間違っていました。
令和5年8月4日から同年同月月9日にかけて、「繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。」のタイトルで(その1~6)を投稿しましたが、その後、地元在住の同級生たちから次の言葉がありました。
「繋沢には、観音堂の外にもいろんな建物があった。
さらに繋沢の入口付近には学校、
その少し奥に鳥居、観音堂の前には山門があった」
この一言で、これまでの私の見解に大きな間違いがあることが分かりました。私は繋沢観音堂が明治初めに建てられて、その中に六沢小学校が設けられたものと考えていました。
ところが、上述の同級生の言葉によって、小学校は観音堂とは全く別に建てられたことが分かり、観音堂がその頃に建てられなければならない理由が消失しました。観音堂がいつごろ建てられたのかを、あらためて考えることができました。そこで、最初に戻り、写真、資料及び同級生たちの言葉を今度は慎重に整理しながら検討した結果、私なりに次の推察に達しました。
① 繋沢観音堂と呼んでいた建物は、明治以前のかなり古い時代から存在していて、例えば一般的な寺の本堂というような寺の一部だったであろうと考えられます。
② 明治に入って、無住職であった観音寺は寺としての役目を終えて廃寺となりましたが、建物は六沢地区民と円照寺の手によって観音堂の名前で昭和52年まで保存されていました。
③ 明治7年に、六沢小学校が繋沢の入口付近に建てられました。「常盤小学校百年」に記載されている内容のとおりです。観音堂とは別になっていました。
間違いの原因は、次のとおりです。
① 六沢地区で、きちんとお聞きすべきでした。一番肝心なことでした。六沢地区を知らない人間ならば、最初にすべきことでした。
② 資料を精読すれば、繋沢観音堂が如何に古いものだったかが分かるはずでした。資料を都合のいいところだけを拾い読みした失敗です。
③ 明治7年に小学校制度が始まったころは、世の中があわただしかったので、小学校を建設するなどは大きな負担になります。他村では寺やお堂で小学校を始めたのに、とても六沢村だけが建てるのは無理だと決めつけていました。しかも、繋沢観音堂が建てられたとすれば、そこを小学校の一部として使われたのであろうと勝手に思い込みをしてしまいました。
以上のことを含めた内容をまとめて、これまで教えて下さった円照寺と同級生に12月26日に報告してきました。するとさらに、その方々から興味深いことを又もや沢山、教えてもらいました。六沢地区の歴史に係る豊富な宝物と素晴らしい人材を再発見できました。
その日、色んな話をお聞きして有頂天になり、六沢地区を撮影するのを忘れていました。
代わりに今年2月に撮影した六沢地区の風景写真です。
一昨年の写真もありました。集落から西の方から撮りました。六沢地区が大きな平地にあることが分かります。地名に「沢」が付く理由がないみたいです。これも不思議な興味深いことです。
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