-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

隣(五十沢地区)の水も美味しい

2017-05-31 21:54:05 | 自然

 平成29年5月31日、いくら五月の終わりと言っても、それでもまだ五月です。それなのに尾花沢市でも30℃を超えて、真夏日になりました。とっても暑い日に、私は尾花沢市福原地区へ水辺の生き物の調査に出かけました。炎天下での調査は、さすがにまいってしまいました。調査の後で畑沢へ行ったのですが、とても動く気にもなれずに山形へ帰ることにし、珍しくも五十沢越えをしてみました。

 畑沢から山を越えると、そこは村山市の上五十沢です。北へ進んで下五十沢を通り抜けて、いよいよ横内へ出るちょっと前で、左側に気になるものが目に止まりました。湧水です。暑い日は無性に飲みたくなります。小学校時代以来、学校からの帰り道では水を梯子する癖がついてしまいました。それは今もしっかりと身に付いています。一生ものです。

 石碑に名前が刻んであります。五十沢開宝清水となっており、平成23年11月に建てられたようです。

 ちゃんと水質検査の結果まで表示されています。何とも配慮が行き届いています。安心して飲めます。そして、最後に書き加えられている五十沢地区民の心意気が、胃袋にじわーとしみます。実際、本当に美味しい湧水でした。

 湧水を拡大してみました。水量が豊富です。

 ところで、畑沢でも湧水をアピールしたいとの話を聞いたことがありました。残念ながら、話だけで終わったようです。

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細野地区の行事(高い山運開き)に参加してきました。

2017-05-29 15:01:30 | 近況報告

 平成29年5月28日(日)に細野地区振興行事の一つとして開催された「高い山運開き&山菜まつり」の山登りに参加してきました。大平山に登って、昼食にビールと蕎麦を御馳走になるメニューです。大平山は細野、畑沢、中沢(村山市)に跨(またが)る山です。この行事は、既に7、8年前から行われているそうですが、私は今回で2回目です。参加者は山登りと山菜取り合計で約70名とのことでした。毎年、参加者が増えているそうです。リピーターが多いのが特徴のようで、細野地区の皆様の気持ちが伝わっているようです。私は昨年知り合った多くの方々と再会することができました。

 参加者は、私をはじめとして「いつも清い生活」している参加者たちですが、あいにく天候には恵まれませんでした。細野地区振興をやり続けている会長が挨拶しても、後ろに聳(そび)えている大平山は、顔だけを完全に隠しています。その手前の三角形の尖った山は、高円堂という大平山の門番をしているような山で、標高が大平山の約半分です。

 

  神主さんが祝詞を揚げ、さらにお祓いをしても山の天気はそのままでした。

 開会式をやっている最中から、昼食用の手打ちそばの準備をしていました。大人数ですから、蕎麦の量が半端ではありません。木の大きな器を使い、手慣れた3人がそば粉を捏(こ)ねていました。尾花沢市内には、蕎麦打ちをしているグループがあるそうで、いろんなイベントで活躍しています。例えば、5月3日に行われた徳良湖の花笠マラソンでは、千食以上を提供したそうです。とんでもないことをやる人たちです。

 林道の終端です。ここで登る前の注意がありました。参加者は年齢、熟練度がバラバラですので、リーダーは人並みならない気遣いが必要です。

 天候はずっと小雨状態が続いて、山頂へ着いても我が愛する畑沢を眺めることができませんでした。参加者は、霞の向こうにあるはずの絶景を想像していたようです。きっと美しい畑沢の風景を思い描いていたでしょう。

 頂上の三角点付近に、「大平山 813.6m」と書かれている仮の標柱を立てました。中央でトンカチで標柱を打ち込んでいます。これとは別に、本格的な標柱は既に完成していて、「農家レストラン蔵」の脇に立てかけていました。重量25キログラムありますので、後日、担いでくるとのことでした。この重さだと私には無理でしょう。

 山頂には、ほぼ役目を終えたタムシバ(通称 コブシ)が花の中心に実を付けていました。この時期に、この花びらはとても珍しいことです。高い山だから気温が低く、開花時期がかなり遅かったのでしょう。

 さらに珍しい花です。オオカメノキの花です。畑沢の背中炙り峠でも5月中旬に咲いていましたが、それよりも半月ぐらい遅くなっています。大平山の山頂だからこその花です。花弁がガクアジサイに似ていますが全く異なる種類の樹木で、ガマズミの仲間です。

 山頂から下ってきて、展望台になっている所で初めて眼下の景色が少し見えました。本当はもっとはっきり見えた瞬間がありましたが、私がカメラを向けると途端に視界が悪くなりました。「雨男」は私だったようです。しかし、とてもそのことは口にできません。ずっと秘密です。

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これが「二の切」

2017-05-20 15:54:15 | 自然

 畑沢の最北部には、戦国時代に作られたと思われる大規模な楯の跡があります。野辺沢城領域の最南端部に位置し、楯岡を始めとした他国からの侵略に対する防御として、また逆に南部方向に進軍する時の最前線基地として機能したものと思われます。楯の周囲には、楯に因んだと思われる沢山の地名が残されています。野辺沢遠江守の幼名である「又五郎」、楯を守った武将と思われる「小三郎」と「平三朗」、堀切(ほりきり)の所在を示す「一の切り」「二の切」「三の切」といったものです。これまで、小三郎、平三朗、又五郎、三の切へ行ったことがありますが、まだ一の切りと二の切へは行ったことがありませんでした。一の切りの近くには砂防ダムが築かれていますので、何となく後ずさりしています。そこで、今回は二の切へ行ってみることにしました。そして、もう一つの理由がありました。去年の秋に楯跡の曲輪から二の切の方を除いた時に、急斜面の途中に階段状の地形が見えました。それを確認したいのですが、曲輪の方から下に降りるには急斜面過ぎて危険なので、二の切から上へ登ろうとしたのです。

 平成29年5月2日、沼沢林道から西の方を覗(のぞ)いた写真です。手前に千鳥川があるのですが、小さな崖の陰に隠れて見えません。川の西の奥に向かって田んぼの跡らしきものが続いていて、沢の両脇が杉林になっています。 

 

 二の切の沢に入って、いきなり猪の塒(ねぐら)を見つけました。猪の塒は、3年ほど前にも畑沢の寺田沢で見ましたので直ぐに分かりました。塒の近くには猪が泥をかき回した「ヌタ場」があり、二つに割れた足跡もありましたので、猪がいることは間違いないようです。今や、猪は畑沢全域を我が物顔で闊歩しているようです。

 

 二の切の沢を奥へ進んでも、依然として田んぼの跡です。地形が段々になっていて、倒れたアシの枯れ草に覆われています。アシが伸びてくるととても足を踏み入れることができなくなります。五月のこの季節だからこそ入り込めた場所です。

 

 二の切の奥で、田んぼの跡が途切れました。田んぼの跡よりも上には、杉が植えられていました。その近くには山菜がどっさりと生えていました。コゴミと呼んでいるある羊歯植物の若芽です。しかし、食べごろの時期が過ぎていて、葉が真っすぐと天に向かって開いていました。

 

 さらに杉林の奥は、広葉樹の藪(やぶ)です。とても、この日は藪漕(やぶこ)ぎをする体力と気力がありませんでした。最近、体力と気力が弱くなっています。1月に雪降ろしで左腕に肉離れの炎症を起こし、2月には肺炎球菌ワクチン接種後に高熱を出すなどしたために、運動不足だったのです。年を取ると、運動不足は直ぐに影響してしまいます。でも、少しずつ運動を再開していますので、徐々に体力が回復しつつあります。筋力と脳の働きは、まだまだ鍛錬できます。

 肝心の楯に関する段々地形の確認は、写真撮影だけにしましたが、全く確認できないと同じようです。労を惜しんでは目的は達成できません。そんなことは分かっているのですが、今の私の実力はこんなものです。写真に見える稜線部は楯の曲輪の際です。尾根に三つの大きな曲輪があり、その一番北の曲輪です。それにしても、険しい所です。

 

 最深部を見ましたので、元来た方へ戻ることにしました。すると、人の足跡がありました。私以外にも人が入ってきたようです。足跡をよく見ると、スパイクが付いています。山菜採りを本格的に行う人がよく使います。どんな斜面でもずり落ちることなく登れます。私は使ったことがありません。登る人にとっては便利な物なのですが、地面にはかなりの損傷を与えます。勿論、スパイクがない靴でも自然に損傷を与えますので、偉ぶったお話はできませんが、損傷程度を抑える心配りはあるべきことと思います。

 次の写真はコゴミがむしり採られた跡です。スパイクを付けた御仁は、やはり山菜取りだったようです。

 

 登る時には気づかなかったのですが、沢から東を眺めると、立石山が正面に見えました。残念ながら山全体が無残な傷跡になっています。このような姿になってから、もう何十年も経っています。採石を始める時の許可条件には、緑化などの環境保全工事を義務付けていたはずですが、「会社が倒産してしまったので、できません」となりました。全国の採石業者の常套手段です。「許可の際には環境保全経費を供託金にすべきである」と半世紀も前から言われていたのですが、まったく制度化されないままです。採石を始める時は新会社を作り、採石を終了しようとする時は「採算が取れなくなった」として、会社が倒産します。さて、この立石山採石の実態はどんなことだったのでしょうか。

 

 沢の中に、白い動物の毛が落ちていました。「もしや、山の獣が密猟者の餌食になったのではないか」とも思ったのですが、とんでもございません。野兎もカモシカも猪もそして狐も冬毛から夏毛に変わったのでしょう。冬毛が抜け落ちたものです。

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畑沢にも頁岩(けつがん)の層がありました。

2017-05-13 16:56:17 | 自然

 平成29年5月2日、背中炙り峠の楯を調べるために、林道を通って三の切の奥部に入った時に、道路の山手に見たことがない岩がありました。畑沢の表層地質は殆どが凝灰岩で、千鳥川沿いに川が運搬した土砂があり、大平山の山腹から上に流紋岩がどっかりと座っています。その外の地質は見られないものと思っていました。このことは、平成25年に投稿した「尾花沢畑沢の表層地質」を御覧ください。

 今回、見つけた岩は、凝灰岩の特徴も流紋岩の特は徴も備えていないのが、離れた場所から見ただけで感じてしまいました。などと言うと、私がとても鋭敏な感覚を持っていかのようですが、正直に申しますと、これまで何回も同じ場所を通っていながら、全く気が付かなかったのです。実は私の眼は節穴なのです。それでも、やっと気が付いただけ救いがあります。一見、流紋岩のように一方向に割れやすい性質を持つようで、横に長くなっています。凝灰岩は表面がざらついていますが、これは平滑になっています。今まで、どうして気が付かなかったか不思議なくらいに特徴的です。車を降りて近づきました。頁岩(けつがん)であることが直ぐに分かりました。頁岩とは、海底などに泥が堆積して固まったものだそうです。この名称の由来は、本のページをめくるように層に沿って割れやすい性質を持つことから来たそうです。こんな知識をインターネットで知ることができます。私は、「けつがん」の発音から良からぬことを想像していましたが、今は恥じ入っています。頁岩には、しばしば大昔の化石が含まれていることがあるようです。畑沢でも化石が出て来るかもしれませんが、私は発掘する根気はありません。どうぞ、興味のある方が頑張って下さい。

 近くに地層が露出している所がありました。普通なら地層が露出していることはないのですが、昭和25年に沼沢へ林道が作られたときに、崖が削られたようです。頁岩の地層は厚いものではなくて、1m程度見えました。露出していた部分的な範囲では、少なくとも南から北へ向かって上に向かっているようでした。下の写真では、左から右へ上がっています。

 さて、この頁岩は果たして畑沢に全く関係ないものでしょうか。上述した畑沢の表層地質で調べると、畑沢の表面には表れていませんが、畑沢の東側に隣接している細野地区の南部と、畑沢の西部に隣接している村山市中沢の道玄に頁岩の表層地質がありました。つまり、畑沢の両隣に頁岩があるのです。畑沢は頁岩の上に凝灰岩と流紋岩がどっさりと乗っかっているので、表面に出てこないだけのようです。しかし、かなり深部にあるので、こういった切り崩された崖にだけ出て来るようです。

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畑沢 昭和5年の年齢階層別人口等々

2017-05-13 16:08:36 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査した内容が記載されています。
 前回と同様に「郷土調査」の表では、漢数字を用いていましたが、算用数字に置き換え、列の順序も左右を逆にしました。また、常盤村と宮沢村の統計は昭和5年、尾花沢町の統計は昭和4年のものを用いています。激動期における1年の違いは大きいのですが、しょうがありません。そのことを念頭において以下の内容を御覧ください。
 今回は、この中から年齢階層別人口構成を見てみましょう。


常盤村
 


宮沢村
 


尾花沢町
 


 宮沢村も常盤村も同じような形をしています。これらのグラフから、私なりに気になった点を幾つか挙げます。


1 40、50歳代の女性について


 常盤村の①と宮沢村の③は、40歳代と50歳代です。両村とも男性が女性よりも人口が多くなっています。しかし、尾花沢町の同年代は女性の方が多いようです。尾花沢町では、10歳未満の年代を除けばすべての年代において女性の人口が男性を上回っています。元々、いつの時代においても、男子の出生率は女子を上回っているものです。ところが、男子は女子よりも生命力が弱いので、次第に男子が減少してしまい、各年代において女性の方が男性よりも多いのが普通であるはずです。その点からいえば、尾花沢町の男女人口の傾向は極、自然なものと思われますが、常盤村と宮沢村の40、50歳代で見られる女性が少なかったという現象には、特別な理由が潜んでいるものと思います。例えば、農村部の女性は、出産、子育て、そして家事などの多方面において男性以上の過酷な労働があり、体力の消耗は現代から見れば想像を絶するものがあったはずです。それが、30~40歳代ごろの女性の死亡率を上げて、40、50歳代になると女性の方が少なくなっていたのではないかと思われます。因みに所業別の戸数を比較してみます。



 
 やはり、尾花沢町は工業、商業、公務自由業など農業以外の職業の戸数が、二村と比べて圧倒的に多いようです。尾花沢町の周辺部は農家が多かったと思われますが、中心部にはほとんど農家がなかったでしょう。常盤村・宮沢村と尾花沢町の40、50歳代における男女差は職業の違いによることが考えられます。

2 常盤村の30~34歳代の女性について


 常盤村の②では、30~34歳代の女性がここだけ男性よりも極端に多く、逆に50~54歳代の男性が女性よりも極端に多くなっています。常盤村はその他の年代でも大きな男女差が見られるところがあります。宮沢村や尾花沢町では見られない現象です。いろいろと考えてみましたが、これを上手く説明できる想像はできませんでした。

3 尾花沢町の20~24歳代の女性について


 尾花沢町の④では、女性の人口が他の年代から突出して多くなっています。これはどう考えても尾花沢町の内部だけではなくて、外部からの移入が原因でしょう。尾花沢町の周辺部で生まれ育った結婚前の若い女性が、例えば商店や工場の働き手として尾花沢町に出てきたものでしょう。

 ところで、「郷土調査」には、尾花沢町だけの面白いデータがありました。次のグラフのように職業別の戸数の年次推移が分かるのです。
 


 短期間で大きく変動しているところが、大正10年から大正13年と大正15年から昭和4年にかけてです。特に大正11年に農家が300軒でしたが、2年後の大正13年には609軒になっています。2倍に増加しています。その分がほぼそのまま全体の戸数に影響していています。町の区域が同じままならば、あり得ないことだと思いますが、町に新たな地域が合併されたりすると、こういう現象もありうることでしょう。尾花沢市の沿革史などに解答があるのかもしれません。
 次に大正15年から昭和4年では全体戸数がほぼ同じですが、職業の内訳が大きく変動しています。商業と工業はほぼ変動しておらずに、農業と其他有業との間で相、反する動きが見られます。農業の場合は、純粋な農産物の生産以外に副業的なことをやっている場合が普通です。その年のその副業的な収入の大小によって、どちらかの職業にカウントするかが違っているのかもしれません。

 畑沢の話から区域が大分広がってしまいました。畑沢に注目してみます。次の表は、常盤村内部の職業別戸数です。

 
 畑沢の職業の殆どが農業です。当然でしょうね。それでも工業が2戸ありますし、商業が1戸あります。はて、畑沢で工業とはどんなものでしょうか。そのことは商業でも言えます。当時の畑沢のことを想像するに、農業の外には、炭焼き、大工、左官、染屋(実際は染屋そのものでなく仲介業)が挙げられます。炭焼きは農業に、大工と左官は工業に、染屋は商業に入れられていたと考えてみました。公務自由業には教員や一般公務員が考えられます。常盤小学校に勤務していた青井法善氏氏と大戸広右衛門のお二人が該当します。工業と商業に従事していた3戸は見当がつきません。

 今さらですが、ここで職業の分類についてします。これまで紹介した表やグラフで用いていた職業の分類の仕方は、現代の統計では使われていません。国勢調査での分類は次のようになっています。

  農業・林業、建設業、製造業、運輸業・郵便業、卸売業・小売業、宿泊業・飲食サービス業、

  医療・福祉、サービス業(他に分類されないもの)、その他

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