こんな文字で始まります。
「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
南方面に向かう様で、戸数も五万余戸ばかり と、まーまーの規模?
ただ、距離になるのか、唐突に水行二十日 と、距離表示の・・里ありません。
日数からは、かなりの距離か?
この見方いろいろある様です。
どこから水行二十日なのか?
スタート地点が違えば、二十日掛けての旅行もかなりゴール域が異なってきます。
とはいえ、どこにしても二十日という時間、なかなか解釈難しい様です。
結果、この二十日無視して、南域に行くとして、その候補地とすればこの辺りが無難な感じです。
水行として、遠賀川を遡りましょう!!
着いたところが、嘉麻周辺、この辺りに五万余戸、いろいろ無理ありますが、この域での遺跡どんなものでしょう?
・本村・原田・鎌田原遺跡:弥生時代の遺跡で、特定有力者集団の墳丘墓もある。副葬品には青銅武器類、ヒスイの勾玉、碧玉の管玉、小銅鐸、後漢鏡等があり、
弥生の「国」の存在を裏付ける。
・広畑・成竹遺跡: 弥生時代、熊ヶ畑や下山田下の谷などの水辺の低湿地や丘麓の、水利に便利、比較的肥沃な所で稲作農業が行われ、集落 が形成された。
成竹遺跡では、大型貯蔵穴からイチイ樫の実、藁、鏃、黒曜石、石包丁、石斧、有柄石剣、砥石、高杯、土器片が見つかり弥生時代前期集落跡と考察される。
弥生前期~中期にかけての、住居跡20基、貯蔵穴70~80基の大規模集落が考えられる。
・庄原遺跡:福岡県田川郡添田町大字庄字下の原
JR西添田駅西側500mの丘陵上に位置し、弥生時代中期前半の貯蔵穴から銅槍鉋の鋳型が発見される。槍鉋は有明海沿岸を中心に10例しか見つかっていない。
その鋳型がこの域で発見されたことは、この遺跡が早くからの大陸と技術交流があった遺跡の一つとみられ、当時の社会を知る重要な遺跡に位置付けられる。
また、多くの砥石や輸入鉄器とともに国内最古の金属溶解炉も発見され、大規模な生産遺跡と考えられている。
この一帯、当時としてはかなりの先端ハイテク技術の集団が住む国と位置付けられ、朝鮮からの渡来人が住んでいたとみられる。
農業国と云うよりも、工業国として、この域から各地に各種の青銅器等が出荷された国の可能性が高い様である。
と云うことで、この辺りを投馬国に比定したいものです。
もうすぐか、邪馬台国?
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