-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

出てきた約50前のスライドフィルム

2024-06-21 09:05:13 | 思い出

 若い時に貯めていた写真、ネガフィルムそしてスライドフィルムが、沢山、あります。退職したら整理しようとしていたのですが、退職して10年以上も経つのに全く進んでいません。ついに、妻の「いつやるの」一言で、重い腰を揚げざるを得なくなりました。終活の一環になります。

 フィルムをパソコンに取り込む方法は、お金を出せば様々あるようですが、しみったれには出すお金がありません。カメラの道具箱を漁って、次の簡易の装置を準備しました。

説明します。

① デジタルコンパクトカメラ(略して「コンデジ」とも言います。)

 娘が使わなくなった古い一眼レフがあったのですが、酷使して壊してしまいました。当然、マクロレンズなども使えません。でも、コンデジには「スーパーマクロ」という素晴らしい機能があるそうですが、その機能を知ったのは撮影後でした。いまさら撮り直しするのも面倒なので、これからお見せする写真はスーパーマクロなしです。

② 接写レンズ(58mm口径)

 一眼レフなら、本格的な憧れのベローズを使えるのでしょうが、一眼レフを持っていたとしても、ベローズを買える財力がありません。一眼レフなら接写リングも使えます。無い話をしてもしょうがありません。結局、接写レンズになりました。これは周辺部の収差が大きく、画像が歪みます。

③・④ ステップダウンリング 2個(58口径→55) (55→52)

 カメラを買い替えたときに、フィルターが合わなくなったので、無理矢理これで口径を合わせたものです。こんな時に役立ちます。捨てなくて良かったです。

⑤ スライドコピーアダプター

 スライドフィルムやネガフィルムを固定する装置です。口径52mmでカメラの口径58mmに合いません。また、カメラとの距離を調整できるようになっていますが、固定できません。フィルムを交換するたびに少しずつ動いてしまいます。一枚ずつピント合わせと明るさ調整が必要なので、時間がかかります。

 

 ①から⑤までを繋ぐと次の写真のとおりになります。何となく装置っぽくなりました。素晴らしいメカが詰まっていそうにも見えますが、実際はメカと言えるほどのものではありません。

 

 昭和49年か50年のスライドフィルムを接写していると、思わぬ風景が残されていました。上畑沢の地蔵堂(延命地蔵堂)です。私は自分で撮影したこの建物の写真は持っていないと思っていました。そのために平成30年に書いた「畑沢を再発見」には、上畑沢に住んでいる方が平成8年に建替えをする際に撮影した写真を使わせてもらいました。素晴らしい写真でした。ところが、私はそれよりも22年ごろ前に撮影していました。しかし、建物の様子がよく分かりません。撮影の意図が不明確です。お恥ずかしい次第です。

 言い訳をするならば、その頃もその後もずっと、私が畑沢のことを書くとは、全く考えていませんでしたので、撮影に対する積極的な意図はなかったと思います。そもそも、スライドフィルムにするためのリバーサルフィルムは、山や動物を撮影するために買っていました。山で使い切れずに残ってしまったフィルムを使い果たすために、無駄に撮影していました。それが貴重なものになっているのです。拙さが溢れている写真ですが、面白いものも入っていました。電柱は木製でもコンクリート製でもなく、鋼管製のようです。

 

 上の写真の外にもフィルムがありました。その当時は県道の工事が行われていました。道路幅を7mまで拡張して、自動車同士がすれ違いできます。それ以前は、すれ違いできませんでした。自動車は頻繁に来ることはなく、すれ違いになるのは滅多にありませんでしたので、当時はすれ違いできない道路でも困ることは少なかった気がします。この後、何年かしてから集落内全線が舗装され、さらに暫くしてから背炙り峠の道路も舗装されました。

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こだわっていた若き日の「2m」

2022-02-13 15:58:08 | 思い出

 下の写真は私が初めて買ったゲレンデスキーの板です。上の方が就職1年目に買ったもので、それが壊れてから次に買ったのが下の方です。どちらも2mです。板の両側が直線的で、長さが2mあります。もう使う事もないだろうと終活の一環として整理しようと試みました。

 今、使われているカービングタイプの板は中央部分がくびれた曲線で、かなり短かくなっています。私が初めて新品のスキーの道具を買ったのは、就職した年でした。約半世紀も前のことです。小学校へ入る前からスキーで遊んでいたのですが、常に「お下がり」で板の角がすり減って丸くなっていました。一緒に遊ぶ良い子たちも同様でした。それだけに、スキーを買える嬉しさはひとしおでした。

 自分で買える日を夢見ていただけに、スキーに関する聞きかじりの知識を一丁前に持っていました。「スキーを買うときは、手を伸ばして届く長さがいい」は常識でした。しかし、これは充分にスキー技術を有する場合であって、決して初心者に当てはまる基準ではありません。それでも、畑沢で小学校入学前からスキーに慣れ親しんでいるとの自負だけがある若者(馬鹿者)は、2mにこだわりました。小学校時代の畑沢でのスキーは、踵が固定されていなくて歩くことを基本としています。私たちはパチンコと呼んでいましたが、正しくはゾンメルスキーだそうです。次の図は2018年4月8日に投稿したものです。

 ゲレンデでターンするような種類のスキーではありません。当然、パラレルターンはおろかボーゲンでさえも真面に滑ったことがありません。つまりゲレンデスキーは初心者そのものでした。畑沢の湿った雪は横滑りを許さないのでターンには向かず、どうしてもターンしなければならないときは、転倒を覚悟して力ずくでテールをジャンプさせていました。その力ずくのジャンプをすれば、必要な時はいつでも曲がれると信じ込んでいたのです。

 そのままに大人になった若者が、自分の給料で初めてスキーを買いました。頭の中にあるスキーの長さは、夢見た2mです。自分の技量はお構いなしです。絶対、2mでした。

 若者が何十年も経て高齢者になってから、娘が蔵王でスノーボードをすると言うので、連れて行きました。ロープウェイのゴンドラに乗ったら、私のスキーが一際、頭上高く目立っていました。どうだ、ベテランスキーヤーのスキーだぞ。などと馬鹿な気持ちはありません。ただ、偏(ひとえ)に世の移り変わりを静かに感じていました。

 ということで、思い出が沢山ありましたので、終活としての処分をする決心は先送りと相なりましたとさ。捨てるのは何時になるのでしょう。

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捨てるなど 畑沢育ちのプライドが許さん

2020-03-17 16:51:15 | 思い出

 小学生時代、低学年を過ぎて3年生にもなると、畑沢の男の子は「自転車のパンクを直せない」などと口にすることができなくなりました。自転車は通学用ではなく学校から帰ってからの遊び道具でした。道は砂利道でしたし、子どもたちの自転車の扱いも悪かったからでしょうか、しばしばパンクしたものです。チューブの質も悪かった可能性もあります。パンクしても大人を当てにできません。大人は野良で仕事をしているし、子どもの相手などする余裕がありません。パンクは自己責任で直さなければなりません。当時、パンク修理のための専門的な道具などは一般家庭にありませんので、作業は困難を極めました。ホイールからタイヤを外すのに大きな力と技術を要します。手当たり次第に適当な物を試して何とか外したものです。後の作業は大したことはありません。小学生でもできました。修理に必要な材料は、「ゴムのり」「やすり」「古チューブ」です。古チューブはチューブを更新するときに大事に保管したものです。

 この技術があれば、ゴム長などの修理は自転車と比べて極めて簡単なものです。いつも穴が開けば自分で直していました。修理できないことは恥ずかしいことでした。畑沢の子ども時代から、今でもそのプライドを持ち続けています。しかし、最近のゴム長はなかなか穴が開きません。穴が開けば、待ってましたと修理をします。我が家にたった一つ修理したゴム長が下の写真です。汚い画面ですが、御容赦ください。これの修理は簡単でしたが、既に3年以上も経ちましたが、全く問題ありません。

 

 ところが、別のゴム長を同じ手法で修理しても直ぐに剥がれてきました。再度、より丁寧な作業で修理しても剥がれました。最近はゴム長と一口には言えない様です。ゴムの姿であっても、全く異なる材料が使われているようです。自転車用の「ゴムのり」では通用しないのではないかと疑い、別の接着剤を使うことにしました。私が日曜大工に使っている接着剤です。結構、接着力が強かったので、ゴム長にも通用する可能性があります。初めての挑戦です。

 

 この接着剤は、自転車用と比べて粘性が高いので、はみ出した部分が実に素人っぽく汚くなりました。しかし、ゴム長は作業用です。体裁にこだわりません。今度、畑沢で水の中で作業するときに、その効果が試されます。

 

 今度、穴が開いた時のために、まだ古チューブを確保しています。

 

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頭のテッペンにチクリ 痛かったー

2019-01-24 19:52:26 | 思い出

 下の写真は今から約40年前のスズメバチの巣です。私の実家にぶら下がっていました。しかし、只ぶら下がっていたわけではありません。

 私の頭に毒針を射し込んだ憎き暴力団です。私とスズメバチは、私が巣の下を通っても、春や夏の間、極めて平和友好的な関係を維持してきたのですが、秋が深まっていつものように巣の下を通ったら、急に頭頂部に激痛が走りました。ブーンと羽音もありました。スズメバチが攻撃したのです。

 あんなに平和共存してきたのに、私には珍しいくらいに「スズメバチいじめ」をしなかったのに、宣戦布告もなかったのに、にもかかわらず一方的な攻撃でした。スズメバチは秋になると性悪になり、少しでも巣に近づく者があれば敵とみなして攻撃します。そうだった、もう秋になっていたのです。迂闊(うかつ)でした。

 確かに自然の摂理ですので、諦めるべきです。しかし、「スズメバチいじめ」していた頃の論理が頭に蘇(よみが)りました。最近、世界的に流行っている「報復措置」です。世界で行っている「報復措置」は、人の命を平気で奪います。私のそれは、スズメバチの命を奪いますので、まだ‥‥。ん?、でも似ています。恥ずかしい限りです。

 さて、どうしてやろうか。火を着けたいが家までもが燃えてしまいます。ならば昔、鳴らした2B弾を発射をしたいのですが、もうそんな危険な物は売っていません。殺虫剤攻撃しようにも、当時は遠方への噴射する能力がありません。悔しくて、悔しくてどうしようもない気持ちでカメラを向けました。


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雪の中の一本道

2018-05-12 15:10:30 | 思い出

 畑沢は春を迎えて、水と緑が活き活きと輝いているのに、今さら「雪の中の一本道」などと寝言を言っているのかとお思いになるでしょう。そうです、異常事態なのです。2月以降、孫が遠くからやってきたり、娘が出産のために里帰りしたりして、ずっと忙しい状況が続いています。畑沢へ出かける機会がなかなかありません。

 皆さんは私を単なる老いぼれとお思いでしょうが、小さい子の子守は何故か人並み以上なので、その力を見込まれてしまい、結構、期待されてしまいました。その結果、動けないのです。

 そこで、畑沢の近況をお伝えすることができず、古い写真から昔を思い出してもらいます。畑沢は今では冬でも自動車が通行できますが、昭和40年代までは、冬の間はずっと自動車が通れず、雪の上を踏み固めただけの一本道でした。新雪が積もると、上中下の地区から当番が出て、荒町までカンジキで踏み固めました。踏み固められた道は、たった一人が歩ける細いものです。当然、反対側から人が来てもすれ違うことができません。

 そんな当時の写真があればと思いましたが、残念ながら私は持っていません。しかし、そのような状況に似た写真がありました。昭和50年1月の写真です。当時は冬でも除雪車が来るようになり、原則的には自動車が通れるようになっていました。ところが、雪が積もったからといっても必ず除雪されるものではなくて、除雪の回数が少ない状況でした。そのために、雪が何日も続いた後の暫くの間は、自動車が通れない昔のままの一本道になりました。下の写真がその時のものです。中央が道路ですが、完全に雪に覆われており、真ん中に一人が通行できる細い道が見えます。

 そのころの下畑沢の状況も写っています。当時は消防団のポンプ小屋の右脇に、畑沢地区の米蔵がありました。入り口には下屋がかかっています。右脇に電柱が立っていますが、道路沿いに立てられたものではなくて、道路と交差して配線されています。右奥の家屋は向かい地区です。畑沢地蔵堂も古い建物のままです。熊野神社の大杉は、今よりも数が多かったのですが、左端の少し斜め気味の杉は平成年間に倒れる心配があったのか、伐採されました。

 次の写真も同日に撮ったものです。向かって左が畑沢分校で右側が畑沢の木炭貯蔵庫です。どちらの屋根にも沢山の雪が積もっています。そろそろ雪降ろしが必要です。分校はこれから6年後の昭和56年に休校となり、さらに13年後の平成5年に閉校になりました。

 木炭の生産はやっておらず、木炭貯蔵庫は既に目的を失っていました。


 木炭貯蔵庫を最後に記録した写真は、次のとおりです。平成17年の豪雪の時で、屋根の雪がいかにも重そうです。それから1、2年でこの建物が潰れてしまいました。

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