-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

楯造りは中止だ 峠を越えて山形へ行くぞう(畑沢の慶長出羽合戦2)

2020-06-30 16:34:35 | 歴史

 前回1に続きます。「空けた」ことを「逃げる」と捉えるか、それとも。「戦いの場を移しただけ」と捉えるかは、書き手側の主観に依ります。攻める方から見れば、「逃げた」とした方が聞こえがいいし、城を「空けた」側からすれば、「逃げた」と言われるのは甚だ心外でしょう。でも、全く「逃げる」気持ちがなかったかどうかは分かりません。私なら上杉軍以外でも、何所かの山深くに逃げて一人で暮らします。とても人を殺すことなどできません。時代が変わって現代でも殺戮はしないまでも、不正を命じられることはあります。苦しい立場に立たされている人たちもかなりいると思います。私も納得できないことが沢山ありました。上司の命令でも、笑顔で従う気持ちにはなれません。当然、睨まれました。野邊沢家はどんな気持ちで山形へ向かったのでしょう。

 もう少しだけ詳しくWikipediaを基にアレンジして、当時の状況を説明します。西暦1600年の石田三成と徳川家康が対立を深めている時に、上杉景勝の挑発に乗った形で徳川家康は会津に向かって進軍を開始しました。その際、最上義光を総大将にして東北各地の諸大名を山形へ集結させたそうです。ところが、家康一行は石田三成らの決起を聞き、途中で引き返してしまいました。すると山形へ集結していた東北各地の諸大名は、自分の領地に戻ってしまいました。「家康の応援だったが、家康がいなくなったので戦う理由がなくなった」という理由の様です。しかし実際は「家康がいない戦いでは勝ち目がない」という算段も働いた可能性があります。東北各地の諸大名はどこも弱小です。最上と一緒に戦っても、上杉はとても勝てる相手とは思えなかったでしょう。最上義光だけで上杉軍に立ち向かわなければならなくなりました。当時、上杉は120万石、最上は24万石で、兵力には大差があります。しかも上杉軍は負け知らずのような歴戦の強者です。とても真面に対戦できる相手ではありません。その軍勢が置賜地方と庄内地方の両方から挟み撃ちで最上領へ攻め入ります。最上義光は各地に点在する兵力を山形へ集中させる戦略を立て、野邊沢軍も自分の城を空にして山形へ集められました。

 これでは野邊沢軍は自分の領地を守ることができないので、楯を強固にしても意味がありません。上杉軍の進行を食い止めるために、急ピッチで進められていた背中炙り峠の楯造りを中断することになったはずです。楯造りは又五郎(野邊沢能登守の後継者)、小三郎(有路但馬の息子)、平三朗(未確認)ら若々しい者たちが指揮していたのではないかと思います。今でも楯跡の近くに、又五郎、小三郎、平三朗の地名となって残っています。折角、頑張ってきた楯造りも義光の下に急ぐため、中断、いや停止することになりました。畑沢村の人たちは過酷な労働から解放されることを喜んだのでしょうか。でも解放されても、今度は雑兵として戦場へ行かなければなりません。その時の様子を短編小説風に書いてみました。

………………………………………

 又五郎はこの日、父満延に呼ばれて野邊沢城へ行き、思いつめた顔で戻ってきた。楯造りに精を出していた家臣や百姓は楯の中央に集められていた。小三郎が事前に集めていたのである。又五郎と小三郎は主従の関係とは言え、小さい時からの遊び仲間である。又五郎の頭の中は聞かなくても見える。

 又五郎は叫んだ。

「皆の者、よく聞いてくれ。最上義光公から命を賜った。これから、野邊沢軍は山形へ行くことになった」

 一斉にどよめきが巻き起こった。それもそのはず、これまで又五郎から尻を引っ叩くごとくに作業を急がされてきた。それが手の平を返すように事実上、工事の停止を叫んだからである。今度は、又五郎はじっくりと話し始めた。

「山形へ兵を集めて上杉を迎え撃ち、野邊沢領へは一歩も踏み込ませぬ。楯岡城からも東根城からも山形へ向かっている」

 今度はさらにどよめきが大きくなり、恐れおののく百姓の姿も見えた。

「どうした。何を心配している」

 又五郎が聞くと、畑沢村の長老らしき者が恐々(こわごわ)と口を開けた。

「上杉軍は庄内にもいる。上杉が最上川を上ってきても、村の女、子ども、年寄を守ってくれる者がいない。奴らから殺されてしまう。どうすればいいのですか」

 又五郎はなだめながら優しく言い添えた。

「心配するな。最上川を上ってくる上杉軍は、清水義親殿と鮭延秀綱殿らがくい止める。清水殿は最上義光公のお子で頼もしい、鮭延殿はいまだ負けを知らない。両者は最上家きっての剛の者だ。たかが上杉の庄内勢なぞに負けはしない」

 どうにか村の者たちは安心したようである。しかし、又五郎の話は方便であった。清水も鮭延はとうに山形へ集められていた。両者は庄内に近く、これまでも庄内とは何かと縁があった。まして強力な上杉の圧迫があれば、何時、上杉軍に寝返るかもしれない。義光は早めに山形へ呼んでいたのである。味方であれば、清水も鮭延も飛び切り頼りになる存在だ。

 又五郎は、どうしても村人の動揺を抑えなければならなかったし、村人の不安な顔を後に残して山形へ出立する訳にはいかなかった。

「今日は後片付けをしろ。家に帰ってゆっくり休め」

 小三郎が後片付けの指示をすると、村人たちは散らばり黙々と荷物などをまとめ始めた。

 数日後、早くも野邊沢軍が夜明けとともに背中炙り峠を登り始めた。山形へは早くてもまる一日はかかる。背中に朝日が当たって、ほんのりと温かい。山頂を越えると、道はまだ新しい。楯を造るために、尾根にあった道を山腹に移したのである。楯はまだ完成していなかったが、道は最初に工事して完成していた。山腹を斜行する道は危険なこと甚だしい。一歩でも間違えれば谷底へ落ちる。山形への行程で最も険しい場所である。

……………………………………

 最上軍が全て山形城へ集まったわけではなくて、畑谷城(山辺町)、長谷堂城(山形市)、上山城(上山市)にも兵力が残り、激戦が繰り広げられました。畑谷城は城と言っても、小規模です。とても上杉軍の攻撃に耐えられるものではありません。義光は城を捨てるよう命じたのですが、城主は徹底抗戦するも上杉軍に全滅させられました。上山城は「山形の城(保角里志著)」によると巨大で堅固な城だそうで、上杉軍の八分の一程度の兵力ながら善戦していました。長谷堂城は畑谷城を落とした上杉軍の主力部隊に攻めかかられました。上杉軍としては山形城を攻める前に、どうしても落としておかなければなりません。

【長谷堂所跡に立てられている俯瞰図】

 野邊沢軍は長谷堂城の応援として城の外で戦っていたようです。最上義光歴史館には、上杉軍が敗退するときの様子を描いた「慶長出羽合戦図屏風」があり、野邊沢能登守延景と野邊沢又五郎光信の名が見えます。はて、野邊沢能登守満延と野邊沢又五郎光昌だったのではと思いますが、私には分かりません。

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野邊沢城が落城しただと 聞いたことない(畑沢の慶長出羽合戦1)

2020-06-28 16:46:09 | 歴史

 畑沢は戦国時代においても、攻め込まれたりしない安全な場所だったのであろうと思っていましたが、それを覆さなければならなくなりました。畑沢もやはり戦国時代の残酷な波に晒されていたようです。これから3回にわたるシリーズで私なりに感じたことを投稿いたします。

 事の発端は去年の11月、まだコロナの字の「コ」も聞こえてきません。歴史好きな友達が霞城公園で最上義光の銅像と大手門などを巡り、さらに最上義光歴史館へと案内してくれたことから始まりました。

最上義光歴史館

 歴史館内に展示してある義光に関わる説明のパネルの一つを見て衝撃が走りました。そのパネルには西暦1600年に山形で繰り広げられた慶長出羽合戦において、上杉軍が山形へ向かう途中で最上領内の城を攻略した状況が示されています。上杉軍は置賜と庄内から最上領に攻め込み、各地の最上領内の城を攻め落としたというものです。

 私の頭では常に魚が泳ぎ飛行機が飛んでいます。最上義光が入り込む余地はなく、この時はかろうじて野邊沢城だけに関心がありました。すると、野邊沢城は「落城」として示されています。

「えっ、落城。何それ」、「そんなの聞いたことない」

 それもそのはずです。私が愛読している「延沢軍記」と「尾花沢市史」には、慶長出羽合戦で野邊沢城が上杉軍に攻め込まれたことなど一切、書いてありません。延沢軍記には、野邊沢光昌(野邊沢城三代城主)が山形で上杉軍と戦ったことだけを記してあります。ならば、一体、これはどうしたことでしょう。頭が空っぽになった気分でした。日ごろ隙間だらけの頭がさらに空っぽになるのですから、やはりとんでもないことが生じたことになります。

 そうかと言っても、空っぽのままにしておくわけにはいきません。何らかのものを頭に詰めておかなければなりません。そこで歴史にはあまり興味がない私が、慶長出羽合戦を勉強しなければならなくなりました。複数の図書館から本を借り集めて俄か勉強です。そして辿り着いたのが、上杉軍内部の文書です。何処かの国のように「公文書を破棄」したり「記録していない」ことはなく、既に400年以上も経っているのに、ちゃんと保存されています。上杉軍の武将である上泉泰綱が西暦1600年九月十八日に小山田将監に当てた文書だそうで、「山形市史」「寒河江市史」「東根市史」「山形の城」などの歴史書に引用されています。慶長出羽合戦に詳しい方々にとっては、「上泉泰綱書状」の内容は常識だったようで、「私がそんなこと聞いたことない」は事実ですが、「私だけが知らなかった」と言うべきだったようです。でも畑沢を含む常盤地区の方々も「聞いたことがない」状態ではなかったでしょうか。

 その縦書きの文書を横書きにしたのが次の文です。

一、幡谷責落被申付而、即時に一ヶ所やな沢、一ヶ所八ツ沼、一ヶ所とやがもり、一ヶ所白岩、一ヶ所野部沢、

  一ヶ所山野辺、一ヶ所やち、一ヶ所若木、一ヶ所長崎、一ヶ所さがい、何も明捨逃申候、白岩の地に志田、

  やちの地にしも、はたやに色部衆、とやかもりに中条之衆被指置候事

 

 この文の主語が分からず、また途中から主語がころっと変わるようにも見えて、現代の文法から見ると「可笑しな」印象を受けますが、雰囲気だけで私は解釈しました。これに勝手な尾鰭を付けて分かりやすく言うと次のようになります。

………………………………………………………

 我が軍は畑谷城(山辺町)の攻め落としを命じられた。

 すると、直ぐに簗沢城(山辺町)、八つ沼城(朝日町)、鳥屋ヶ森城(朝日町)、白岩城(寒河江市)、野邊沢城(尾花沢市)、山野辺城(山辺町)、谷地城(河北町)、若木城(山形市)、長崎城(中山町)、寒河江城そして(寒河江市)は何れも城を空にして逃げた。

 そこで白岩には酒田の東禅寺城将志駄義秀、谷地には鶴岡の尾浦城将下吉久、畑谷には色部の家来衆が、鳥屋ヶ森には中条の家来衆が留まるよう命じられた。」

………………………………………………………

 Wikipediaの「慶長出羽合戦」に出ているこの「上杉軍の攻勢により落城した最上氏拠点」を参照してください。

 最上義光歴史館のパネル内容は、このホームページとほぼ同じです。

 二つの図はとても良くできていますが、両者には違いがあります。

 上杉軍は置賜から3つのルートで、庄内からは2つのルートで山形を目指しました。庄内からのルートのうち、最上川を遡って志駄義秀が、湯殿山の南の六十里越街道を通って下吉久が攻め込んでいます。野邊沢城を攻撃するとすれば、この二人のどちらかとなります。最上川を上ってくるときには、古口、清水、鮭延、楯岡、東根といった大事な城がありますが、これらの城については何も書いてありません。これらの城の兵も山形へ集結させられて、城は「空けて」いたはずです。山形へ早く軍を進めなければならないのに、最上川も村山平野からも離れている野邊沢城を攻める合理性と時間的余裕があったでしょうか。私が攻める側だったとしたら、「攻める価値がない」と判断しています。

 この書状のことについては、寒河江市史で執筆者の北畠教爾氏が次のように指摘しています。

ただ右の書状のうち「一ヶ所野部沢」とあるのが腑に落ちない。前後の各城の名の順序などから見ると「左沢」を記したものと考えられるが、如何なものか、今後検討されるべきであろう。

 ところが、殆どの歴史書はこの書状をそのまま採用している節があり、さらに落城したとの内容になっています。そもそも上泉泰綱の書状には、「明捨逃」とだけ書いてあるのであって、「城を落とした」とは書いてありません。この書状は決して歴史書ではなく、単なる自軍内部用に書かれたものです。自軍の士気を高めるために、敵の行動を貶(おとし)める表現を用いるのは常道です。単なる「空にした」ことを「空にして逃げた」とまで表現しています。「空にした」当時の状況は「畑沢の慶長出羽合戦2」に投稿します。

 野邊沢城が落城したかどうかは、別に私の愛郷心に影響ありません。私は歴史の素人ですので、古文書の取扱いを知らないのですが、古文書などをそのまま史実と捉えるのは如何なものかと感じます。自然科学分野でも、古文書、伝説なども重要な役割を果たす場合がありますが、それだけでは真実とは言わず、物的証拠と客観的な状況判断による合理性が必要です。その点で寒河江市史執筆者の北畠教爾氏の意見に軍配を上げたいと思います。

 ただ、いくら城を空にしたと言っても、上杉軍の雑兵たちは略奪や奴隷狩りを目的に入り込むことが考えられます。敵が攻めて来れば城の近隣に住む領民は城に逃げ込みます。何しろ使える兵は山形へ行ってしまったので城内には領民や留守番程度です。雑兵でも易々と勝手なことができます。そう考えれば、上杉の雑兵たちと城に籠った者たちとである程度の戦いがあったことは想像できます。

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畑沢も夏の雰囲気

2020-06-03 11:25:38 | 自然

 令和2年6月2日、半月ぶりに畑沢へ行きました。今年は暖冬だったので季節感覚が滅茶苦茶です。さらに新型コロナ感染症のパンデミックのために時間の流れに対する感覚が大きく狂っています。それでなくても私の頭の中は通常の方々とは大きく異なります。既成概念をそのまま受け入れません。良く言えば独創的、悪く言えばやはり変わり者でしょうかね。

 今年はいつもと違う嬉しいことがあります。畑沢行きで大事なこと、それは背炙り峠を通れることです。峠越えの工事は尾花沢市側から始まり、峠を過ぎると村山市側で工事が施工されてきました。2013年からは極端に閉鎖期間が長くなり、11月末まで、9月末まで、最近は7月末までと毎年、雪が解けても通れない日が多くなっていました。ところが、今年は4月12日ごろに通行可能となりました。確かに暖冬と言うことも大きいのですが、今年になって急に山形県の道路工事の方針が変わったのが不思議です。一体、何が変化をもたらしたのでしょうか。道路工事などの土木行政は、時の政治勢力に大きく影響されます。しばしば工事に伴う利権が大好きな政治家がいると、訳の分からない工事が多発します。そのことは私の長い人生の中では、田中角栄氏が総理大臣の時にあちこちで見られたことを経験しています。新潟県内に訳の分からない「立派な道路」や「全国各地に砂防ダム」が沢山造られました。田中角栄氏を出すまでもなく、今でも訳の分からない支出が頻繁に起きて話題になっています。政治家は利権が大好きです。昨年、山形県の政治で変わったのは村山市選挙区から選出される議員が交代したことが挙げられます。もしかして、このことが背炙り峠の工事に影響しているのでしょうか。何とも私には確認する術(すべ)がありません。皆さんの優れた頭脳で御判断下さい。

 さてと、本題から十分に脱線しましたので、背炙り峠に行きましょう。この日、空模様はイマイチですが、気温はぐんぐん上昇し、山形市を9時に出発するときでさえ、既に車の窓を全開しなければになりませんでした。お陰で車内で大声で歌う誤嚥防止対策を行うことができないかと思ったのですが、私以外の車は窓を閉めてエアコンをかけておられるようです。誤嚥防止の大声での発声を飽きるほど行いました。実際、口が疲れて自分でも嫌になりました。

 峠の登り口に来ると直ぐに目についたものがあります。背の高い「白い花」と「黄色い花」が道の両側に花壇のようにずっと連続しています。この白と黄の花は、昨年の今頃に五十沢から畑沢へ来るときに見ました。しかし、背炙り峠越えで見たことがありませんでした。それもそのはずです。最近はこの時期に背炙り峠を通った事が全くありませんでした。実に目新しい光景です。白い花は自宅にも沢山、生えています。北アメリカ原産のハルジオンです。最近、増えてきました。繁殖力が旺盛で、少しでも地面が見えるる場所があれば、どっと種子が飛んできて元気にすくすく伸びます。他の草よりも高く成長しますので、他を圧倒するようです。ところで、下の写真はピンボケです。数多く撮ったのですが、これでもこれが最も出来が良かったのです。遠くに見える景色は甑岳の裾の方です。

 

 黄色の花は、コウゾリナの仲間かと思いますが、昔、見た記憶がありませんので自信がありません。それにしてもわんさかと咲き乱れています。

 

 草の名前はどうあれ、テントウムシはせっせと餌となるアブラムシを探しています。実に働き者で、私は大好きです。私の畑のナス、キュウリやオクラはいつもアブラムシの餌食になります。テントウムシ様々です。昨年はほとんど見ませんでしたが、今年はテントウムシが元気なようです。

 

 背の低い木々の間に薄い紫の花を付けた木が見えます。森林の中でこのような木を見ることは普通ありえません。

 

 今まで気づかない珍しい植物もありました。フタリシズカの群生です。ヒトリシズカですと愛好者もおられるのですが、フタリシズカに関心を持つ方は少ないようです。それが幸いしているのでしょう、群生しています。

 

 山の中で少し湿った所の草原には、シシウドらしき白い花が点々と咲いています。シシウドの仲間は種類が多いので、種の特定は難しくていたしません。私には無理です。これは畑沢の集落内でも数多く群落をなしていました。

 

 上のシシウドの仲間を接写しました。種を特定するなら、この写真でどうぞ。

 

 峠に到着して西の方を眺めると、葉山の残雪が見えました。私は残雪の山の風景が好きです。曇りがちのために少し霞んでいましたので、偏光フィルターを使いたいのですが、カメラを替えてからフィルターのサイズが合いません。しかもこの日はコンパクトデジカメしか持っていません。咄嗟に偏光サングラスでレンズの前を覆って撮影しました。ピントが合わなくなりました。まあ、いいか。

 

 峠を降りて畑沢の集落に入ると、アヤメが歓迎してくれました。でも、このお花畑の御主人は平成29年12月に亡くなりました。私が畑沢について勉強を始めた時に沢山のことを教えてくださいました。石仏を探していると聞くと、いつの間にか石仏の周りの草刈りをして下さいました。優しくて真面目一途な方でした。教えていただいたことを本にして見ていただこうと思っていましたが、見ていただく前に他界されました。亡くなってから本を届けました。

 今でも花の姿で私を激励して下さっています。

 

 畑沢でも田植えは全て終わっています。どの水田にも水が張られています。

 

 今度はカキツバタです。昔は今よりも田植えをする時期が遅くて、丁度この花が咲いている頃に行われていました。今でもその光景が目に浮かびます。私がまだ可愛らしい子ども時代、田植えはまだできません。母の後をついて歩き、握り飯が入った籠を持っていました。すると遠くでカッコウ(郭公)が鳴くのが聞こえます。水路の脇にはこのカキツバタが咲いていました。このカキツバタを畑沢では「カツコウ」と言います。この花をカッコウと言うのは、長年、畑沢などでの方言と思っていましたが、全国的にもそのような言い方をするそうです。郭公が啼く時期に咲く花をカッコウというのだそうです。カキツバタだけでなくアヤメもそのように言われるそうです。

 

 池の中では、トノサマガエルが四肢を伸ばして寛(くつろ)いでいるような姿をしています。「暑いぞう」と水の中で一息ついているようにも見えます。どちらにしても、殿様らしき太々(ふてぶて)しい態度です。羨ましや。

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