形の上では魏志倭人伝のオラッチャ解釈、一応ここでは完了。
結果は、邪馬台国、どこにあったかやっぱ分かりません。
こっちの思いは、そーは云っても「九州説」。
持ってる資料はちょい古いが、今現在もあんまりその問題解決した情報見ていません。
そんなところで、この問題をも少し深く見てみましょう!!
既に述べているかも知れませんが、今一度問題検討します。
と云って、しつこくこのネタで遊びます。あちこちの文献引っ張ってくるだけですが・・・
問題点
① 文章からみた邪馬台国の位置
② 魏から下賜された鏡の種類
③ 倭から魏への朝貢
④ 卑弥呼の墓
⑤ その他諸々
ってところで、勝手に分けてみます。
① 文章からみた邪馬台国の位置
これは遠く江戸時代から争われている問題、それが今でも引き継がれている。
よーは、やっぱ確たる証拠が見つかっていないと云うことに尽きるみたい。
大きく分けて、畿内説と九州説、他に各地の諸説ってところかな。
各地の諸説は、人それぞれ、やっぱこの2説がメイン。その2説でも内容、大きく違います。
畿内説では、あまり畿内のどの場所と云う議論はありません。ほぼ1ヶ所に限定。
奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡を、邪馬台国の都に比定する説が有力ですね。
にも関わらず、ここがそーだという決定的証拠がないのか、なかなか勝利のラッパは聞こえません。
どーなんでしょう? どんな問題がここにあるのか?
いろいろ見ていると、そー唐古・鍵遺跡ってのも・・・
当初はこっちがどーも邪馬台国絡みだった様ですが、1990年代にこっちから纏向遺跡に変更された様です。
・唐古・鍵遺跡
本遺跡は、奈良盆地中央部に立地する弥生時代の環濠集落遺跡で、遺跡面積は約30万m2と広大である。
また、規模の大きさ以外にも、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見されている。
事実、桜井市の纏向遺跡が注目を集めるまでは、畿内説の中心はこの遺跡だった。
実際に、農耕具や開拓用具のほか、土器、青銅器、翡翠なども発掘されており、その数は纏向遺跡を上回る。
また、纏向遺跡では開拓用具が主な出土品で生活感が無いのに対し、この遺跡は大規模環濠集落跡として、魏志倭人伝の邪馬台国と比定しうる遺跡である。
銅鐸の主要な製造地でもあったと見られる遺跡もあり、弥生時代の重要な勢力の拠点があった集落ではないかと予想される。
にも関わらず、纏向遺跡が邪馬台国の中心地へ。
・纏向遺跡
本遺跡は、唐古・鍵遺跡の南西域に位置し、その面積は3km2(300万m2)に達し、唐古・鍵遺跡の10倍と広大である。
ただ、遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみである。
この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土し、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されている。
また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。
遺跡内の各地に古墳が点在し、盟主的古墳として、前方後円墳の最古級の箸墓古墳があり、卑弥呼の墓とも推定される。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土し、特に古代から交流が盛んな伊勢国での物と、その東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる。
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど、年代を決定する決定的な出土物は乏しい。
また、これら外来系の土器・遺物は、九州から 関東にかけて、および日本海側を含む各地のものがある。
ただ、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡は大陸との交易が乏しかったとも推定される。
以上の様に、唐古・鍵遺跡と纏向遺跡、かなり性質の異なる遺跡が隣接している。
そのため、単純に唐古・鍵遺跡から纏向遺跡に住民等が単純に移動した訳ではなく、
同時代に近い隣接遺跡とはいえ、祭祀形態の変化等、いろいろな断絶がある様である。
うーん、邪馬台国がここにあったのかどーか?
今一分かりません!!
次は九州説、畿内説とは違い、あちこちに・・・
詳細は次回で。
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