーボルト宅跡。

シーボルトは幕末の日本人に大きな影響を与えた人であることはいうまでもないが、このドイツ人がはるばる極東の島に興味を持って来訪し、出島の外に居を持ったという過程を考えると奇跡のような感がある。

長崎に来たからにはここを訪れざるを得ず、異能のドイツ人がどんな風景をみて異国で過ごしたのかに興味があった。

 

住宅街から道をそれ、少し登るとシーボルト邸跡。

整地されているが草深く人が住んでいたような気配はない。

傍らにシーボルトの銅像が立ち、左手を険しい顔で見上げている。

これは二度目の来日時、63才の頃の姿であろう。

日本人が描いた肖像画にみるシーボルトは線の細そうな青い瞳の青年然としているから多少違和感がなくもない。

意志の強い人ではあった。

ドイツのど真ん中バイエルンのヴュルツブルクで生まれ育ったシーボルトの出発点は医者であった。家柄がいい。

しかし植物学に異常な興味を持つようになる。

「東洋の草花を見たい」との情熱で彼はオランダのハーグに出て運動し、国王のつてでオランダ軍の軍医となった。

文政5年(1822)にオランダを出発し喜望峰を回ってインドに出た。

翌年インドからジャカルタ経由で出島のオランダ商館付医師となって来日した。

この頃の日本は11代将軍家斉の治世。町人文化が花咲く頃である。

出島に着いたシーボルトは入国審査に際して「オランダ語が変だ」と気づいた奉行所の役人に「私は山の方のオランダ出身なので訛っているのです」と機転を利かせて切り抜けたという。

精力的に活動し、日本の役人にも信任を受け出島を出て日本人にふれることさえ許された。

「出島から出てはならぬ」が国法の長崎にあって随分緩い応対である。

少なくとも危険な人物と思われなかったことはわかる。

彼は鳴滝に邸宅を設け私塾を開いた。

おそらく「日本人を救うため診療所を設けたい」が立て前で本音は念願の植物研究であったのだろう。

 

「出島外に蘭人がいて学べるらしい」と評判になり俊才が集まった。

シーボルトが頭が良いなあと思うのは、そうした門人に彼は宿題を出しオランダ語で提出させた。

つまりシーボルトは先生であると共に弟子から日本のことをいろいろ学ぶことができた訳である。

 

シーボルト邸跡、すなわち鳴滝塾跡の隣に記念館が建っている。

100円という入館料にしては展示は充実しており見応えがある。

何より涼しい。

 

シーボルトが愛した鳴滝の地は随分町外れの沢のほとりである。

その方が彼が愛した草花を育てるのに適していたのであろう。

 

 

    


長崎探訪1日目 #4 夜景

2016年07月06日 | 取材・旅行記

長崎に来た理由のひとつは夜景をみることだった。

どこの街でも高いところはあり、その街なりの夜景がある。

若い頃は高いところ好きもあり、夜景をよくみた。

京都の夜景というのもなかなか乙なもので区割りが直線である京の街の姿が灯りに浮かび上がる。

神戸の夜景もいい。

六甲に登ってみれば街や工場灯りが延々と続き大阪湾まで浮かび上がっている。

 

日本人は三大何々というのが好きだが、夜景にもそれがある。

「函館」「神戸」「長崎」というのが一般的で長崎のみが未見だった。

長崎に来てみれば新世界三大夜景なるものが指定されているらしく、「長崎」「モナコ」「香港」をいうのだそうだ。

 

夜景をみるとき、最もおもしろいのは夕暮れからぼうっと街を眺めひとつひとつついていく灯りと濃くなる空の闇のグラデーションが徐々に深まる時間を楽しむことであろう。

しかし今日はそこまで暇ではないのでさっと登っておしまいにしようと思う。

梅雨の時期にしては雲一つ無い晴天である。

長崎の夜景スポットはいくつかあるようでどこにしようか迷ったのだが、まずは稲佐山から眺めてみることにする。

ホテル最寄りのバスターミナルからロープウェイ口までバスで行き、淵神社を通って乗り口に。

思ったより人出はないが、中国人韓国人観光客が喧しい。

 

ロープウェイを降りて左手に行くと展望台がある。

初めてみる長崎の夜景はやや散漫として期待外れといった方がいいかもしれなかった。

しかしながら長崎の地形がよくわかるという地理的見地からいうとおもしろい。

長崎の市街地は南北に流れる浦上川が開いた部分と東西に流れる中島川のあたり、グラバー園のあたりに分かれる様があざやかである。

湾外に出て行く方向には女神橋がライトアップされる他、三菱造船所の施設、カンチレバークレーンもあかあかとみえている。

夜景は海や川といった暗い部分が絶妙に灯りを切り取ることでその街の生活感を浮かび上がらせる。

 

ふと原爆のことを思い出した。

1945年の8月9日11時2分、米軍のB29ボックスカーが投下したファットマンが炸裂したのは浦上上空500m、数秒で一帯が焦土となった。今みている灯りのうち、左手の一帯がそこである。

長崎の史跡を考えるとき、世界遺産となっている工業施設やグラバー邸などが何故現存しているかという疑問を持っていた。

その回答は目の前の夜景をみれば氷解で、要するに山の陰になって熱線の被害を免れたのであろう。

周知のように長崎は当初の投下目標ではなく、ボックスカーが狙った小倉上空が、雲により目標変更され、さらに長崎上空に達したとき、雲間にみえた浦上に目標を小修正したため、あそこに落ちた。

 

私は歴史を調べることを半ばなりわいにしていることで時に悩む。

戦のことをよく文章にする訳だが、往々にしてそれは人殺しの容認につながる。

「昔のことだから」と言い訳をして人間は人殺しを英雄としてしまう。

長崎の惨禍から71年、それは日本史の営みからすればごく最近であり、「体験」した方々も存命であるうちはいいが、100年200年経ったときに「昔のことだから」にならないとは限らない。

私は言い伝えするための子を持たないため記憶を自分で墓に持っていくしかないのであるが、あの時あのあたりの灯りの下にいた人のことを忘れぬようにと、美しい夜景をみながら思ったりした。

 


沖縄グスク巡り 4日目 #1 沖縄県立博物館

2016年03月05日 | 取材・旅行記

沖縄最終日。

ホテルで朝食後、荷物を預けて沖縄県立博物館に歩いて行く。

 

今日は予報が雨とのことだが、今のところ降ってはいない。

博物館は開館前だったので屋外展示施設をしばし見学。

沖縄の伝統的な民家が再現されていた。

赤瓦を漆喰で留めた屋根の正面にシーサー。

シーサーは沖縄の魔除けであるが、神社の狛犬とは同源というものの違った経緯で定着したらしい。

最古のシーサーは17世紀、火事除けのために一基おかれたといい、阿吽の対になったのはその後のこととなる。

沖縄では神社仏閣が尚王朝がスタートして以降、時の王によって保護され、建立されていった。

狛犬もセットかと思うが詳しいことは今わからない。波上宮はシーサーの狛犬だったことを思い出す。

 

さて、開館時間となって博物館に入場。

2007年の開館というからまだ新しい。

博物館の前身は戦後すぐの米軍統治下の頃であり、何度か移転しながら収蔵品を増やし、拡張されていったという。

展示は歴史から風俗まで幅広く、わかりやすい。

展示品で目をひいたのは港川人の復元像。

近年、面相を変えたという。

縄文時代の様相は再考証が進んでいてどこからきたかについても様々な説が提示されている。

この顔は南方系の顔にしているようだ。

 

沖縄の歴史、特に思想面については私の知識は乏しい。

これから勉強し直しである。

 

2時間ほどかけて館内を周り、ミュージアムショップで書籍など物色していると窓の外はスコール。

傘を持っていないのでどうしたものかと思ったが、すぐに止んでしまった。

 

ホテルに戻って荷物を受け取り、ゴロゴロとカバンを引き摺って牧志駅からゆいレールで空港に向かった。

予定通りに離陸し沖縄の海が遠ざかっていくのを飽かず眺めた。

今回の旅行を元にコラムを書くのだが、神様とのふれあいを織り込みたいなどと考えているうちに羽田に着いた。

3泊4日の沖縄の旅は間違いなく最高の旅のひとつとなった。

 


沖縄グスク巡り 3日目 #6 那覇への道々

2016年03月04日 | 取材・旅行記

国道330号で那覇まで戻る。

沖縄の道は路幅も広く走りやすい。

今日も晴天で幌を開けていると帽子を被っていないとつらい。

また、本部の宿でサングラスを失っているので西に陽が傾くとこれまたつらい。

浦添まで来たところで急に雨が降ってきた。

慌てて幌を閉める。

マツダのロードスターは幌の収納が手動で、後部座席がないため運転席に座ったまま、ロックをはずし開閉作業が数秒でできる。

丸々二日間、200kmほど走行しているのだが、ほぼオープン状態である。

ロードスターというクルマはよくできている。

今、家にはe90の335iとe39のB10がいるが、それらと比べてもシャシーの弱さを感じず、操作性も悪くない。

物足りなさという点ではやはり動力性能で、1500ccの130psだと加速性能などそれなりだ。

また直列4気筒が悪いということではないが、直列6気筒やV8と比べるとどうしても迫力には欠ける。

新車で300万円前後、東京に帰ってオープンカーへの乗り換えを考えたい。

 

などと考え中に那覇市内に入る。

今日の宿はサンプラザホテル沖縄

ゆいレールの牧志駅が最寄。

ホテルに荷物を置いてから出かけ、レンタカーの返却時間、18:00までもう一箇所行けそうなので旧海軍司令部跡を訪れることにして再出発。

 


沖縄グスク巡り 3日目 #3 辺野古のこと

2016年03月04日 | 取材・旅行記

名護の辺りは本島が最もくびれた部分で東西幅は10kmくらいであろうか。

ただし、この部分は龍の背骨のように山地が南北に走っていて東西交通は山越えになる。

329号線で山越えをすると降りたところが辺野古。

道の右側がキャンプシュワブである。

東の岬の海上に滑走路を新設し、普天間基地のオスプレイなどを引っ越そうという計画の地となる。

 

ジュゴンの棲息地という辺野古岬にはもちろん行くことはできないが、ゲート付近には座り込んでいる移設反対派の人々が大勢いた。

普天間でも嘉手納でも米国の考え方は、「そもそも沖縄は戦争で米兵の血で獲った占領地」という思想があるはずだ。

日本に返還したとはいえ、基地他軍の施設は占領地のうち、返していない部分ということになろう。

分捕った土地をどう使おうが勝手だという時代ではなかろうが、人類と戦争という歴史からみればそうなる。

 

沖縄滞在で考えていることはどの海岸も珊瑚礁のいい海で、それは辺野古が特別な場所ではないということでもある。

戦争への備えで珊瑚礁を破壊することと、港湾開発やリゾート開発で破壊することとは利用方法、規模について同義ではないのかもしれないが、自然の破壊であることには変わりはない。

軍用機が絶え間なく飛行するからうるさく危険、これは自然破壊とは異質の問題で、みた通り普天間よりは人間の命の安全にとっては比較論として辺野古の方が安全ではある。

 

戦争による破壊の方が、文明的生活水準向上による破壊よりも大きい。

これは確かなのであるが戦争はやめれば破壊は終了、人間は生きている限り周囲の環境を破壊し続ける。

珊瑚礁にとってみれば人間がいないことほど、環境保全に資することはない。

 

おそらく、辺野古移設は数年の間に決着するだろう。

しかし、隣の大国が尖閣を奪い、沖縄を武力占領し、自然の破壊こそ人間の価値と考えがちな中華思想によって沖縄の美しい山海をでろでろに改変してしまう可能性もゼロではないと思う。

 

そんなことを考えながら勝連城まで50kmあまり、休憩もせずに走った。


沖縄グスク巡り 3日目 #1 古宇利オーシャンタワー

2016年03月04日 | 取材・旅行記

三日目は那覇まで戻る旅である。

できるなら最北部の辺戸岬まで行ってみたい気ももなるが次の宿題にする。

7時に出発、古宇利島に行ってみる。

この島は今帰仁北東の小さな島で全長1960mの橋を渡って行ける。 

車に乗ったまま通り抜けてしまうのが惜しいほど、両側の海は美しい。

 

島を回れば半日くらい遊べるはずだが、オーシャンタワーだけにする。

入場料800円を払うと、カート乗り場に案内され、自動で動くカートに乗って丘の上まで登っていく。

タワーに入ると、貝の展示が延々と続く。

ここは2013年にオープンというから展示方法なども工夫されていてわかりやすく見やすい。

展示の中にゴボウラがあった。

これらは縄文時代から弥生時代にかけて沖縄の主要輸出品だった。

貝を加工して腕輪にし、ヤマトの王族を飾った。

古墳から出土する。

ヤマトが中央国家を造り、仏教が伝来すると大陸から仏像もやってきて、寺ができた。

「これからは金属が権威を示す」そういう時代になるとゴボウラやイモガイは流行遅れとなり廃れた。

ヤコウガイを使った螺鈿が寺院を飾るようになった。

島人は「それは島でとれる」とヤマトに営業をかけて再び貝ビジネスが花開いた。

そんな歴史のことを考えながら貝のあれこれをみていると見事な赤珊瑚が展示してあった。

値札までついていて20〜30cmのものは100万やら200万するらしい。

中国の違法漁船が小笠原まで出張るのもさもありなん。

 

展望台からの眺めは素晴らしい。

海抜82mから遠目にみてもブルーラグーンの海が美しい。

古宇利島には神話があり、アダムとイブのような人類創生話になっている。

辺戸岬あたりなど見ながらスタンドのコーヒーを飲んだ。

タワーの出口にはやはり土産物が並ぶ。

特産品のカボチャの饅頭を買ってみた。

 

今日のメインは勝連城にしている。

道々、どれだけ道草できるか楽しみでもある。

コンドミニアムの部屋から、向かいが美ら海水族館

 

  

古宇利大橋

 

展望台から

 

    

 

自動カート


沖縄グスク巡り 2日目 #5 嘉手納基地のこと

2016年03月03日 | 取材・旅行記

万感満腹のまま、座喜味城の方へ行く。

 

東海岸寄りの中城から西海岸へ出て海沿いの道を行く。

この辺りは道路も広く、南国の木が植えられていてアメリカのハイウェイのようである。

ロードスターの運転にも慣れてきた。

オープンカーの運転は人生初めてである。

助手席を含めても一度、IさんにBMWのZ4に乗せてもらったことがあるだけで新鮮この上ない。

屋根がないということは風の流れを感じるという要素があり、視界を遮るものが横より後は何もないという要素がある。

運転していて気に障るのは車線変更やバックする際、Cピラーなどで死角ができることだが、オープンカーにはそれが全くない。

デメリットはというと「他人からみられる」とよく言われるが、元々私は、車を運転するとき、モノを考える癖があり、他をみる習慣があまりないから意外に気にならない。

強いていえば、オーディオをつければ何を聞いているか停車時低速走行時に周りに丸わかりであることだろうか。

視線と同義ともいえるが、開き直ってしまえば何でもない。

デメリットの最大のものは「暑い」ことに尽きる。

まだ3月初旬であるため、夏の暑さはないが、それでも陽が出ていれば相応に暑い。

今、委託販売にかけている335iが首尾良く売却できたら次はオープンカーもいいかもと思ったりした。

 

海岸を流していて気づいた。

沖縄のドライバーはエアコンを使わず、窓全開でいる人が多いようだ。

また派手な音楽をドンドンやっている人もこれまた多い。

 

座喜味城に行く前に寄り道し、嘉手納基地を眺める。

航空機マニアには有名な撮影スポットである「道の駅かでな」の屋上から嘉手納基地の滑走路が丸ごと見渡せる。

嘉手納基地は米空軍の基地で4000m級の滑走路が2本あり、極東最大級の空軍基地である。

面積でいえば嘉手納町の82%が基地であり、巨大な弾薬庫、貯油施設も入っている。

ここには旧日本軍の飛行場があり、米軍が上陸後真っ先に侵攻占領した地域である。

航空写真の地図でみると北谷町と読谷村の間にあり、比謝川と基地の外周の間に沖縄住民の生活空間が挟まれている。

今日は離着する航空機も駐機している機も少ない。輸送機とセスナが1機づつ離陸していったのみである。

嘉手納基地といえば私的なイメージがある。

それはB52の禍々しい姿である。

 

ベトナム戦争は私の世代では初めてライブで体験したアジアの実戦となる。

太平洋戦争終結後、すぐに始まったベトナムの独立運動はフランスとの戦争に発展、さらに南北分裂の事態を招くと米国は北爆を開始した。

その頃、生まれた私が物心つき、学校に通うようになってもかの地の紛争は収まらず、米軍が泥沼

にはまり、1973年遂にベトナムから撤退する。

75年、サイゴンが陥落してベトナム戦争が終わったとき、私は11才。

インターネットもない時代、情報源は限られていたが、B52が8基のジェットエンジンから黒煙を吹きながら離陸していく姿は今でも記憶の奥の方に刻まれている。

沖縄は朝鮮戦争同様、ベトナム戦争の前線基地としてフル活用され、嘉手納基地から飛び立っていった。

今もB52は運用継続中で嘉手納基地には配備されていないはずだが、世界のどこかで羽根を休めている。先般、緊張高まる南シナ海で中国牽制のために飛んだのがB52だった。

B52の全長は48.5m、全幅が56.4m、B29がそれぞれ30.2m、43.1mであるから比較にならないほど大きい。

まさにストラトフォートレス(成層圏の要塞)である。

私は実機を目の前にしたことはないが、B29ですらあほらしいほど大きかったのだから想像はつく。

また、プラモデルも造ったことがある。1/100スケールだったと思うがそれでも相応のでかさで天井から釣ったものの、もてあまして屋根裏に放ってある。

 

嘉手納の滑走路は海方面から着陸、山方面に離陸していくのだと思うが、危険は危険で過去に爆弾を積んだままのB52が墜落大爆発事故を起こしている。

現在の基地問題についてはやはり「軍用基地などない方がいい、戦争はやるべきではないし、想定するべきでもない」と思う。

悩ましいのは「戦争は常に国家と共にあり、準備は怠るべきではない、獲れる領土は獲ってもいい」と考える国家は今もすぐそばにあり、決してその思想は変わらないだろうということである。

子供を守って戦うという父の心、子供の命は何があっても失いたくないという母の心もまた不変であるから戦争問題は難しい。

座喜味城へオープンエアドライブの道々、嘉手納の滑走路とB52の幻影を重ねながらいろいろ考えた。

 

 

嘉手納基地全景


沖縄グスク巡り 2日目 #3 普天間基地 

2016年03月03日 | 取材・旅行記

今日の予定は世界遺産登録のグスク巡り。

最初の目的地は中城グスク。

 

途中、数年来の紛争地普天間基地をこの目で見ておこうと思う。

那覇港あたりから普天間基地へは車で15km、30分くらいの距離でそこそこの住宅地を通っていく。

もちろん、基地は入場禁止ではあるので見晴らしのいい高台から眺めることになる。

事前に調べたら嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)がよく知られたスポットとのことでここから見ることにする。

 

公園ではお年寄りが集まって運動していた。

展望台に着く手前には沖縄戦の激戦の跡が残っている。

そのひとつがトーチカ、銃眼が空しく開いている。

 

沖縄戦はまず3/26、那覇西方の慶良間諸島への上陸作戦を開始、4/1に読谷〜北谷の海岸から上陸を開始した。

米軍はその日のうちに読谷、嘉手納の飛行場を占領し、4/5には東進した部隊が東海岸に達し、本島は真ん中で南北に分裂した。

北部は日本軍の兵力が極めて薄く、主力は陸軍司令部がある南部の防衛にあてられた。

「沖縄戦は本土防衛の時間稼ぎ」という言い方をするが、例えば小田原城を守るのに山中城や忍城で持久戦をせよということである。

しかし、戦国時代と違い20世紀は武器の破壊力がはなはだ異なり、沖縄の人々の生活空間が失われた。

私は軍事専門家でもないが、展望台から北の方をみると米軍が上陸した海岸がみえている。

そこからこの高台で戦闘が始まるのが概ね1週間後。

激戦は2週間続いた。

圧倒的な兵力差にもかかわらず戦線が膠着したことは沖縄の地形が関係している。

平地の会戦では航空支援を受けた機動部隊が突進して穴を開け、歩兵が地域を制圧すればよいが、固い岩盤の島の戦いは欧州の平原戦のようにはならない。

爆弾も砲撃も地下陣地やトーチカの破壊にはさして効かず、接近戦に弱い戦車もそれほど有効な兵器ではない。

結局、人の手で1mずつ殴り合うように進み、阻みとなる。

沖縄戦のことは無知ではないが、こうして「体で体験する」と生々しいものになってくる。

今日、明日と昭和のことも考えていきたい。

 

ひるがえって眼前の基地のことである。

まあ異常な光景というしかない。

大学があり、小学校があり住宅がたくさんある。コンビニも当たり前のようにある。

今日は軍用機もヘリもオスプレイも飛んではいないがやかましいのは当然で、しかも滑走路が南北方向に走っているので離陸も着陸も人間とその家の上を通る。

軍の基地、それも飛行場は敵からみれば真っ先につぶしておく目標であろう。

当然、ない方がいい。

代わりに珊瑚礁の美しい浅瀬を埋め立てて新築すればいいというのはまた別問題として、ない方がいい。

 

辺野古移転については私は住民でもなく、当事者ではない。

あえていえば、敵が西から攻めてきて日本本土が危うくなったとき、戦略的意義としてどちらがよかったのかという次元の話である。

これは本土に住む人間にとっての立場で、大国の間にあってその勝手な思惑に翻弄され続けた沖縄という地勢に住む人の意志で考えるべきであろう。

しかし、人類の歴史から考えればそうはなりにくい。

沖縄を某国が侵略した時、日本と米国はまた住民を蹂躙するのであろう。

戦争というものはかくもおろかなことで、国を守るとは中央の利権と安全を守ることと同義である。

しかし、こうも考えてしまう。

千年の単位でものを考えるならば、往時の那覇の港も首里の丘もかつての面影はなく、全周美しい珊瑚礁に囲まれた夢のような美しい島がみるも無残に鉄とコンクリートと電飾で改編されてしまった。これも人間の業である。

「何をいまさら」と島の神様は嘆いていることだろう。

 

北方面 この海岸に米軍が広範囲に上陸

 

南方面 浦添グスクがみえる、この高台が落ちた後の激戦地


沖縄グスク巡り 2日目 #1 出発

2016年03月03日 | 取材・旅行記

沖縄2日目。今日はレンタカーで北部まで行く。

 

ホテルで朝食、地元食材を使ったのブッフェで大変美味。

このホテル、ロコア那覇は値段もリーズナブルで立地もよい。

 

チェックアウトしてごろごろと荷物を引っ張っていき、駅裏のTimesのお店へ。

黒のロードスターを借りたのであるが、近くの波上宮に行くためにひとまず預けて歩いて行こうとした。

するとお店の若い衆が男も女も怪訝そうなのである。

駐車場を探すのが面倒なので10分くらいなら歩いて行こうと思うのだが、「沖縄の人は歩くのがとにかく嫌いで隣のブロックのコンビニにも車で行く」のだそう。

まあ暑い日はそうであろうが、今日は晴天で涼しい風が吹いている。

 

前回、沖縄に来たときにタクシーの運ちゃんが「沖縄の人はさ、暑いから頭が弱いんさ」と言っていたことを思い出した。

こういう開け広げな感じが沖縄のよさである。

 


沖縄グスク巡り 1日目 #3 瑞泉の泡盛

2016年03月02日 | 取材・旅行記

首里そばで満腹になり、店の近くにある「瑞泉」を訪問。

先週のNHK「ブラタモリ」で沖縄を取り上げた際、紹介された酒蔵でもある。

 

私は酒が飲める方ではないが、蒸留酒とは相性がいいらしく、二日酔いにはならない。

そのことに気がついたのは中国出張が重なった際、度数50度超えの「白酒」を覚えた時からで、以降中国料理店に行くとついチェックしてしまうようになった。

泡盛は日本において特殊な酒で、度数40度超えのブランドがふつうに買える貴重な酒といっていい。

 

「瑞泉」は恥ずかしながらよく知らなかったので蔵の人に教えてもらうと共に、ちょっと調べてみた。

泡盛という酒は、琉球王朝の元で育まれ、それは「国策」でもあった。

その起源は明らかではないが、貿易立国の琉球が中国の福健経由あるいは東南アジア経由で蒸留技術を得たらしい。

材料に南方米と黒麹菌を使うところが泡盛の特徴で、今も瑞泉はタイ米を使っているという。

 

歴史もおもしろいが、飲んでナンボの酒である。

見学後、試飲をあれこれさせていただいた。

熟成期間が長い「古酒」はなるほど長いものほど芳醇で21年ものなど濃いワインである。

まだ初日というのに泡盛のボトルをぶら下げ、ほろ酔いで首里城に行くことになった。


沖縄グスク巡り 1日目 #1 出発

2016年03月02日 | 取材・旅行記

JALのマイレージが8月に失効してしまうため、消化計画をずっとしていた。

ビジネスクラスで欧米に行く余裕があったので、バルセロナでクラシコ観戦というのをずっと考えていたのだが、どうも腰が重い。

いろいろ面倒、という訳でもないのだが果たして得るものが何かということと手間を考えるとどうも天秤が水平にならぬ。

そこで海外はもはやあきらめ、国内の取材撮影をいくつかやることにした。

国内線であれば、5回は旅立てよう。

 

まずは沖縄である。

沖縄は一度本島のみ行ったことがあるが、首里城は復興中、水族館は多少記憶に残っているが、まあ白紙といっていい。

目的の第一はグスクを周り、100名城巡りを完遂すること。

そして、未だ紛糾する基地問題も少しは考えてみたい。

 

ここ数年、天気がよさそうな時期に大まかに目的地を決め、宿も決めずにほいと出かけてしまうのが常だったが、離島はそうはいかない。

意を決するためまず航空便を予約してしまって退路を断ち、ホテルを予約しようと思ったら結構一杯一杯で慌てて行程を考えて予約してしまった。

沖縄には鉄道がない。車社会である。

初日は首里城など那覇市内を巡ることとし、2日目3日目をレンタカーで北部まで行くこととした。

レンタカーはマツダの現行ロードスターにした。

コンパクトカーの2倍の費用がかかるがオープンカーに興味があったので奮発した。

 

さて、出発である。

8:57分初、羽田-那覇Jl907に搭乗。

所要時間は1時間半である。海の上を飛んでいくため窓外の風景は淋しい。

那覇についてみれば快晴。

この様子では上着は必要なさそうである。 


津市図書館

2016年01月06日 | 取材・旅行記

藤堂高虎の本を執筆している。

この人は戦国有数の才人であるが、認知度好感度が今ひとつである。

その理由はいくつもあげられるが、何といっても司馬遼太郎氏が好きではなく、その気持ちのまま小説に表現したことがあるはずだ。

高虎は関ヶ原で家康の天下取りに多大な貢献をし、見返りに伊勢伊賀20万石余を得た。

そして豊臣つぶしの仕上げとして高虎は伊賀上野城を築いた。

司馬さんの「城塞」に、できたばかりの五層の天守を高虎が台風にかこつけて壊してしまう話が出てくる。

つまり、天下人におもねり尽くした忠義心のない男とされている。

 

本を書いている過程で、高虎は不忠者どころか大変な忠義者で、問題は彼を使う側にあったことがよくわかった。

もうほとんど原稿ができているのだが、史料の確認のために津図書館で参考本を読んできた。

藤堂高虎は市販の史料本がほとんどないのだ。

有名な遺訓についての底本については伊賀上野市が出している翻訳本があるのだが、上野城でしか買えないらしく、ここに置いてあったので助かった。

図書館は全体で芸濃文化センターとなっていて、館内に津城のディオラマがあった。

津城も高虎の作で海沿いの水城として名高い。

城下町と縄張がよくわかっておもしろい。

 

半日くらい読み込んで目的を達し、津市内で鰻丼を食べて帰った。

津の鰻丼は安くてそこそこおいしいのでありがたい。