-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

そう言えば、花の木川とも言っていた

2017-01-31 20:29:20 | 思い出

 まだ雪が少なくて、「今年は暖冬」と思っていた1月10日に、畑沢へ行きました。山形から尾花沢を通って畑沢へ行くまでに、朧気川を三度渡ります。最初は尾花沢の朧気地区で、この川の名前はこの地名に由来しています。次に古殿を過ぎて車段へ登る時が二度目です。最後に、荒町の集落が切れて松母へ行く途中で渡ります。畑沢へ行くのに、これほど何度も同じ川を渡るのも、縁の深さを感じさせます。

 今回は車段へ登る時の橋のお話です。いつものように取り留めのないお話になります。この日、曇り空でしたが、古殿を過ぎたあたりで急に雲間から日が刺して、明るくなりました。私の気持ちは敏感に反応して、やはり明るくなりました。大好きな川がありましたので、車を止めて眺めることにしました。

 橋の欄干を見ましたら、「はなのきばし」とのプレートがありました。「はなのき」は何処か懐かしい響きです。水が好きで水辺をさまよい歩くので、川の名前には慣れているのですが、「はなのき」は、このところ耳にしたことがありません。

 でも、昔はしばしば口にした言葉でした。それは小学校で校歌を歌うときでした。現在の常盤小学校の校歌は、昭和35年頃に作られました。その中に「花の木川の水清いほとり」の文言があります。一級河川「朧気川」は、常盤地区を流れるときには「花の木川」と呼ばれていたようです。「花の木」は正式な川の名称ではないようですが、唯一、この橋に使われています。

 橋にはもう一つのプレートがあり、「昭和3年10月」書かれています。昭和3年に橋が作られたという意味だと思いますが、橋の表面から感じる新しさと「昭和3年」は不釣り合いです。恐らく、昭和3年に作られて、その後、何度も改修されたものでしょう。最後の改修は極、最近のようです。

 ところで、畑沢生まれの私には、この橋は憧れでした。小学生時代に、この地区の同級生たちが、話してくれました。

「車段の橋の下は、深くなっていて、足が底に届かない」

「そこには大きいナマズがいるんだぞう」

 畑沢の千鳥川でしか泳いだことがない子供には、足が届かない川というものを想像できません。千鳥川の何処へ行っても足は届きます。また、ナマズなどという魚は畑沢にいませんので、当然、見たことがありません。小学校2年生ごろの国語の教科書にナマズが出て来るので、この橋の下に潜りたいのですが、泳ぐ力がありません。児童会規則でも他地区での遊泳が禁止されていました。気持ちだけが橋の下に潜っていました。今、泳ぐ力を身に付け児童会からの拘束も受けなくなりましたが、橋の下に淀みがなくなりナマズもいなくなってしまいました。

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大寒波です。でも負けません。

2017-01-16 15:09:11 | 近況報告

 1月14日、尾花沢市大字鶴子の花笠高原荘で常盤地区の「新春を語る会」という役員等が集まる祝賀会で「畑沢の宣伝」をしてきました。地区の各区長の外に、市の特別職の方々、教育関係者がおられました。初めてお会いする人が多いはずなのですが、以前からお会いしたことがあるような錯覚を覚えました。同じ故郷であることが、そうさせるのでしょう。初めから親しみを持てました。いい時間を頂戴しました。

 祝賀会の中で、尺八とビオラの演奏がありました。尺八が甲高く「ヒョーン」と響くと、侘びと寂(さび)の世界へ入ります。ビオラの心地よいリズムと音色が、夢の世界へ誘います。音楽音痴の私でさえ感激しました。できれば、常盤地区の総ての方に聞いていただきたいと思いました。まして、小学生、中学生、高校生が、常盤地区で聞くことができれば、故郷に対する印象ががらっと変わり素晴らしいものになるはずです。故郷への思いを育むには、いい思い出を作ってあげることが必要です。私の子ども時代は、故郷の苦しい所だけを見せられていました。そのために、故郷の良さに気付くまでに非常に長い時間を要してしまいました。

 祝賀会が終わって、いざ帰ろうとしたときに、何処に帰るべきか迷いが生じました。1月11日ごろから寒波が襲来していて、連日、尾花沢市内は大雪が降っていました。その中でも14日はホワイトアウト状態になるほどの大雪でした。花笠高原荘から山形へ帰るのは、極めて危険な状態です。迷った挙句、畑沢の小屋に泊まることにしました。事前に天気予報を見て、山形へ帰れないことも予想してそれなりの準備をしていました。冬山用のダウンジャケット、寝袋、炊事道具、米などです。若い時は、しばしば登山していたのですが、最近は1年間に1回も登らないときの方が多くなりました。山の道具は、この様な時しか役に立ちません。山小屋気分で泊まることにしました。

 小屋には薪ストーブがあります。寒さはしのげます。燃料は、私のリフォーム作業で生じた木の廃材が沢山あります。

 静まり返った小屋は眠気を誘い、9時過ぎには眠くなり寝袋に潜り込みました。雪道の運転で疲れ果て、直ぐに寝入ってしまいました。

 翌日、3時半ごろ、まだ真っ暗な中に除雪車の音が聞こえて目を覚ましました。路上駐車していましたので、除雪作業の邪魔をしては申し訳ないと思って、窓から道路を見ましたが除雪した形跡はありません。不思議に思っていると、30分以上も経った頃に再び除雪車の音がしました。急いで窓から道路を覗いたところ、小型の除雪車が除雪しないでそのまま通行していきました。除雪車の横には「尾花沢市」と書かれていました。道路を除雪しなかった理由が分かりました。私の実家の前の道路は、県道です。除雪車は県道の除雪に来たのではなかったのです。別の目的で畑沢へ来ていました。

 下ってきた除雪車が、進行を止めて何やら作業を始めました。見ると、県道から奥まった所にある住宅の入り口へ向かって除雪しています。これで、除雪車の謎が総て分かりました。尾花沢市は、道路から離れた所に建っているお宅のために、小型の除雪車で除雪しているのです。今、高齢化が進み、さらに高齢者だけの世帯が増えて、冬の除雪は困難を極めています。困難だけならまだいいのかもしれません。完全に除雪できない状態のお宅が数多くなりました。このように、市の事業として除雪していただいて大いに助かっているはずです。東京オリンピックの会場作りでは、アスリートファーストだから何千億円とか何百億円などとおっしゃっていますが、畑沢に来たこの除雪車の事業費と比較すると、同じ日本なのかと思いたくなります。お金は、この様に使ってもらいたいものです。


 5時台になると、今度は県道を除雪しながら除雪車が南へ向かって登っていきました。除雪車の脇には「山形県」と書かれています。登る時に片側を除雪し、下る時に反対側を除雪しました。ところが、30分ほど経過した時に再び山形県の除雪車が除雪のために登ってきました。「さっき除雪したばかりなのに」と不審な気持ちになりながらも、路上駐車した自動車を移動するために外へ出て驚きました。ものの30分の間に、さらにどっさり積もっていました。除雪が必要な状態になっていたのです。そして、雪はまだ激しく降り続いていました。不審な気持ちを抱いた自分が情けなくなり、逆に作業されている方々の御苦労ぶりに頭が下がりました。

 そんなことで、いつもの生活ならまだまだ寝ている時間帯ですが、目が覚めてしまい、ついでにお腹が空いてきました。登山気分を味わう炊事をすることにしました。ガスのコンロ(登山用語では「ストーブ」と言います。)に一人用のコッヘル(アルミ製の鍋)を載せて、上段でお湯、下段で御飯を作りました。おかずはレトルトカレーです。それなりに美味しい朝食でした。スープはないので、ぬるま湯をごくり。

 朝食を食べ終わると、また眠くなり、寝袋に潜ると直ぐに寝入り、目が覚めた時は8時近くになっていました。外は明るく山の上には青空が広がっていました。山里は、山々から太陽が顔を出すまで時間がかかります。それでも、太陽が昇る山と反対側の山の端がキラキラと太陽光を浴びていました。天気予報を裏切って、私のために「晴れて」くださったようです。早速、小屋の屋根に梯子を架けて、雪降ろしです。小屋は二階建てですから、高所恐怖症の私には怖い場所です。しかし、「俺がやらねば」と意気込んで登りました。雪は柔らかいので、作業は順調です。やがて、一人で雪降ろししていることを心配して、尾花沢から義兄が駆けつけてくれました。瞬く間に終わりかなと思っていたところ、最後の雪の層が、とても固くなりました。力を入れないとスコップが刺さりません。もう、汗だくになりながら11時ごろに完了です。義兄が準備して下さった鍋焼きうどんを腹いっぱい御馳走になりました。

 畑沢から山形へ出発したのですが、道路は危険極まりない状態が続いていました。路面は固い雪で覆われ、両側には除雪作業で除けられた雪が道幅を極端に狭くしています。おまけにホワイトアウト状態ですから、運転は真剣そのもの。林崎を走行中に雪の塊に前の方を突っ込んだ自動車が一車線を塞ぐように横向きに停車していました。事故かなと思いましたが、そうではなくて単なるスリップ状態に陥っただけのようです。ところが、高齢の御婦人がスコップも持たずに足で雪を掻いています。これでは何ともならないと思い、お手伝いをすることにしました。スコップで前輪の周りの雪を掻き、籾殻を撒いてスリップ止めにし、運転を替わって雪から脱出することができました。後で御夫婦に聞いたところ四駆だったそうです。やはり四駆はいいようです。

 これまで、私の自動車が苦境にあった時に、何度も助けてもらいました。今回、少しだけ恩返しできました。でも、まだまだ借りが残っています。いつになると返せるでしょうか。

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常盤小学校前のあの消防自動車の車庫は、今

2017-01-13 16:13:22 | 近況報告

 昔、常盤小学校正門の前に、消防団が操作する消防自動車の車庫がありました。今の消防自動車は、公民館の脇に併設されています。そうしますと、以前の車庫はどうなったのでしょう。

 昔と同じ場所にしっかりとありました。しかし、消防自動車は入っていないはずです。昔、車庫の扉は観音開きで木製でしたが、鋼鉄製のシャッターになっています。何方が車庫を購入されたのかしりません。

 ところで、当時、この建物を見てハイカラな感じをうけました。屋根の形がいかに外国風です。屋根の棟からの勾配が途中で急勾配に変化しています。

 その脇には防火用水の貯水池がありました。元々は素掘りだったようで、鮒などを釣っている人もいたような気がします。私も一度は釣ってみたいと思っていたのですが、とうとう実現しませんでした。それが、昭和30年代に池の周囲がコンクリートで固められました。

 貯水池として使われるずっと前は、野辺沢城の堀だったとか聞いたような気がしますが、果たして真相はどうだったのでしょうか。

 今、防火用水としての役割を終えたのでしょう。水が入っていませんでした。水を入れないのは、子どもが溺れることを防ぐ意味もあるのでしう。

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とても雪が少ない暖冬です。

2017-01-11 10:24:10 | 近況報告

 来たる1月14日に常盤地区の役員の方々による「新春を語る会」において、私の畑沢のお話を聞いていただくことになりました。畑沢のことを情報発信してきた私には有難い機会をいただいたと思っています。そこで、常盤地区公民館に出かけて、配布する資料の印刷をお願いし、スライド映写するためのプロジェクターを確認してきました。

 公民館で用事を済ませて帰ろうとしたときに、道路への出入り口に下の写真の看板がありました。延沢(野辺沢)城の史跡案内です。これまで何度も公民館へお邪魔したのですが、気が付きませんでした。簡潔な説明となっておりますが、中身の濃い内容です。

 公民館から畑沢へ行き、昨年、8月22日の台風で土砂崩れを起こした現場を通りかかって上を見たら、災害の全容が現れていました。今年は雪が少ないので、葉が落ちた林の中がはっきり見えます。説明が不要なくらいに昨年に災害があった場所が分かります。裸地になっている場所です。傷跡がまだ生々しく残っています。さらなる土砂崩れを防止するための対策は行われていないようです。

 しょっちゅう、夏季における長期間の通行止めまでして行っている背炙峠での工事費では、多大な経費がかかる工法を取りながら、生活に密着したこの場所は後回しのようです。ところで、この写真の左側を御覧ください。昔の切土の跡が見えます。明治時代に新しく県道を作る時に、山の裾を大きく切り取ったものと思われます。そこで、土留めとして石垣を築いたのでしょう。切土の跡は急斜面になりますので元々、崩れやすい傾向があるところに、滑りやすい火山灰が積もったような地質に大きな降水があったので、崩れてしまいました。

 ところで、この山の上に三峰神社という祠があります。

 背炙峠の工事になると、言いたいことで頭の中がいっぱいになりますので、この程度にします。

 さて、畑沢の中の雪景色を見てみましょう。とても、1月の半ばとは思えません。いつもの年における12月上旬の光景のようです。

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笑わないでください。山楯の縄張り図です。

2017-01-08 16:54:58 | 歴史

 12月10日に下畑沢にある「山楯」を調査したことを投稿しましたが、あまりにも作図が下手なので縄張り図などの調査結果を報告していませんでした。しかし、ぶん投げておくわけにもいきませんので、努めて丁寧に作図してみました。やはり上手な縄張り図は書けませんでしたが、これが現在の実力ですからしょうがありません。そして、恥を忍んで下の図をお見せします。背中炙り峠の楯の縄張り図と同様に、ここでも測量などはしておらず、航空写真の植生等参考にしました。当然、誤差がかなり大きいと思われます。また、落葉の時期でしたが、まだ地面には笹が立ち上がっていましたので、地面を確認できないところが随所にありました。特に最下段の平坦地については、果たして曲輪なのか単なる畑の跡であるのかが分かりませんでした。来春の雪融けを待つしかありません。

 地図はgoo地図を参考にして、Excelの画面で等高線を描きました。結構な作業量でした。

 山楯に関する私なりの考え方については、後日にいたすことにしました。かなり、疲れ果てていますから。

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