-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

神仏の前では悪いことができません

2014-11-29 11:11:41 | 自然

 園芸業者などによる盗掘により、ふるさとの山々から多くの山野草が消えてしまったことは、これまでくどいと思われるほどに何回も投稿しました。背中炙り峠周辺でも、春蘭(シュンラン)の姿を見ることができななっています。ところが、地蔵が祀られている「万年堂」の真ん前に春蘭が二株ありました。これほど目に付きやすいですから、盗掘業者の目に入らなかったはずはありません。盗掘業者は見つけたけれども、地蔵さんに睨まれたか、地蔵さんが盗掘業者の良心に訴えたのかのどちらかだと考えることにしました。盗掘業者にも良心がったことを喜びたいと思います。地蔵さんは、畑沢村の「こころ」です。

 来春、春蘭の開花を見ます。きっと、きれいな花が開きます。

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県道29号線(背炙り峠越え)の石垣

2014-11-27 18:00:25 | 歴史

 自動車が通れる現在の背炙り峠越えの県道29号線の急峻な路肩などには、沢山の擁壁が作られています。最近に作られた擁壁は、どれもコンクリートの間地(けんち)ブロックが積まれていますが、まだコンクリートが多用される前は、天然の石材を積み上げていました。石材は地元で調達されていたようで、尾花沢市側と村山市側では全く違うものが使われています。

 尾花沢市側の斜面は比較的緩やかなので、昔の擁壁は一か所だけです。畑沢からしばらく上に登ると、鉄道における「スイッチバック」のように急カーブを右に曲がり左に曲がって高度を上げている場所に石垣の擁壁があります。用いられている石材は、火山岩が河川の中で丸くなったものです。畑沢の千鳥川にはこの石材はありません。それではどこから来たのでしょう。おそらく朧気川から運ばれた物だと思われます。畑沢には、江戸時代に「ローデン」という石切り場がありましたが、この擁壁が作られたと思われる明治時代は既に石切り場としては使われていなかったのでしょうか。畑沢の集落内の擁壁にも、使われていたのは、この丸い石であり、畑沢産の石材は使われていませんでした。

 村山市側の石垣による擁壁は二ヶ所で確認できました。最初の石垣の擁壁は、背中炙り峠の乳母木地蔵堂直下にあります。乳母木地蔵堂の直下の崖には、多量の地下水が湧出する沢があり、その脇を擁壁で固めています。長方形に成形された凝灰岩が整然と積まれています。

 村山市側のもう一か所の石垣の擁壁は、「ビューポイント」と言われているカーブからもう一つ下ったカーブの足元を固めています。こちらは、単純な長方形ではなくて、不定型な石材を巧妙に組み合わせて積み上げています。工事の現場に石工(いしく)がいて、石材を加工しながら石を積み上げたのでしょう。村山市側には石工がいたと思われます。村山の石材は、楯山の東側に石切り場から切り出されたのでしょう。ここの石材は建築材としては良質な凝灰岩で、村山市内の塀の基礎、水路の護岸などに使われており、今でも多くを目にすることができます。

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熊野神社周辺と有路一族の集落

2014-11-25 10:22:58 | 歴史

 畑沢の熊野神社は、下畑沢一帯を隈なく見渡せる高台にあります。その位置するところから判断するに、畑沢全体と言うよりもあくまでも「向かい」地区のために建てられた感じがします。事実、楯岡高校の「郷土Ⅱ」に資料として掲載されている「村社 熊野神社縁起」によりますと、今から約360年前の明暦三年(西暦1655年)に有路猶昌が有路家の氏神として有路家の子孫繁栄と村の安全を願って建てたとあります。


村社 熊野神社縁起   (縦書きを横書きに変更)
 抑ハ我家ノ先祖ハ紀国ヨリ出テ世々野辺沢家ヘ仕エテ忠勤ノ家柄ナレドモ国ノ存亡家ノ盛衰ハ浮世ノ習遁レカタキモノカ 戦乱ノ世ニ於イテオヤ、武勇ヲ以テ聞タル野辺沢家モ最上家おや郷御逝去の後幾何モナク御知行御取上トナリ此時延沢家モ共ニ滅亡スルニ至ル、是に於て重立タル家来の面々二君ニ仕エテ名ノ辱メンヨリハ一生ヲ農ニ朽果テンコソ本望ナリトテ緑ヲ求メテ在ニ住居セリ、其時我二才ナリシモ外叔里里見蔵人ノ養育ニヨリ成長シ一度新町治郎右エ門養子トナリ子細アリテ慶安元年畑沢ニ家ヲ造リ別居スルニ至ル、然ルトモ氏神ナキ事ヲ朝夕之ヲ嘆キ居ルガ先祖ハ紀国ノ産ナルヲ思イ先年伊勢神宮ノ序手ヲ以テ熊野三社権現ヲ勧請シ奉ル 是ニ於テ去年ヨリ居家ノ辰巳ニ当ル持山ノ出先ヲ平ラカニシ新タニ社ヲ造営シ今年成就シタルヲ以テ今月今日赤飯ト酒ヲ施侍シ禰宜神主ト法主ノ供養シ御祭ヲ修業シ卒リヌ
仰キ翼ハ此功徳ヲ以テ当家家門繁栄子孫長久無病息災別シテハ村内安全ニ守ラセ給ヘト謹テ祈リ奉ル、又我ガ子孫ノ者ハ能ク尊崇シテ年々御祭ヲ怠ラヌ様心掛クベキ也 アナカシコ    猶昌
  明暦元年三月十五日


現代語訳
 我が家の先祖は紀州の国から出て、代々、野辺沢家に忠勤してきた家柄であるが、国の存亡や家の盛衰は世の常であって遁れがたいものである。ましてや戦乱の世ならばなおの事である。武勇で聞こえた野辺沢家も最上家親(もがみいえちか)郷が亡くなってからほどなくして領地を取り上げられて、この時に野辺沢家もともに滅亡することになった。そこで重臣達は二君に仕えて名を辱めるよりは、一生を農業に朽果てるこそ本望であるとして縁(資料には「緑」としてあるが、文の前後から察するに「縁」を誤った可能性がある。)を求めて田舎に住んだ。その時、私は二才であり、外戚の里見蔵人に育てられて成長し、一度、新町の治郎右衛門の養子となったが、事情があって慶安元年(西暦1648年)に畑沢に家を建てて別居することになった。しかしながら、氏神がないことを朝に夕に嘆いていたが、先祖が紀州の国出身であることを思って、先年、伊勢神宮の序手(?)によって熊野三社権現の分霊を請じ迎えて祀った。そこで、去年から住居の辰巳の方角(南東方向)に当たる自分の山の突端を平らにして新たに社を造営し、今年に完成したので本日、赤飯と酒を施して禰宜神官と法師による供養を行い終えた。
仰ぎますに、この功徳を以て当家と一門の繁栄、子孫が長く久しく無病息災であること、さらに村の安全を守って下さるよう謹んで祈り奉る。また、我が子孫はよく尊崇して年々、祭りを怠らぬよう心掛けるべきである。
猶昌  
明暦元年(1655年)三月十五日 


 有路猶昌の先祖である有路但馬守は、野辺沢家の筆頭家老を勤めていましたが、最上家のお取潰し(西暦1622年)とともに野辺沢家も滅亡しています。有路家は、畑沢で農民として定着したそうです。野辺沢家がなくなってから約30年後に熊野神社が建てられたことになります。
 ところで、延沢城があったころ、下畑沢には山楯と背中炙り峠を守る楯の二つの楯があったと言われています。熊野神社はその山楯と丁度、対面するような位置にあります。野辺沢氏がいなくなっても、軍事的な意図をもって熊野神社を建てたのかと思われるほどに位置関係が絶妙です。同様に下畑沢の稲荷神社も、下畑沢だけでなく中畑沢と上畑沢が遠望できる位置に建っています。下畑沢の二つの神社は、単なる宗教上だけでなく、別の目的をも匂わせています。

 熊野神社を建立したと伝えられている有路一族が多数住んでいる「向かい」地区から熊野神社側を撮影しました。一番手前に見えるのは、「畑沢地蔵堂」で、その奥に見える杉の大木の陰にあるのが熊野神社です。地蔵堂も有路一族が建立したと伝えられています。さらに、写真の右奥の林の中には有路一族が建立した「三峰神社」があります。有路一族の神仏が、「向かい」地区を見守っています。

もう少し、拡大して見ました。熊野神社と地蔵堂が一体的であることが分かります。

 神社と地蔵堂を結ぶつづら折りの歩道の脇には、寛政七年(1795年)に如意輪観音が造立されています。

 

 その如意輪観音の北側には、古い墓石が横たわっていました。江戸時代であることはほぼ間違いなさそうですが、どなたの墓であるかは分かりません。昔は地蔵堂に庵主様が住んでおられたらしいので、その方の墓である可能性があります。戒名がありますので、畑沢にあった浄土真宗ではありません。龍護寺と同じ禅宗かもしれません。

 熊野神社から「向かい」地区を見てみました。当然のことですがよく見えます。

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弘法清水の位置確認作業

2014-11-24 18:24:53 | 歴史

 背中炙り峠古道の沿線にある「弘法清水」の位置を地図上に確定したいので、いつものように現場へ出かけました。私には測量技術なるものがありませんので、極めて原始的な手法を試みています。県道から弘法清水のある方角目指して、傾斜角40度ぐらいの急斜面を直登しました。弘法清水の近くの立木に目印を付けました。このたび亡くなった、偉大な俳優である高倉健氏の「黄色いハンカチ」を真似たように見えますが、それとは雲泥の差があります。

 これを県道から双眼鏡で探し、望遠で撮影。かなり小さくなりましたが、撮影できました。幸い、落葉したので、古道のラインもはっきりと見えています。大よその位置を確認することができました。

 弘法清水から流れ出た水は、県道とクロスします。コンクリート枡で受け止められ、暗渠へ導かれています。残念ながら、ここまで流れてきた水は飲用には適しません。岩から湧出したばかりの水は、何の混じり気がない美味しさのですが、地表に出て流れ下った水には、落ち葉の分解物や生き物の排泄物などが多く混入しています。県道まで流れてきた水は、既に「弘法清水」ではなくなりました。

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背炙り峠の秋深し

2014-11-14 15:14:52 | 近況報告

 背中炙り峠に残っている「楯跡」と古道を確認するために、昨日(11月22日)に背炙り峠に行ってきました。

村山市中沢、正しくは「道玄」から峠への道に入り、車を止めて後ろを振り返ると、西に葉山が雪化粧しているのが見えました。まだ、本格的な降雪にはなっておらず、間の抜けた白さです。

 逆に東の方には、古道沿いの背中炙り峠がある稜線が見えます。もう既におなじみの大きな三本杉の場所です。広葉樹の葉はほぼ落ちて、杉の姿だけが目立ちます。この道も、今年は11月29日で閉鎖されます。再開はなんと来年の5月29日だそうです。実に遅い再会です。春先の最もよい時期に通れません。うーん。これでは、春の連休などで畑沢に里帰りする人たちはがっかりします。

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