-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「小三郎」さんがいました。(その二)

2015-05-31 16:02:45 | 歴史

 封人の家の先祖である「有路小三郎」が、背中炙り峠の楯に因んだ地名の「小三郎」であったであろうと推察するのには、我田引水的な強引さがありますが、私なりの三つの理由があります。

 一つ目は、「有路」が畑沢に大いに関係している姓であることです。野辺沢家の家老であった有路但馬の息子は、最上家改易(西暦1622年)後に畑沢へ帰農しました。筆頭家老ならば、もっと裕福な地域に移り住むのなら分かりますが、耕地面積が極端に少ない畑沢にわざわざ住むと言うのは、有路家と畑沢と特別に関係が濃い特別な理由があったと考えられることです。

野辺沢家の筆頭家老の有路一族が帰農した「向かい」地区

 例えば、有路家が畑沢に二つもあった楯との関係が考えられます。そのうちの一つの「山楯」は、集落の中に作られていました。山楯からは集落全体を見通すことができる位置にあります。山楯は交通の要衝としての集落を統治することを目的としたと考えられ、その役目は荒屋敷を中心に暮らしている大戸一族が担っていたと思われます。

 もう一つの楯である「背中炙り峠の楯」は、外敵からの侵略に備えたものです。村山地域が最上家に統一される前は、山形、天童、楯岡等の方向に対する備えであり、その後の豊臣勢と徳川勢との対立時代においては、上杉家に対する備えでした。背中炙り峠の楯は、長期間にわたって野辺沢家の最も重要な前線基地だったのです。当然、その重要な任務は重要な家臣に任されていたでしょう。野辺沢家で最も重要な家臣は、筆頭家老である有路但馬です。有路但馬が直接、その楯の任務に就いていたと考えても、何ら不思議はありません。小三郎、平三郎はその有路一族の者だったと考えました。有路但馬の一族は畑沢にどっぷりと関わっていたのではないでしょうか。
 そして、関ヶ原の戦いが終了して平和な時代になり、峠の楯の役割が終わりました。何らかの理由により、小三郎はその時点で武士を捨て、最上町の堺田に帰農しました。まだ最上家が改易される前です。

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「小三郎」さんがいました。

2015-05-28 19:32:19 | 歴史

 前回は背中炙り峠の楯に由来する「一の切」などの地名について投稿しましたが、まだ「小三郎」と「平三郎」と言う地名についての考察をしておりません。


 ところが、うれしい情報がありました。今年4月15日の畑沢祭における熊野神社でのことです。「有路」姓について話をしていた時に、ある先輩が、
「松尾芭蕉が泊まった封人の家は、野辺沢(延沢)家の家臣だった有路が先祖である」
と話してくれました。後日、そのことを思い出してインターネットで封人の家を調べたところ、封人の家は最上町堺田の名主で、先祖は野辺沢家の家臣であった小三郎である旨が記載されていました。

 ところで、松尾芭蕉は雨天のために封人の家で何泊かを余儀なくされ、「蚤虱 馬が尿する枕元」の句を作りました。その光景を畑沢出身者には、直ぐに思い浮かべることができます。昔の農家では家畜を大事に飼育しました。江戸時代だけでなく、昭和40年代でもそのようなやり方をしていました。同じ屋根の下で、土間を隔てて馬屋(畑沢の言葉では「まや」)が作られていました。居間で焚く囲炉裏の温かさは、「まや」にも及びます。ところが家畜は、その「まや」の中で尿や糞も排出します。居間にいると、その時の音が聞こえました。汚いようですが、慣れると何とも感じません。


 さて、「小三郎?」、どこかで聞いたことがあります。「背中炙り峠の地名にも小三郎があったような気がする」と、確認しましたら、やはり同じく「小三郎」です。ここまで来ますと、私の頭はパチッパチッと火花を出しながら短絡し始めました。証拠に基づく順序だった推察ではありません。単なる短絡反応です。しかし、これが私の唯一持っている格調高い能力です。もう私の頭では、最上町の小三郎は、楯跡に残っている小三郎と同一人物になっています。続きは、そのうちに投稿します。

 

下の写真は、今年の4月から常盤小学校となった場所に建っている野辺沢城を説明看板です。


 全く関係ない話ですが、私は受験勉強中です。ある資格を取得するために、寝る時間は惜しまず、飲む時間も惜しまず、とりあえず必死に勉強しています。そのために、頭の中はショッチュウ、バチバチと音をたてています。しかも、右から入った知識は頭の中に長く留まることなく左へとスーッと抜けていきます。実にスムーズです。昔、鴨さんが方丈記とか言う書で、「淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて久しく留まることなし」などとおっしゃっていたそうですが、「淀み」を頭に、「泡沫」を知識に置き換えると、まさしく私の今の状態です。年を取ると言うことはこういうことなんですね。

 ということで、投稿に時間がかかることをお許しください。言い訳ですね。

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10日ぶりに畑沢へ

2015-05-25 19:16:35 | 近況報告

 5月16日に田植えをしてから、いろいろと用事がありましたので、10日ぶりにようやく畑沢へ行ってきました。今年は高温が続いて、まるで真夏になったようです。スビタレと言われながらも、夏にだけは強い私ですが、今年は体の順応ができていません。少々、スビタレらしい格好になっています。

 しかし、植物たちはスビタレることはありません。元気になるだけのようです。田植えからしばらく経った田んぼは、すくすくと成長しています。

えっ、すくすくに見えませんか。そうですね、まだ成長しているとは言えないかもしれません。でも、根が土にしっかりと活着していることだけは確かです。私の言い方も政治家のようになってきました。否定されても、適当な言葉を並べて言い訳をしてしまいます。こんな言い方をもっと若い時に身に付けていたら、きっと順調な世渡りができたかもしれません。でも、どんな顔をして言い訳するのでしょうか。そんなことは考えただけでもぞっとします。世渡りが下手で結構です。私なりの生活ができましたので、それで満足しています。

 

 夏は田んぼだけでなく、アザミにも来ていました。ついでにアザミに、虫たちも大勢で来ました。葉っぱがぼろぼろになるまで齧(かじ)られています。

 

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えっ! 「 ほっきり 」の伝説

2015-05-21 10:43:28 | 歴史

 背中炙り峠にある楯跡などの調査の一環として、尾根上の「堀切」を確認に出かけました。途中、4月15日に行われた畑沢祭の日に赤飯をお土産に下さった古瀬K氏御夫婦を訪ねました。清水畑でのことです。

 私が調査している話をしたところ、古瀬K氏は

「あそごさは、一の切、二の切、三の切 ど言う珍らすえ名前のごてるなあ」

「そいづは、その奥に【ほっきり】というのがあっからだ」

とおっしゃいました。

その言葉に私はびっくりしました。「えー、【ほっきり】だがー」。途端に私の鈍い頭が擦れて煙を出しながらも、全力で回転しました。「ほっきり」→「ほっ切」→「堀切(ほりきり)」と結びつきました。私が以前に「一の切」等の地名について、私なりに推論して「不思議な地名についての考察」に投稿しましたが、正にそのことをおっしゃっていたのです。

 私が下手な推論をするまでもなく、清水畑(すずばた)の人達には、「堀切」と「一の切」などの地名についての伝説が伝わっていたのです。畑沢の人に広く伝わっていたわけではなくて、極、一部の人だけに正確に伝わっていたようです。私にいつも背中炙り峠について教えて下さっていた方でさえも御存知なかったのですから、一般の畑沢の方々は全く御存知ありません。

 「ほっきり」は、「ほりきり」と若干の発音の違いはあるものの、ほぼ正確と言えるでしょう。「堀切(ほりきり)」という言葉は、日常会話に出て来ないかなり専門的な言葉です。現代では歴史研究者だけが使用する特殊な用語です。畑沢の唯一と言える農業とは全く関係ない世界の言葉です。当然のことですが、私などは畑沢の楯を勉強し始めて初めて知りました。畑沢に生まれていながら、60年以上もの間まったく知らないでいました。

 ところで、堀切とは、城や楯の防御施設の一つで、水のない堀のことです。空堀のことです。背中炙り峠がある尾根には、比較的大きな楯がありました。西暦1600年に関ヶ原の戦いがありましたが、その前に野辺沢城側が上杉勢からの攻撃に備えて作られたものであろうと専門家は言っています。今から400年以上も前のことです。

 その防御施設である堀切のことを、400年後の現在も御存知だと言うのは尋常ではない気がします。古瀬K氏の先祖は、楯の建設に深く関わったのか又は楯で防御の任務に就いていたのではないかと思います。

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畑沢の田植えは早かった

2015-05-17 18:04:11 | 近況報告

 今年も畑沢へ田植えの手伝いに行ってきました。5月15日、天気予報が目まぐるしく変わり、雨を心配しましたが、どうにか日中は晴天のままでした。山形から畑沢へ向かう途中で、村山市内の田んぼも見えましたが、まだ田植えはほとんど実施していません。しかし、畑沢へ到着してびっくりしました。半分以上が田植えを終わっていました。私の記憶では、村山市内と畑沢は全く逆に進むような気がしましたが、少なくとも今年は畑沢の田植えが早いようです。

 昔、田植えの時期はヘズギ(ウグイ)の産卵期でした。私はいつでも田植え仕事に一生懸命に頑張っているのですが、ついつい千鳥川の水面を覗いてしまいます。しかし、魚の姿が全く見つかりません。昔と比べて激減しているのです。それでも、全くいない訳でもありません。ニガザッコ(アブラハヤ)は、少数ながらもかろうじて生きています。

 川の中は期待はずれでしたが、山の藤は満開でした。朴の木の花も咲いていましたが、そろそろ終わりに近づいています。

 この時期には、タニウツギも咲きますが、こちらはまだ蕾が多いようです。満開は20日ごろかなと思います。

 

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