-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

クモキリソウ かな

2017-11-15 17:50:03 | 自然

 一時期、野生蘭に興味を持ったことがあり、園芸店でエビネなどを買い求めて庭で栽培していました。しかし、山野草ブームで野生蘭が各地で盗掘され、それが園芸店の店頭に多数が並べられている実態を知ってからは、購入することをやめて自然の中にある蘭を愛でることにしました。採ることをしないで撮ることにしています。お陰でいろいろと蘭のことについて観察することになり、少しだけですが蘭のことを知りました。その中には、下の写真のクモキリソウらしきものもあります。畑沢の林の中で、極たまに見かけました。写真は今年の6月に撮ったものです。まだ十分に成長していませんでしたので、夏にもう一度、来た時に撮り直してから投稿しようと思っていましたが、夏にその場に行っても雑草が生い茂っていて、クモキリソウの場所を確認できませんでした。そこで、やむなく未熟なままで投稿することにしました。

 この欄の花は極めて地味で、「花」らしさがありません。それが幸いしているのでしょうか、盗掘されることがないようです。

 ところで、11月の下旬に背炙峠に行きたいと思っていましたので、峠の規制状況を山形県のホームページで確認したところ、びっくりしました。またもや11月20日から11月29日まで通行止め(下の表)だそうです。それも災害復旧工事ではなくて、調査のためだそうです。恐らくは来年の工事のための測量に関係することかなと想像しました。調査程度ならば、街中でも交通止めをしなくてもやっています。ましてや、峠ならば極めて交通量が少ないので、全面交通止めをしなくても「調査」が可能なのではないかと思います。この峠に関しては、余りにも交通止めが多いようです。何とも不思議な道路です。そして調査が終わると、今度は工事として長期の交通止めが行われるのでしょうか。

 峠から東側は尾花沢市で、西側が村山市です。尾花沢市側は、かなり前に工事が終わっているようですが、工事期間中の通行止めの記憶がありません。あったのかもしれませんが、最近のような長期間ではなかったかと思います。それに比べて、村山市側での工事になりましたら、途端に長期間になりました。殆ど一年間も交通止めの時もありました。何故、村山市側の工事ではこのようになるのでしょう。くどい様ですが、不思議です。

 

路線名

規制区間

延長
(m)

規制理由

規制区分

規制期間

時間帯

迂回路

備  考

規制
箇所図

主要地方道尾花沢関山線

尾花沢市畑沢~村山市たも山

4,600

その他(路上作業・地質調査)

全面通行止

H29.11.20 ~
 H29.11.29

終日

鶴子尾花沢線

規制時間:11月20日午前9時から11月29日午後5時まで。なお、作業終了後、規制解除する。

 


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逃げろーー 山さ上がれーー

2017-11-10 19:22:49 | 歴史

 戦国時代、戦になると危険極まりないのは侍だけではありませんでした。押し寄せた敵の雑兵たちが、民家に乱暴狼藉をはたらくのが常だったそうです。藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」やその書籍を踏まえた保角里志氏著の「南出羽の城」と「山形の城」、さらに同氏も執筆した「尾花沢市史」にそのことが記述されています。敵方の雑兵たちは、略奪、火付け、奴隷狩り等々の乱暴狼藉を行っていたというのです。私が攻めて来られた村人であったならば、恐ろしくて山にでも逃げたくなります。野辺沢城などの大きな城が近くにある村々は城に逃げますが、城から遠い所の村人は自前の避難所に逃げなくてはなりません。村人のための「村の城」が必要だったそうです。

 山楯のことについては、「南出羽の城」で保角里志氏が、畑沢楯(山楯のこと)が他の地区の楯跡とともに「村の城」だと説明されています。しかし、山楯の規模がかなり大きかったことから、私にはとてもそのまま受け入れられずに、いつしか忘れていました。ところが、山楯の隣のおしぇど山の楯が見つかったことから、私の頭がいつものようにショートして火花を散らし始めていました。残念ながらショートし出だしても、電気工事士2級の私には自分のこんがらがった頭を修復する技術はありません。ショートして煙が出ているままに、時間が経過するのをただ待つのみです。4か月が過ぎようとしたとき、救いの神が新しい本を発行して下さいました。保角里志氏の「山形の城」が出たのです。その本で最上地域の「村の城」が説明されていました。「南出羽の城」にも五十沢の「村の城」があったのですが、おしぇど山の楯跡と比べると格段の違いがありましたので、頑固な私にはまだ納得することができませんでした。しかし「山形の城」に記載されている新庄市盃森楯跡と戸沢村平家楯跡は、実におしぇど山の山楯と似ています。実にこじんまりとしています。これで完全に納得しました。山楯とおしぇど山の楯は、村人のための「村の城」だったのです。

 それでは、何故、山楯とおしぇど山の楯が近い場所に並んでいるのでしょう。この現象も五十沢の楯と似ています。五十沢の楯も近接した場所に二つあります。「南出羽の城」では、一つが古い方で、それよりもより堅固に作られたのが新しい時代の楯であるとのことでした。同じようにその理屈を下畑沢に当てはめれば、山楯はかなり本格的で堅固なことから新しい時代の楯であって、おしぇど山の楯は古い楯だということになります。

 下畑沢の村の城は、二つ見つかりましたが、それでは上畑沢ではどうでしょう。それは背中炙り峠の楯と言いたいところですが、遠過ぎますし村の城どころではない野辺沢家の重要拠点です。ましてや、村山方面から敵が攻めてきた場合は、背中炙り峠の楯に逃げ込むなどと言うのは合理的ではありません。やはり集落の近くの山に「村の城」が必要だと思います。今までそれらしき話もそのような地形を見ておりません。しかし、おしぇど山の楯も全く知らなかったのに、石仏調査をしていて、突然、去年の春に見つかりました。規模が小さいので分かりにくいようです。丹念に近くの山を調べれば見つかるかもしれません。同じように野辺沢城から離れた地域にも村の城がある可能性があります。私が一番、可能性が高いのが細野地区ではないかと思います。荒町地区は八幡神社がその役割を果たしたのではと思います。九日町、三日町、六沢は野辺沢城に逃げられます。古殿地区には、村の城がある可能性は半々です。

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延沢城のジオラマが常盤地区公民館にやってきました。

2017-11-08 06:29:21 | 歴史

 延沢城、当時は野辺沢城の文字が使われていました。そのジオラマが今年の3月ごろに完成したようで、当初、悠美館に展示されていました。市内各地でも展示されて、11月6日からは常盤地区公民館の玄関ホールに展示されました。平面的な図面で既に御覧になっているもしれませんが、立体的に見るともっと四百年前の様子を想像することができます。尾花沢市のホームページ山形新聞にも、3月ごろのことが掲載されています。

 ところで、畑沢の「背中炙り峠の楯」もジオラマにして下さると嬉しいのですが。

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三つの峠を串刺しにして

2017-11-06 20:15:57 | 近況報告

 11月になり、秋も深まってきました。私が住んでいる山形市でさえ裏山が紅葉しています。ましてや畑沢ではさぞかし紅葉が見事になっているものと、6日に畑沢へ出かけました。尾花沢市の延沢と寺内にも用事がありました。そこで、中沢と畑沢、畑沢と細野、細野と三日町の間にある峠を通ることにしました。三連峠です。

 山形から北へ向かって車を進めているのに、天童市も東根市の山も紅葉が目立ちません。それは、いよいよ背炙峠への登り口に着いても、その様子は同じでした。最近の秋はどこかパッとしません。下の写真は峠の登り口である村山市中沢の道玄です。道の奥に見える山並みは背中炙り峠の楯がある場所です。左の手前の道路わきの「モッコリ」は、採石です。春からずっと置きっぱなしです。来春の道路工事用の資材でしょうか、それとも不意の道路破損用に準備しているのでしょうか。もしも、工事用ならば、道路閉鎖期間が短くなるようにと拝んできました。

 峠に登っても、紅葉の美しさは見られません。遠くに高い山々がかすかに見えました。朝日山系の上部が白くなっていますが、葉山は全く白いものが見えません。この日も自宅を出発するのが遅かったので、靄(もや)のために鮮明な写真は撮れませんでした。

 山の紅葉は期待外れでしたが、畑沢の中に派手に紅葉している木がありましたので、畑沢の紅葉を代表してもらいました。樹種はヤマモミジです。

 下の写真は、畑沢から細野へ向かう農免道路だったところです。左の奥に畑沢地区生涯学習推進センターが見えます。中央の橋は、千鳥川を跨いでいます。この橋の名前が初めて分かりました。「関田川原橋」との金属プレートが貼られていました。地名に因んだ名称なのでしょうが、関田川原などと言う地名を聞いたことがありません。畑沢の地名は奥が深いようです。

 昔、この辺りは農業用水用に川を堰き止めた「おおぜき」と呼んでいたものがありました。雑木と土砂で造られたものです。畑沢の中で最も大きいので、「大堰」だったのでしょう。もしや、「関田川原橋」の「関」は、「堰」の意味なのかもしれません。

 この場所は、畑沢でのビューポイントです。少しだけ写真を撮ってみました。この橋から南側を撮ったのが下の写真です。中畑沢と上畑沢が見え、一番奥が背中炙り峠と楯がある山です。最も高い場所には、主郭(本丸)の跡があります。右から集落の方に下っている尾根の裏側には先達屋敷の跡があり、逆に左から下っている尾根の途中で杉林が少々こんもりとなっている所の近くには、延享元年(西暦1744年)に造立された山の神が鎮座しています。

 逆には北側には荒屋敷地区が見えます。背中炙り峠へ向かう古道と、細野村から来て五十沢へ向かう古道の交差点でした。手前の草むらの下には、千鳥川が左から右へ流れています。今はどこの川も、草むらで覆われていて、水面が見えなくなっています。

 

 峠を越えて、細野地区側に出ると、畑沢とは全く異なる景色が広がりました。最も高く見える山は御堂森です。細野地区は、御堂森と大平山という二つもの高い山から流れ下る水によって削られ、そこに堆積された土壌でできあがりました。それに比べて畑沢は、大平山からの水だけを水源にしてますので、作られた平地の面積が小さくなりました。昔から細野地区の戸数が、畑沢の4倍になっているのも当然です。


 さらに、細野から峠を越えて三日町へ抜けると、前田川に落下している小さな滝がありました。この滝の上流部に農業用水があり、田んぼで水が不要になると、この滝に落ちて来るようです。幸い、崖は硬い岩盤ですので、滝に削り取られることもありません。この岩盤は、恐らく頁岩らしきものでしょう。

 さらに三日町に近づくと、山の神神社が祀られていました。ただの山の神ではなくて、写真左下に水量豊富な湧水も一緒です。神社は昭和年代に改修されていましたが、屋根の部分は昔からのままのようです。残念ながら、年号が刻まれていませんでした。でも元々は江戸時代に造立されたものかと思いました。

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畑沢へわざわざ越中富山から薬売りが来ていました。

2017-11-03 16:58:49 | 思い出

 私は古い薬箱を小物入れとして活用しています。私の子どものころに使っていた薬箱ですから、あれからもう半世紀以上の月日が流れました。その薬箱を掃除していましたら、虫食いだらけの紙が入っていました。ボロボロの状態でしたので、優しく拡げ、ついでに油汚れをメチルアルコールで洗ってみました。何とも古めかしい図柄の熱さましのチラシのようなものでした。書かれている文字も古い旧漢字です。最新剤の剤が「劑」、発汗解熱の発が「發」のさらに変形したもの、妙薬の薬が「藥」になっています。謹製の謹も旧漢字が使われていますが、パソコンでさえ知らない形のようです。しかも横書きは右から読みます。

 


 薬箱にも当時の薬の宣伝マークが貼られています。「仙武丹」、「胃痛 トンプク ユイツ」、「頭痛 歯痛 ノーヂ」の文字が見えます。本当はもっといろんなものが貼ってあったような気がしますが、薬箱を小物入れに転用した際、多くを剥がしてしまったようです。剥がすだけでなく塩素系の漂白剤を使ってしまった気がします。とんでもないことをしてしまいました。仙武丹の人物が黒焦げになってしまいました。

 

 

 それではと妻の実家にある古い薬箱を出したところ、少し違いました。ムヒがありました。畑沢でもムヒを使っていたので私の薬箱にも貼られていたはずですが、きっと剥がしてしまったのでしょう。

 


 当時、薬屋さんが来るのを楽しみにしていました。必ず子どものお土産を持ってきてくれたからです。紙風船です。薬屋さんは全戸を廻りましたので、どの子どもも紙風船を持って集まり、ポンポンと手で弾ませていました。我ながら可愛いかっただろうなあと思いますが、いかがでしょうか。

 薬屋さんは、バイクの荷台に二段重ねの柳行李(やなぎごおり)を載せてやってきたような気がします。遠く富山県から来るわけですから、長期間、家族から離れた生活です。広範囲の家々を廻るので、柳行李二つだけで直ぐに不足するはずです。何処かに薬を大量に置いておく中継基地があったことでしょう。薬屋さんは、畑沢を廻る時には我が家に泊まりました。夕食を一緒に食べると、いろんな話をしてくれたようで、父はそれを楽しみにしていました。我が家は御先祖様の時代から好奇心が旺盛だったと聞いています。私もその傾向が強く、幾つになって人から教えてもらうことが大好きです。

 薬屋さんの薬にはいろいろとお世話になりました。私は虫刺されにはムヒ、傷口には赤チンを塗りました。その後に傷口にメンタムとかオロナイン軟膏を塗りたくりました。囲炉裏の煙で目が痛いと言っては大人の真似をして、参天製薬のロートを目に垂らし、何だか分からないのに仁丹をいたずらして飲んでいましたので、まるで薬物乱用みたいなものです。とにかく薬が好きだったようです。両親が愛用していたのは、トクホンという筋肉痛用などの貼り薬です。膝とか肩に頻繁に貼っていたようです。当然、私も真似をして貼っていましたが、私には無駄だったと思います。

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