-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

ようやく発行することにしました。

2018-07-31 15:02:20 | 近況報告

 平成25年(2015年)から、このブログを始め、それから5年もの時間が流れてしまいました。畑沢で教えていただいた数々のことをブログで紹介する傍らで、本にまとめる作業も行ってきました。それがようやく一段落して、自宅のパソコンとコンビニのコピーで印刷を終了したところ、A4用紙で243ページになりました。本の名前は、簡単に「畑沢を再発見」としました。発行は、製本段階に至った平成30年7月31日にしました。

 製本が終わるまでにもう少し時間がかかりますので、製本するために制作した二種の道具を紹介します。先ずはA3をA4に二つ折りする道具です。インターネットの「自宅でできる、手作り製本の基本」というページの道具を真似て自作しました。コロコロとローラーを転がす面白い道具です。この小さな道具で10部分で630枚を二つ折りしました。つまらない作業に思えるかもしれませんが、単純な繰り返しは、精神安定に効果的でした。黒い板は、紙を嵌めて固定するものです。

 

 A4にされた紙束を抑えて、表紙を付けるための道具です。市販されているのもあるのですが、「下手の横好き」を自称する私が自作しない訳にはいきません。「畑沢を再発見」への特別製にしました。市販品と比べると手抜きがあるのですが、それなりの工夫もあります。

 この後は表紙を貼り付けて、表紙に名前などが書かれたラベルのような紙を貼れば完成です。まったく売れることは考えられないので、非売品です。最初は畑沢の方で、興味をお持ちの方々10人に贈呈します。徐々に増刷する予定ですが、何しろ自作ですので、時間がかかります。


 大まかな目次は次のとおりです。

 

はじめに  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥8

 1 今も残る背中炙り峠と古道の跡 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥10

 2 新しい峠越えの道(県道29号線)について ‥‥‥‥‥‥‥‥24

 3 背中炙り古道をめぐって畑沢村などが大決起(背中炙峠一件) 27

 4 背中炙り峠に楯跡あり ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥36

 5 下畑沢の楯跡 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥50

 6 畑沢の地名 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥54

 7 江戸時代からの畑沢の人口  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥58

 8 江戸時代の大飢饉では死亡者数が数倍に  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥63

 9 第二次世界大戦でも多くの戦没者  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥65

 10 関嶺(寒嶺)和尚には数多くの伝説あり  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥67

 11 古瀬吉右衛門は畑沢のために力を尽くした  ‥‥‥‥‥‥‥‥74

 12 豊島他人太(幕末期)は怯まず  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥85

 13 石仏・社・お堂等 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥94

14 金華山講  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥151

 15 縄文遺跡がありましたが残念です  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥154

 16 畑沢に残る 姓(名字・苗字)の考察 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥156

 17 いつの日か お家再興を ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥162

 18 畑沢の表層地質  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥171

 19 沼沢には「沼」があったはず ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥175

20 湧き水  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥184

21 峠近くに水鳥の楽園  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥191

22 沼澤林道の奥へ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥192

23 大平山に登りました  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥194

24 昔の石切り場(ゴロウ)  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥201

25 おさいど  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥204

26 畑沢分校・分教場  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥206

27 千鳥川との関わり  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥209

28 山との関わり ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 222

29 雪との関わり  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥230

30 お神楽がやって来た  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥236

31 子ども会・児童会等の運営費は子どもが  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥238

32 熊野神社周辺のユキツバキ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥239

畑沢に関する年表  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥242

参考文献  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥245

御協力・御指導して下さった方々  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥248

あとがき ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥249

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今年初めての背炙り峠越えでした。

2018-07-30 18:14:29 | 近況報告

 既に今年は7月13日の午後3時から背炙り峠の通行止めが解除されましたので、「何で今頃」とお思いの方もあるでしょう。しかし、こんな私でも今年はやたらと忙しいのです。そのような訳で、峠を今年初めて7月26日に通りました。

 峠を越える時は、やはり中沢が良く見えるビューポイントです。とっくの昔に新緑は終わっているので、絶景を拝むことは出来ませんが、夏の深い緑を眺めることができました。朝日連峰と月山は霞んでいて、ほとんど見えませんでした。

 

 今年の峠越えの工事個所がありました。去年の工事個所に続いています。アスファルトが真新しいので、分かります。工事の距離は30mほどかと思います。5月20日までが冬季閉鎖でしたから、それから工事を初めて7月13日までで54日間の工期となるのでしょうか。谷側の路肩には白いガードレールが設置され、丈夫なコンクリートの基礎が見えます。基礎の周りは裸地のままの法面です。

そのままだと路面から下ってくる水の浸食を受けるので、それを止める小さな土手が築かれています。最近、背炙り峠の工事で多用されています。一般の道路では殆ど見かけない工法です。

 このような特殊な工法を取らなければならないのも、山鹿の路肩に設置したU字溝が原因と思われます。U字溝を用いると、土地の改変が大きくなり、そのため工期が長くなり工事費も大きくなってしまいます。そして何よりも問題なのが閉鎖期間が長くなることです。

 これからも、今回の工事場所より上にまだまだ工事が続きます。既に素掘りの側溝が大きく掘られています。これまで以上に危険度が増した状態になっています。二、三年で済むようなものではありません。峠へ至るまで、5年以上もの間、同じ工法で、続けるというのでしょうか。そのような危険な状態にしておかないように、早急に工法を改めて、さらに閉鎖することなく安全を確保してもらいたいものです。

 もう何年も提言しており、くどいですが、これからの工事はL字溝に変えてほしいものです。この工法だと私が要望していることが一気に片付くはずです。県の工事に対して、きちんと尾花沢市役所は要望すべきですが、さて、今度の尾花沢市長はどのように対応して下さるでしょうか。

 

 畑沢ではイノシシが今年も元気なようです。今年は暑いのだから、遠慮してほしいものです。

 イノシシが元気ならスズメバチも元気なようです。蜂さん、頑張らないでください。もしも私が少年時代に戻ることができたならば、スズメバチをこのままには、しておきません。石を投げつけ、2B弾をぶち込んでやります。今こんなバカな子どもはいないでしょう。子どもが立ち向かえる相手ではありません。

 寂しい現実がありました。一軒の家が畑沢から引っ越しをしました。また戸数が減りました。そのお宅が守っていた石仏が残されました。今度は何方が守って下さるのでしょうか。 

 今年は、とにかく暑いので、山百合も早く散ってしまい、残り僅かになっていました。下の写真は貴重な一枚です。

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他人太屋敷跡を探して

2018-07-14 17:13:02 | 歴史

 西暦1811年から農民の苦しさを救うために、代官所を相手に数々の抗議を行った豊島他人太が畑沢村出身だったと言われており、その住まいが他人太屋敷と伝えられています。その位置はほぼ分かっているのですが、農地が改変されたので明確な線引きは出来なくなっています。それでも、少しでも手がかりがあればと、以前から御指導いただいている古瀬KZ氏宅を訪問しました。同氏は「ほっきり伝説」を御存じだった畑沢唯一の御仁です。私は今回も大きな期待を持ちました。やはり、期待どおりでした。「屋敷跡そのものは分からなくなっているが、当時の墓石らしいものが杉林の中にある」。

 しかも、その場所まで案内して下さいました。とても私一人では探すことができませんでした。ありがたいことです。暫く右往左往しましたが、大きな杉の木の近くに、はっきり分かる墓石がありました。墓石は倒れていました。

 

 墓石の石質が気になりました。畑沢で産出する凝灰岩ではありません。粒子が揃っています。それなら他地域で産出した凝灰岩かなと考えましたが、どうもそれにもしっくりとしません。かなり脆いようで、かなり風化しています。文字が刻まれたような線が見えますが、文字として認識できません。これほど風化が激しい所を見ると、砂岩のような気もします。最終的に私の力は及びませんでした。

 石仏と大きく異なるのは形です。御覧いただいて直ぐに分かるように、上部に笠があります。畑沢では古瀬吉右衛門家の墓石だけに見られます。特別製の墓石です。笠の下の形も単なる直方体ではなくて、下部の方に向かって細くなっています。この形も私は見たことがありません。実に凝っています。お金持ちであることが十分推察できます。倒れていた墓石を私の力で起こしました。こういう「力」なら私は持っています。

 ところで、この墓石は不安定であるようです。墓石と土台に次のような工夫がありました。模式図です。どうですか、面白い形でしょう。土台の大部分は、土中に埋もれたままです。奇麗に土を取り除けば、もっと興味深いことが分かるかもしれません。

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大事な役割を果たして、久しぶりに畑沢へ

2018-07-13 21:07:18 | 近況報告

 長期間、孫たちとの関わりがありました。2月末から7月10日まで、ほぼずっと急がしい日々が続きました。特に娘が里帰り出産していましたので、既に忘れてしまった赤子の世話に四苦八苦の毎日でした。ようやく、東京へ送って行ってバトンタッチしてきました。

 そんなこんなで畑沢へ行くことも儘ならなかったのですが、御役目から解放されてから初めての畑沢行でした。一番心配だったのが、草が茫々の状態でした。毎年ですと、6月には草刈りをしていました。今年は上記のような訳で、草刈りが遅くなりました。今年も背炙り峠を通れないので、五十沢からスーパー農道を通って畑沢入りです。スーパー農道の終わりで、中畑沢の石仏が迎えてくれました。

 

 その中の巡礼供養塔です。1811年(文化八年)に村人の手で造られて建てられました。素朴で大好きな石仏です。

 

 逆に専門の石工が造った青面金剛です。仁王様のようで迫力満点です。これらの石仏は200年以上も村を守ってきました。

 

 畑沢に着いたとたんに驚いたものを見ました。遂に畑沢でも電気ショッカーが当たり前になっていました。今年になってから、猿が畑の作物に被害を与え始めたというのです。ジャガイモ、サツマイモ、ササゲ、ネギ等々を手当たり次第に荒らしたそうです。猿はもっと前から見かけていましたが、主に夏場は峠だけで、冬は取り残された熟柿に来る程度でした。それが、夏に畑にまで現れるようになりました。恐るべし猿。人間が採れる対抗手段は、電気柵だけです。

 

 肝心の草刈りの証明写真です。草刈り前と草刈り後です。

 

 草刈りをしていても、忙中閑の気持ちを持っています。花と昆虫です。どれも名前が分かりません。

 

 さて、畑沢へ来るときは、背炙り峠を通れませんでしたが、この日(平成30年7月13日)の午後3時から背炙り峠を通れるようになったということでした。県のホームページでは7月20日まで通行止めでした。一週間早く通行止めを解除してくれました。しかし、私は尾花沢と大石田に用事がありましたので、背炙り峠を通ることができませんでした。残念至極なり。

 

 

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