-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

まだまだ石仏がありました。(その2 おしぇ様) そしてそこに新発見の楯跡も

2016-04-30 18:05:16 | 歴史

 畑沢の先輩の話によると、前回のブログで紹介した稲荷神社(石祠)の上の方に、さらに石仏があるそうです。どんな石仏かと尋ねましたら、昔から「おしぇ様」と呼んでいたものだそうです。それでは何の神様か仏さまですかと尋ねましたが、「おしぇ様」としか分からないそうです。初めて耳にする「おしぇ様」に大きな好奇心が湧きおこり、私の頭の中は「おしぇ おしぇ」と賑やかに騒ぎ始めました。

 おしぇ様へ登るのに昔はちゃんと道があったそうですが、今は山全体が藪に覆われています。比較的登りやすい徳専寺跡の東側からスタートしました。藪をかき分けながら、大戸K氏から案内されて上を目指しました。なだらかな頂上に辿り着くと、大きな杉の木の脇に数個の石が転がっていました。その中で、最も人工的に見える四角い中が空洞になっている石があり、それを縦に起こしました。大戸K氏によると、昔は総てきちんと立っていて、こちら側(写真の手前)を向いていたそうです。しかし、脇の杉が成長して石の下の根を肥大させたので、片方が持ち上がりバランスを崩してしまいました。杉は自然に種が運ばれて、勝手に生えて大きくなったようです。

  二人で起こした四角い石は、石祠の胴の部分でした。正面がくり抜かれていて、御神体などを納められるようになっています。しかし、御神体は見つからず、中は空っぽでした。

 胴の上に被せる笠と言うのか屋根と言うのか分かりませんが、屋根にあたるものも転がっていました。完全に裏返しになっています。二人だけの力ではどうにもならない重さです。残念ですが、そのままにしておきました。写真の手前が正面のようです。

 胴の正面から見て右側には、年号が刻まれていました。

文化三寅☐

 と読めそうです。主催者名が見えないのが残念です。

 ところで、年号の書き方が今まで畑沢で見てきた石仏と異なることに気づきました。十二支(じゅうにし)はありますが十干(じっかん)がありません。他の石仏には十二支も十干も両方ありました。この「おしぇ様」の下の方に建っていた稲荷神社も十二支だけでした。

 さて、文化三年は西暦1806年です。上畑沢の大金持ちであった古瀬吉右衛門が石仏「湯殿山・象頭山」を造立した5年前にあたります。

 さてさて、ここまで調べましたが、「おしぇ様」の謎を解く手がかりは全くありませんでした。「おしぇ」と発音する神様で最も近いのは、「お伊勢」かなと考えてみました。ローマ字表記にすると、それぞれ「oise」と「oshe」です。うーん、近い発音のような、そうでないような感じです。文化三年から約200年で訛ったと考えるのも面白いかもしれませんが、証拠がありません。あとは歴史的背景などで推察するのでしょうが、そのような頭脳は持ち合わせていません。不確かならばそのままに「おしぇ様」としておきます。この「おしぇ様」がある山を「おしぇど山」と呼んでいるそうです。おしぇ様の「お堂」がある山という意味かと思います。

 ここで、全く別な話に進みます。おしぇ様に辿り着いたときに、その周辺の佇まいに尋常ならざる印象を持ちました。おしぇ様がある場所がある程度の広さをもって平坦になっています。しかも、その下の方にも何段にも広く平坦になっていました。これは城跡や楯跡で見られる「曲輪(くるわ)」そのものでした。そう言えば、ずっと下にも平坦になっている地形が見られました。この様子から察するに、楯跡と見るべきかと思いましたが、この辺で「山楯」と言われている所は、ここではなくて南側の沢を一つ隔てた場所です。そこは、既に専門の方が調査されていて、平成8年3月に山形県教育委員会が「山形県中世城館遺跡調査結果報告書 第2集 (村山地域)」として、次のように発表されていました。

   畑沢楯 212-026
   所在地 尾花沢市大字畑沢
   築城者 不明
   築城時期 不明
   概要
    下畑沢の旧徳専寺(昭56廃寺)南部の丘陵全体が、階段状の曲輪を有する盾跡

    になっており、「山楯」「荒屋敷」の地名も残されている。現在民家が建ち、株は破

    壊されてしまっているが、残存遺構は曲輪が4段、最高部の標高は220㍍(比高

    30㍍)である。
     延沢から背炙峠を経て楯岡へ通ずる道筋を扼する位置にあり、延沢氏によって、

    出城として築かれた可能性が高い。伝承では古瀬蔵人が楯主とされる。


 それに、畑沢でも「山楯」以外の場所に楯跡があるなどと誰も話しません。しかし、あの平坦地はどう見ても曲輪としか見えませんので、尾根を東に進んでみました。すると10mも進まないうちに、見事な堀切が現れました。幅が4、5mで尾根をバッサリと断ち切っていました。この堀切が見つかったことで、ここが曲輪と堀切を有する楯であることが確定的になりました。私たちは自分たちが発見したとんでもないものに、驚いてしまいました。いったい畑沢は、昔はどんな所だったのでしょう。金銀が運ばれた重要な街道が通り、峠にはその峠を組み込んだ楯が野辺沢城の前線基地を形成し、それでも足りないのか、下畑沢には山楯がありました。その山楯も一つの山だけでなくて、隣の山にも堀切を伴った楯がありました。この様子では、「山楯」の規模は、おしぇど山に留まるとは思えなくなりました。山楯もおしぇど山も、東に尾根が伸びて標高が高くなって一緒になります。この一緒になった尾根からは、もう一本、岡田沢方向へも尾根を伸ばしています。この尾根も怪しくなってきました。明日の午前中に確かめてみたいと思います。

 石仏の調査も楯の調査も一段落したと思っていましたが、これではいつまでも続いてしまいそうです。困ったような嬉しいような、どっちでしょう。

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まだまだ石仏がありました。(その1 稲荷神社)

2016-04-29 17:22:11 | 歴史

 半月前の畑沢祭(4月15日)の熊野神社で、予想だにしない情報が入りました。3月13日に私が畑沢地区生涯学習推進センターで皆さんにお上げした資料についての話題になり、その資料に載っていない石仏がまだあるというのです。畑沢の石仏を調査するにあたっては、楯岡高校社会部が発行した「郷土Ⅱ」、渡部昇龍氏の「尾花沢の信仰と民族」、そして尾花沢市内のほぼ総ての石仏を調査した大類氏の調査結果などを踏まえつつ、私が畑沢の方々から聞きながら徹底的に調べたつもりでしたので、思いがけないお話でした。「おらえ(家)のどごさ、〇〇がある」、「あそごのえ(家)んどごさ、△△がある」と言うのです。最初その話に唖然としながら聞いていたのですが、その人たちの話ぶりには興味が引かれました。実に面白くお話をされていました。

 お話によると、まだ石仏は4体以上はあるようでしたが、先ず道路から近い場所にある楽な所から始めました。下畑沢の山楯の近くです。「山楯」と言うのは、昔の楯跡がある所です。その石仏も楯跡と関係があるのではないかという期待もありました。

 写真の道路は、江戸時代までは背中炙り峠へ至る主要な街道でした。明治以降に県道が別のルートにできたので、農道程度に思われていましたが、歴史ある道です。石仏はこの道の直ぐ脇の土手の上でした。

 

 石仏は、石の祠です。畑沢では万年堂と呼んでいる形のものです。周辺の家々では、「稲荷様」と呼んでいたそうです。ここにもユキツバキが植えられていたようで、結構、大きな株になっていました。石祠の周囲はきれいに刈り取られていました。近くの家の方(大戸K氏)のお話によりますと、一時は藪だらけになって近づけなくなっていたのだそうですが、そのままにしておけない性分なので、刈り取って下さっているようです。

 石祠の周囲も春の雰囲気が溢れています。ウバユリ、カタクリ、笹筍が見えます。祠の中には卵のような二つの石が入っており、その石の真ん中には不思議な形の小さな石が入っていました。大戸K氏によると、祠の中に何もなくなっていたので、御神体になりそうな「ありがたい石」を拾ってきて、中に納めたそうです。こんな話を聞いていると、大戸K氏のお人柄が分かります。こんな先輩が畑沢におられることが、たまらなく嬉しくなります。


 石祠に向かって右側を見ると、年号と人名が刻んでありました。

明治三拾七辰年 八月四日設☐  ☐☐☐荷 有路庄次郎

と読めるような気がしました。「楯」の時代とは関係はないようです。有路家の家内安全を願って造立したものかと思います。明治37年ごろと言えば、畑沢でも大きな変化があったようです。「有路」姓の家々は、元々、畑沢の「向かい」地区に居住していたのですが、このころに居所を移すなどにより、家の守り神を家の近くに造立したものかと思います。このように畑沢の中で居所を移した場合には、移した場所に家の守り神を新しく造立した例が多く見られます。下畑沢ら中畑沢へ移った私の家もそのようです。

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また、嬉しいことがありました。

2016-04-28 11:42:54 | 近況報告

 25日に畑沢へ行ったばかりでしたが、義兄が小屋を増築しており、屋根のトタン張り等の作業のために、27日にまた畑沢へ行きました。トタン張り作業をしている時に、思いがけない人が訪ねてきてくれました。同じ中畑沢出身ですが、私よりも十歳以上は若い方です。一緒に遊んだ世代ではないので、はっきりとした記憶はありせんでしたが、目元がその方のお父さんと似ていましたので、言われると何となく分かりました。その方がおっしゃるには、時々、ブログを見て下さっていて、たまたま私がいたので声をかけて下さったとのことでした。ありがたいことです。前回のブログで、中学生が見て下さっていることを報告しましたが、さらに見ていて下さっている方が現れましたので、嬉しいことが続きました。私はいい加減なことばかり書いているので恥ずかしい限りですが、いまさらかしこまることはできませんので、それなりに真面目になりながら今までどおりに書いてまいります。

 さて、この日は晴れてはいるのですが、風がありました。尾花沢市消防署の自動車が、「山火事が毎日、起きています。火のもとには十分注意してください」と呼び掛けていました。この車は細野から山越えしてくる「スーパー農道」を通ってやってきました。この道はあまり利用されていませんので、貴重な通行車両です。

 今年の木々は急いでいます。朴と木通(アケビ)の葉がかなり大きくなっていました。手前の大きい葉が朴の葉で、奥に黒い点々と見えるのは木通の花です。

 山際のあぜ道には、エンレイソウが咲いていました。特徴のある大きな葉の真ん中にちょこんと小さな花が咲いています。時々、山野草を販売する業者が根こそぎ盗掘する心配がありますので、注意して監視しています。

 昔はどんな小さな沢の奥にも水田があり、田んぼに引く水を確保するために、沢の水路は絶えず手入れがされていましたが、耕作が行われなくなってからは、水路は荒れたままになります。この沢は、私たち(義兄とともに)が可能な限りに手を入れているのですが、それでも手入れされていない杉が水路に倒れると、大物だけに中々、除去が難しいので、何年もそのままにしてしまいました。その結果、水路はさらに荒れることになりました。

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畑沢のユキツバキ群落は見ごろ

2016-04-27 17:14:09 | 自然

  今年の春は足早く進んでいます。熊野神社周辺のユキツバキ群落の花の時期は過ぎてしまったかなと焦りましたが、まだ大丈夫でした。蕾(つぼみ)も沢山ありましたので、まだまだ見られるようです。

 ユキツバキだけを見ていると、足元が騒がしいようです。カタクリも「俺たちも咲いている」と主張していました。しかし、言っちゃなんですけど今年はもう終わりに近いようです。しょうがないので、代表としてまだまともなカタクリを一輪撮ってあげました。

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延沢が春爛漫

2016-04-26 16:32:04 | 近況報告

 畑沢へ行った平成28年4月25日(月)、尾花沢から古殿を経て延沢の車段(くるまだん)へ入る時、朧気川を渡ります。川に架かっている橋から上流を見ると、清流と柳の新緑が「春」を感じさせました。遠くには大平山がひときわ大きく聳え、その後方に残雪を抱いた山々を従えています。

 川をじっと見ていると、違和感が湧きました。実に真っすぐです。昔はもう少し曲がりながら流れていたような気がするのですが、護岸工事の結果、一直線に改修されてしまったようです。一直線の川になると水も喜んですこぶる元気になります。昔、中学校の理科や高校の物理で学んだ「位置エネルギー」なるものが頭に浮かんできます。上流と下流の高度差が持っている位置エネルギーは、ほぼ「流速」という運動エネルギーに変わります。その結果、少しでも増水すれば、激しい流れとなって川底を浚(さら)い、橋げたの下がえぐられることになりました。川の生き物たちも抵抗する力もなく流されてしまいます。ここの橋もその被害にあっています。今はこんな工事をしないはずです。少し前の時代に行われた反省すべき工事方法でした。

 延沢を過ぎて荒町方面へ方向を変えると出てくる忘れられない景色は、南西方向に見える御堂森の姿です。昔、私がスビタレと叱られていたころ、常盤小学校と常盤中学校時代の野外写生会では、しばしば写生の対象になりました。美しい山の形は、下手な絵も上手く見せてくれます。この日は、御堂森だけでなく手前の小高い山も山桜と新緑で美しく装っていました。そう言えば、この小さな山は秋にも紅葉が美しいので、御堂森の前景としてなくなてはならない存在でした。

 御堂森を見て、後ろを振り返りますと、満開の桜に包まれた常盤小学校の校舎が見えました。桜の中で学ぶ子供たちの楽しそうな姿を思い浮かべたのですが、この学校は移転すると聞いていました。まだ移転はしていないのでしょうか。この美しい景色を見ていると、私の勝手な希望では移転していないことを望んでいます。

 小学校から目を右側へ移すと、そこも花盛りです。集落の中を通っていると気づきませんでしたが、集落の外から集落を見ると美しさが分かります。

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