-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

石仏「背炙り古道の水の神」

2013-10-25 16:21:28 | 歴史

 次の写真は、平成25年9月上旬に撮影しました。古道の峠から少し村山市の方に下ると、「弘法水」という湧き水があります。三年前ごろまでは、畑沢の人達が乳母木地蔵周辺と弘法水までの古道跡を下刈りし清掃していました。しかし、畑沢の人達の手がここまで届かなくなってしまいました。撮影したこの日も、弘法水の周りは草が生い茂り、どこに湧き水があるかが分からない状態でした。そこで、得意の草刈りです。湧き水と水神が現れました。

 冒頭で「少し村山市の方へ少し下ると」と書きましたのに、畑沢の石仏を紹介することになるのかなと不審に思われるかもしれません。説明不足でした。この弘法水は、次の二つの理由から「畑沢の石仏」とすべきものと私は考えています。

 一つ目の理由は、昔から畑沢の人達が清掃を続けてきたと思われることです。今は行政区分上、村山市の区域になっていますが、昔の人達にはその意識があったとは思えません。背炙り古道の大事なポイントとなっている乳母木地蔵と弘法水については、畑沢で守っていく意識が強かったと思います。

 二つ目の理由は、畑沢の伝説では「畑沢の古瀬〇〇が弘法清水(弘法すず)に弘法大師の像をたてた」と言われています。ここに弘法大師の像はありませんが、水神を誤って弘法大師像と伝えられてしまったものと考えられます。この狭い場所に弘法大師の像を立てる余裕はありません。すなわち、「畑沢の古瀬〇〇が弘法清水に水神様をたてた」が真相だと思います。

 この水神は、畑沢産の石材から作られたものではありません。マグマが地表で固まり、川の流れで角が丸くなったものです。高さは40cmぐらいで、人が背負える程度のものです。文字の刻み方は流麗です。恐らく、石工は畑沢の人ではなく、専門的な職人と思われます。この種の石材にこのような流麗な彫り方をしている畑沢の石仏は、外に「中畑沢稲荷神社の十八夜」と「上畑沢延命地蔵堂の大乗妙典一部一字一石一禮」があります。

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畑沢の大杉

2013-10-24 18:38:49 | 自然

 

 背炙り峠から畑沢へ入ってから間もなく、上畑沢の延命地蔵堂の脇を通ります。私は、いつもこの景色に見とれます。道の間近かに迫り、まるで覆いかぶさるようにしてドーンと大きな杉の古木が枝を拡げています。「おー、来たか若造」かな、それとも「こら、スビタレ」とでも言っているのでしょうか。古木から見たら、還暦を過ぎた私でも単なる若造です。いったい、この古木は何歳になるのでしょう。少なくても百年以上は経っているはずです。この古木の脇には、西暦1811年に建立された湯殿山碑があります。この石仏と同じだとすれば、約二百年になりますし、石仏よりももっと前からあったとすれば、二、三百年になります。もしも、石仏よりも後に杉が植えられていると、杉の根の成長とともに地面の工作物は大きな痛手を被ります。しかし、古木の根は石仏にあまり悪さをしていないようですので、石仏建立以前から古木があったとした方が辻褄(つじつま)が合いそうです。

 ところで、我が母校、常盤中学校裏山の城跡には、城主によって植えられたと言われている杉の古木があります。伝説が本当だとすれば、植えたのは、1600年以前ですから、400年以上になります。畑沢の古木と城跡の古木を比べると、残念ながら城跡の古木がずっと先輩格かと思います。つまり、畑沢の古木は、400年は経っていないでしょう。

 もう一本の大杉が下畑沢にあります。こちらも延命地蔵堂の大杉と同じぐらいの太さです。熊野神社境内にあります。こちらは少し手がかりがありますが、あくまでも「仮定」での年代推定です。熊野神社は、「村社 熊野神社縁起」によれば、明暦元年(西暦1655年)に造営されたようです。平成25年4月の畑沢祭で、「神社が建てられた時からの杉かもしれない」の話題がありました。神社などでは「神木」として杉を大切にする風習がありますので、神社が造営されてから切らずに残された可能性が十分にあります。もし、神木として扱われていなかったら、過去の何回かの建て替えの時に既に切られていたはずです。やはり大切にされてきた感じがします。そこで祭の時の話を事実と仮定すると、大杉は約360年を経ていることになります。延沢城の400年には及ばないとしても、十分に「神様」となれる大杉です。

 

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畑沢の縄文遺跡

2013-10-23 17:33:45 | 歴史

 ここは上畑沢延命地蔵堂の西側です。縄文遺跡の埋蔵地と思われる場所です。以前に多数の縄文式土器のかけらと石器が出てきました。上畑沢にお住まいだった小学校の先生が、昭和30年代に発見されました。その方はどこかの専門家から聞いたものではなく、御自分で見つけられたようです。この先生は私の恩師でもあります。実に多方面にわたって勉強されていました。私たち悪がきが、多岐にわたる質問を沢山しても、真面目に答えて下さいました。その場で分からないことがあっても、後で調べて教えてくださいました。そのお蔭で、悪がきどもでも、個性ある夢を持つことができました。楽しい授業でした。

 本題に戻します。畑沢に折角、縄文期の遺跡があることが分かっていながら、実は一度として発掘調査されたことがありません。隣の細野の巾地区では、尾花沢市教育委員会による大規模な発掘調査が行われ、細野地区住民がボランティアで多くの人達が発掘に関わっていました。昭和58年に調査報告書が出されています。その出土品を見ると、畑沢から出土したものと変わらないような気がします。こった模様が付いた縄文土器、棒状の磨製石器、石の矢じり等々です。巾地区の遺跡の年代は、縄文前・中期だそうですので、畑沢の遺跡もそんなものでしょうか(素人の判断)。

 畑沢のこの場所は、良質な湧水(清水畑の湧き水)が豊富にあり、千鳥川上流には大平山とさらに甑岳や御所山に連なる山並みがありますので、狩猟の場とも近い位置にあります。縄文人にとって格好の住み場所だったと思います。「畑沢」の原点はここにあったのです。戦国時代に野辺沢氏が統治(西暦1500年代なかば)するよりもずっと前で、紀元前何千年にもなります。畑沢の歴史は古いのです。

 ところで、畑沢から出土した土器・石器は、私の手元にありません。幼友達とこの場所で拾ってきたのを近年まで大事に持っていたのですが、茅葺の実家を解体する時に何処かへ紛失してしまいました。畑沢の生涯学習推進センターに保存しておけばよかったと後悔しています。「ショッチュウ」後悔しています。

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アキギリ

2013-10-22 16:46:03 | 自然

 この写真は、平成25年9月上旬に背炙り古道の峠近くで撮ったものです。それから長い間、この花の名前を調べましたが、植物にも疎い私には全く手がかりがありませんでした。ところが、過日、NHKの「趣味の園芸」にサルビアが出ていました。その中で拡大された花を見て、驚きました。私が撮影した花の形に似ていたのです。それではと、サルビアの分類上の位置を調べたところ、シソ科のアキギリ属であることが分かりました。ここまで分かれば、後はアキギリ属の画像を片っ端からチェックするだけです。そして辿りついたのが、アキギリです。そうです。この花はアキギリらしいです。それでも疑問はかなり残っています。花の形と色はアキギリそのものですが、花の基部にある托葉と思われる箇所に、検索して見た花よりもずっと多くの髭状のものが出ていました。確かに同じ種と言っても、地域による遺伝的な差異や、遺伝子は同じでも気温などの環境の違いによる生理的な差異があります。畑沢のアキギリは、古武士的な野性味が感じられます。

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囲炉裏の自在鍵

2013-10-21 12:02:53 | 民具

  我が実家を解体してから、早くも20年以上の歳月が流れました。重機で茅葺きの家が解体されるのを見ていたときは、胃の中がギリギリと痛むような感覚でした。私が生まれ育っただけでなく、家族、先祖が暮らしてきた古い家です。様々な歴史が積み込まれていました。それでも、解体する時はあっという間でした。

 機械が音をたてて解体していく中で、残すべきものを外へ急いで運び出しました。私もまだ忙しい現役でしたので、解体に先立っての片づけ作業ができずに、解体の当日になってしまいました。「思い出の物」と言えば、どれもこれもが該当してしまいます。捨てなければならない物を瞬時に判断しました。それでも、色々な物について後悔があります。あれを残せばよかったのに、あれもそうだったと、きりがありません。それでも、この写真にある自在鍵は、迷うことなく残しました。現代の生活では、自在鍵を使う場を全く想定できません。それでも囲炉裏を囲んだ、その中心にあった自在鍵の思い出は特別です。昔、一日はそこから始まりました。朝、御飯は、囲炉裏の五徳に載せられた羽釜でぶつぶつ音をたています。やがて炊き上がると、重い木の蓋を開けて、台布きんなどを使って釜を持ち上げ、藁が敷かれた木製の四角い箱に移動します。後は食べるまでそのまま蒸らします。

 秋の終わりから春の始まりまでは、家の中を温めるのは囲炉裏だけです。朝起きたら、先ず囲炉裏の火を燃やします。最初は乾燥した杉の葉にマッチで火をつけ、雑木の細い枝を燃やします。杉の葉ではなく、キョウギと言う先端に硫黄が付いた神のように薄い木を使う場合もありました。ところで、「燃やす」と言うよりも、「くべる」の表現が畑沢らしいですね。燃やし始めは煙が出ます。最も、最初だけでなく、その後も煙は出続けます。そのため、冬は常に家の中に煙が充満していました。「煙の中で生活していると、トラホームに罹る」とかの話も当時ありましたが、なんともなかったようです。私の小さい時に、朝起きてきて父親の膝に抱っこされながら、囲炉裏にあたっていた記憶があります。私が幼い子供を育てていて、子どもを抱っこしていた時も、その父親との光景を思い出していたものでした。

 囲炉裏には、まだまだ語り尽くせない思い出がありますので、今回はこの程度に留めておいて、本題の自在鍵の話に戻ります。家の解体時に残しておいた自在鍵は、その後もやっぱり使える場がありません。黒光りする煤(すす)が浸み付いた竹を切って、一時は細工物を作ろうかとも考えましたが、まるで芸術的センスがない私の作品では、大事な自在鍵を無駄にしてしまいます。そこで細工物を諦めて、そのまま飾ることにしました。私の玄関に飾り物としてぶら下げています。これが一番よいようです。

 

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