-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

網カンジキを作ってみました。

2017-08-27 16:52:09 | 民具

 網カンジキと言われても、畑沢出身の人でさえも50歳代以下の方は、分からないかと思います。とりあえず、下の写真を御覧下さい。左側が普通のカンジキで、材料にクロモジの木を用いており、両脇に硬い樹で作った滑り止め用の爪なるものが組み込まれています。そして、左が網カンジキで、かなり大きいことが分かります。材料にはチシマザサ(通称は「根曲がり竹」)を用います。クロモジは曲げやすい(加工しやすい。)のですが、これほど大きい輪を作れる材がありません。どうしても笹を用いなければなりません。だったら普通のカンジキも笹で作ればいいのではないかとお思いになるかもしれませんが、笹では「爪」を組み込むことが困難なようです。網カンジキは普通のカンジキと用途が異なるので、爪を必要としません。網カンジキの用途は、後で説明いたします。

 さて、この網カンジキとして紹介した上の写真にも、昔から網カンジキを御存じの方は、違和感を持たれているかもしれません。そうです。大きさは昔ながらの網カンジキですが、輪っかの中の紐の通し方が、かなり変わっているのです。私も今回、網カンジキを作る時には悩み続けました。本来の網カンジキは、紐を縦横に格子状に通します。私のそれは、亀の甲状にしてあります。昔のように縦横に格子状にするには、紐(縄)を両手で綯(な)いながら伸ばしていき、直角に交差するポイントでは、上手く二つの紐を絡めながら一体的になるようにします。交差するポイントが塊り状態になることなく、すっきりとしています。ところが、私には紐(縄)を作る藁(わら)がない、藁があったとしても綯う根気がない、上手く綯う技術もないのでは何ともできません。そこで、紐は買ってきました。綯うことでできないので、格子状にすることができません。考えた挙句に亀の甲状にすることにしたのです。けっして形は満足できるものではないことを承知していますが、まあ、何とかなるでしょう。自分の実力以上のことはできません。でき得る限りにベストを尽くすことが大事です。などと、ぐだぐたと書いてしまいました。

 さて、この網カンジキを見ると、かなり動きにくいだろうと思われたでしょう。普通のカンジキでも足運びに苦労しますが、網カンジキの場合はとても足だけでは動けません。腕の力を必要とします。網カンジキの前に紐を付けて、腕で引っ張り上げるのです。丁度、古武道などで紹介される「ナンバ歩き」のような格好になります。右足を揚げるときには右手で紐を引っ張り揚げ、左足を揚げるときには左腕で紐を引っ張り揚げます。これを何度もやれば、武道の鍛錬になるかどうかは分かりませんが、例えばインナーマッスルの一つである腸腰筋の強化に役立つことでしょう。

 それほどまでに厄介な網カンジキでも、とても大事な役割があるのです。それは普通のカンジキを助ける役です。雪の上で靴が雪にめり込んで歩きにくい時は、カンジキを装着します。でも、雪がもっと沢山積もって、カンジキが雪にめり込んでしまい、カンジキの役が立たなくなった時は、網カンジキを使うのです。輪っかが大きい分、雪にめり込む程度が小さくなります。畑沢などのように一晩で1m以上も新雪が積もる地区の必需品です。

 私たちは、新雪が深々と積もった状態をフカユキ(深雪)と呼んでいます。深雪で最も困るのは、小中学生が通学する時です。普通の新雪が積もった状態の時は、大人が普通のカンジキを付けて先頭に立ち、雪を固めて一本道を作ってくれます。しかし、深雪になると、普通のカンジキでは何ともなりません。そこで、さらに網カンジキを付けた大人が加わります。網カンジキが先頭で進みますが、当然、スピードは極端に遅くならざるを得ませんでした。子どもたちの通学のために、大人たちがこれほどまでに面倒を見てくれたのです。私たちは子ども時代にそれほどにお世話になってきました。その恩返しをする機会がありません。

 

 ところで、私たちは網カンジキと呼んでいましたが、全国的には「スカリ」と呼んでいるようです。私たちはスカリなど聞いたことがありません。似た発音の名前に、雪下ろしに使うヘラ状のカスギ(カス木)がありますが、全く用途が違います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

撮ったぞう! マムシ

2017-08-16 15:34:16 | 自然

 平成29年8月15日、親戚・知人のお宅へお邪魔して、お盆のお参りさせてもらいました。当然、「背炙り峠」を越えることにしました。村山市側のビューポイントで撮影しないわけにはいきません。どんよりとして天気のために、今一つ精彩を欠きますが、いつもながら眺めがいいです。道玄(村山市中沢地内)の水田が広がっています。

 

 いい気持ちで眺めていますと、ブロローと大きな排気音を響かせながら、山道の運転とは思えないスピードで白い車が村山市側から登ってくるのが見えます。町の中の暴走族のようです。迷惑な車です。証拠写真でも撮ってやろうと、カメラを腰の位置に構えてシャッターを押しました。見事にシャッターチャンスが外れていました。私は本当に写真が下手です。どうしようもありません。車は仙台ナンバーで、若いお兄さんが乗っていました。車の後ろには飛行機の尾翼のようなものが付いていました。空でも飛ぶような勢いでした。そのまま進んで畑沢の中をぶっとばすのかと思うと、癪(しゃく)に障(さわ)りますが、どうしようもありません。どうか、畑沢の人達に危害を加えないでとお願いするだけでした。

 峠からの眺めも無視するわけにはいきません。ここの景色は常盤小学校時代の夏休みの景色です。休みが終わりに近づくと、中畑沢の男の子は握り飯と画材を持って、宿題の「絵」を描くために4㎞近くの道を歩いて登ってきました。私もいい子でした。このころまでは。宿題を片付けようとしましたから。中学になると、そうはいきません。みんなで絵を描きませんので、自分だけの固い意思でやるしかなくなり、描きませんでした。当然、学校でしたたかに絞られ、晒し物になりました。晒し物になることは、小学校時代から慣れていました。どんなことにも負けない強い子になりました。


 上の写真で、景色の中断の真ん中から少し右側に、白く蛇行している最上川が見えます。それを拡大したのが次の写真です。私たちの千鳥川からは想像もできない大河と聞いていましたので、私たちはその最上川を憧れを持ってみていました。私は「船を浮かべたい」ことと「釣りをしてみたい」ことが望みでした。


 その二つの望みのうち、一つは何度も実現しました。今から20年以上も前に雑誌で見たカナディアンカヌーを手作り、それから何年かの間に白鷹町から大蔵町までの間の最上川を途切れ途切れに7回下りました。下の写真は村山市の碁点のものです。船はほぼ十分なくらいに堪能しました。でも、「釣りをすること」は、まだ望みを叶(かな)えていません。理由は簡単です。最上川で釣るには、漁協へ遊漁料を支払わなければなりません。スビタレにはできませんでした。スビタレと言うよりもケチと言うべきですね。

 

 峠で景色を眺めていると、遠くの空に二羽の大きな鳥が飛んでいるように見えました。早速、カメラを向けたのですが、鳥ではなくて農薬散布をしているヘリコプターでした。望遠レンズでも小さく小さく写りました。下の写真でヘリコプターを見つけることができたら、あなたは大したものです。

 

 峠でも景色を眺めていい気分でいたのですが、少し視線を下に向けると不法投棄されている建築廃材がありました。実に「けしからん」ことです。少し手間をかけさえすれば、ちゃんと始末できるのに恥ずかしいことです。

 

 ごみをよく見ると、その真ん中に馬糞状の一塊がありました。ところが馬糞ではなくて、蛇がとぐろを巻いています。しかも、銭形模様のマムシです。これまで、畑沢でシマヘビとアオダイショウを撮りましたが、まだマムシは撮っていません。絶好の機会です。峠の村山市側ですからこのマムシも村山市産でしょうか。いや、畑沢で生まれて、村山市側へ来て日向ぼっこをしながら、最後の夏休みの宿題をしているのかもしれません。その証拠には、マムシは村山市側へ目を向けて絵の構図を考えているように見えました。そういうことで、畑沢のマムシをカメラに納めることにしました。これが最初で最後のマムシの写真かもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑沢の隣「細野」の御堂森に二度目の登山でした。

2017-08-13 17:12:28 | 行事

 平成29年8月11日(金)、「細野の山を愛する会」「清流と山菜の里ほその村」「常盤地区公民館」の共同企画の御堂森登山に参加してきました。今年の4月23日にも御堂森登山に参加したのですが、時間がなくて山頂まで登れませんでしたので、今回は再挑戦でした。

 この日、早朝4時に山形を出発して、まだ暗い中を13号線を北上。東根市辺りで山の端がほんのり明るくなりましたが、まだまだ世の中は眠っています。正直のところは、私も眠かったです。村山市の林崎から背中炙り峠へ入って、畑沢からさらに農面道路(スーパー農道)で細野へ到着しました。私が一番最初に受付しました。受付して下さったのは、常盤中学校の先輩でクラブの先輩でもありました。いつまでもお世話になっています。

 受付が終わって6時の少し前に開会式です。会長が挨拶して下さいました。会長は細野地区の村おこしのパイロットです。この人があってのイベントです。私も畑沢地区の振興で悩んでいた時に指導してもらいました。従って畑沢の恩人でもあります。

 4月の登山の時と比べて人数がかなり少なくなっています。それもそのはずです。朝が早いので眠いのです。私も参加するかどうかの判断は大変、迷いました。果たして起きられるか、起きても睡眠不足のために山でへこたれるのではないか、皆さんに迷惑をかけてしまうのではないか、と考えた次第です。でも、参加することにしました。参加するたびに新しいことを学べます。ありがたい方々に会えます。

 

 登山口までは車です。途中で御堂森方向を見ましたが、山体の総てが雲に隠れていました。まあ、そんなことは覚悟のうえです。別に悲観することではありません。手前の畑には蕎麦が植えられています。まだまだ小さい苗の段階です。

 

 車から降りて、いよいよ登り開始です。登り口には黄色いポストがあります。登山の計画書などを投函するとのことでした。

 

 晴れていれば、鳥海山を眺望できる場所だそうですが、見えません。それでも延沢、六沢、鶴巻田を俯瞰できます。野辺沢城跡があったお城山も写っていますが、分かりますか。中央から少しだけ左寄りの濃い色の山です。

 

 景色が見えなくても、地面には動物がいました。カミキリムシの一種かと思います。インターネットで画像検索しますと、一番似ているのがノコギリカミキリですが、私には「そうだ」と言えるものがありません。それにしても、派手派手のカミキリムシが多い中で、これは黒一色ですから渋いですね。気に入りました。

 同じく甲虫の仲間です。体の割には頭部が大きいようです。ハンミョウの仲間であることは間違いないようですが、インターネットで検索しても、似たような種が沢山、出てきました。トウキョウハンミョウ、トウキョウヒメハンミョウ、ニワハンミョウ等々です。結局、分かりません。匙を投げました。もしかしたら、今はやりの新種かもしれませんので、興味のある方は調べてください。

 この時期、山には殆ど花がありません。それでも登山道に多く咲いているのがありました。ツツジ科の「ホツツジ」です。wikipediawで調べたら、「グラヤノトキシンⅠ~Ⅲなどを含み、有毒。誤食すると、嘔気、頭痛、発汗、酩酊昏睡、痙攣などを引き起こす。これらの毒は花粉にも含まれ、蜂蜜に混入して食中毒を起こすことがある」と書かれています。とんでもない植物のようです。そう言えば、同じツツジ科のイヌツツジ(レンゲツツジ)の花にも毒があります。これだけは、知っています。畑沢の子どもとしての常識ですから。腹を空かして普通のツツジの花の蜜を舐めても、絶対にイヌツツジの花を舐めませんでした。偉いでしょう。

 もう一つ咲いていたのが、ヤブデマリです。私たち畑沢や細野地区の人は「ガザヌギ」と呼んでいます。この日にリードしてくれた細野地区の同窓生も「ガザヌギ」を知っていました。嬉しくなりました。ヤブデマリよりもガザヌギがいいです。しかし、どうしても腑に落ちないことがあります。この花は時期的に遅すぎると思えることです。いつもは6月ごろに咲いていたような気がします。もう8月です。


 派手な色のキノコが何種類かありました。その中でも特に派手なものです。派手な毒キノコと言えば、ベニテングダケなどと言うのを図鑑で見たことがありますが、実物は全く分かりません。このキノコも見ただけで、「毒」という感じがしました。食べようなどととんでもないことは考えません。

 

 あいにくの天気でしたが、ブナ林の中は幻想的な風景が見られました。薄く垂れこめた霧がブナの樹を浮きだたせてくれました。ここまで登ると、ブナの径は大分、太くなり、原生林のような風格を見せています。昔、御堂森の山岳信仰が盛んだったころも、ブナ林の中で休憩したことでしょう。

 

  今回、どうしても山頂へ行きたかった理由が二つあります。一つは常盤小学校と中学校へ通っていた時に、九日町に到達する手前の坂から見える形の良い山への憧れがあったことによります。もう一つは、どなたかのブログに「山頂の地蔵」と書かれた石仏の写真が出ていたので、それを確認したかったからです。画像を見て地蔵には見えなかったのです。やっとその石仏と対面しました。そして、何の石仏であるかが益々、分からなくなりました。「姥地蔵」と「如意輪観音」の両方の雰囲気を持っています。きっと両方なのでしょう。高い山へ二体もの石仏を運ぶのは大変です。一回で二体分を運べれば楽ちんです。この石仏は鶴子地区が安置したという話があります。

 いろいろと苦労しながらも、午後1時過ぎに登山口に戻りました。何とか、睡眠不足の兆候も出ずに無事に下山できたのは、何よりでした。それにしても一緒に登った皆さんは元気です。

 開会式があった蔵の中で、美味しい料理を御馳走になりました。岩魚の塩焼き、山菜料理、手打ちそばです。腹いっぱいになるまで御馳走になりました。おかわりりもできます言われましたが、もうそれ以上は食べられませんでした。

 この日の私の仕事は、これからでした。畑沢へ山を越えて到着してから墓周辺の草刈りをし、その後、私が作った4ページの畑沢のチラシを全戸に配布しました。配布している中で、残念なこともありました。一人でお住いになっていた家の入口が、外から板で閉ざされていました。畑沢を離れて暮らすことにしたようです。また一軒、畑沢の戸数が減りました。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

又五郎とは

2017-08-13 16:37:21 | 自然

 畑沢には、人名に因ると思われる地名が残されています。これまで地名「小三郎」「平三朗」を取り上げたことがあります。これらは、何れも「背中炙り峠の楯」に接した場所にありますので、楯の守りに関わった野辺沢家の家臣の名前と思われます。今回、取り上げる「又五郎」は、楯とは接していませんが、かなり近接した位置にあります。

 千鳥川を遡って人家がなくなってから300mほど上流で二つの流れに分かれます。西の流れは楯の直下を流れており、大平山の真木山とカツラパから集水しています。もう一方の流れは、大平山の宝沢山から流れて来ます。この宝沢山の方に今回の「又五郎」なる場所があります。

 ところで又五郎については、畑沢に全く伝説が残されていません。畑沢のどなたに聞いても御存じになくて、ただ「なしてだべねえ」の言葉が返ってきます。それでも、楯があった時代のことを考えて、文化的素養のない頭脳を使ってみました。背中炙り峠の楯は、戦国時代に最も使用されたという前提での推察です。この時代には、今の延沢に野辺沢城がありまして、初代城主が野辺沢薩摩守、次の城主は野辺沢能登守でした。三代目の城主は野辺沢遠江守ですが、まだ若かったころは「又五郎」と呼ばれていました。ここで単純な頭脳は停止します。畑沢の「又五郎」は野辺沢遠江守の若い時の名前に因んだものかもしれません。いつものように裏付けは全くありません。しかし、野辺沢又五郎と言われていた時代、野辺沢家は背中炙り峠を越えて何度も南へ出陣していました。最初は「最上八楯」の一員として最上義光と戦い、次に最上義光の配下になった時は天童城を攻略しました。慶長出羽合戦では上杉勢を迎え撃つために、山形方面で奮闘しましました。そのたびに背中炙り峠を越えていたはずです。峠の楯は重要な最前線基地でした。野辺沢家の筆頭家老の息子と思われる小三郎も、楯の入り口にその名を地名として残されています。又五郎も戦闘の前面には立たなかったでしょうが、大将格として後ろに控えていたと考えてみました。又五郎という場所は楯の後方にありますので、そうすると実に私の素人推察にぴったりではないですか。これだから、素人には歴史を語らせたくないと思った方がおられると思いますが、面白いとお思いでしょう。

 さて、いよいよ現場を案内します。実際に現場へ行ったのはもう三か月も前の五月上旬です。又五郎は宝沢にあり、畑沢の簡易水道の管理小屋があります。この辺りからが又五郎だと教えられています。周囲は極めて緩やかな斜面だけで、周囲は適度に成長した杉の共有林です。


 管理小屋の裏側です。雪や風などで倒れた杉を片付けた切り株が見えます。

 


 杉林の中を清流が流れています。なだらかな斜面に一条の深い谷が掘りこまれた中の流れです。その狭い谷の外側は急流を取り囲む場所とは思えないなだらかさがあります。不思議な地形です。


 川の近くに作業道路を作るために、削られた土手が見えました。土手の中に見える石は、どれも角ばっています。川の流れで運ばれた石ではありません。普通、これほどのなだらかな地形ならば、水の働きで堆積した土砂で形作られたものと考えられますが、そうではないようです。石を調べますと、「立石石(たてす石)」と言われている硬い流紋岩です。大平山と立石山の上層部を覆っているものです。宝沢という沢が形作らた後の時代に、大平山と立石山の上層部が大規模に崩れ落ちて沢を埋め尽くして緩やかな斜面を形成したことになります。これほど大規模な土砂崩れとは、どんな天変地異があったのでしょう。


 ずっと奥にも作業道が続いていました。奥にも杉林がひろがっています。さらに奥の宝沢山の山腹には、他の樹々よりも早くブナの新緑が見えます。ブナ林はかなり広大です。

 ん、自然観察ではなくて、歴史的な調査だったはずです。結局、歴史的な証拠は全く見つかりませんでした。もしも、楯などの遺跡であれば、曲輪、堀切、、土塁、切岸などがあるのでしょうが、ここにはそれらしきものが見つかりませんでした。とすると、「又五郎」とはなんでしょう。謎は深まりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする