-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

とうとう見てしまいました。

2014-06-28 18:38:29 | 歴史

 中畑沢には、稲荷神社とお不動様という二つの社があります。このうち、お不動様は、不動明王を祀ったものなのでしょうが、不動明王に関係した像らしいものは見当たりませんでした。今年になって再びお不動様へ行ってみました。

 

 お不動様へ行ったことは行ったのですが、破れかけた引き戸を見ると、とても開けてみる気にはなりません。開けたら最後、二度と戸が閉まらないような気がしたからです。代わりに、近くにあった石の祠に関心を持ちました。昨年も石の祠があったことに気が付いていたのですが、昨年は石の祠に対する予備知識が全くありませんでしたので、重要視していませんでした。ところが、その後、畑沢の数多い祠と対面しました。背中炙り峠の万年堂、上畑沢の山の神、同じく金華山、下畑沢の三峰神社等です。少しは見る目ができたと思えます。

 この石の祠の屋根は、昔から姿そのままかと思います。実にしっりと作られています。ところが、その下にある部屋の部分は、コンクリート製の集水桝を利用しています。元々、この部分は木製だったのでしょうが、朽ちてしまったと思われます。そして、不思議なのは、祠の前にある穴の開いた石です。自然に石に穴が開いたものではなくて、人が意図的に開けたものです。何らかの御神体を意味している可能性があります。まだまだ未熟な私では謎を解くことができません。

 しかし、祠の中を覗くことができました。以前はスビタレて、中を覗けませんでしたが、少しは慣れてきたようです。

 中では、狐が何かをくわえて、ぞっとするような目つきでこちらを見ています。ああ、見るんじゃなかった。陶器で作られた10センチにもならない小さな置物です。「狐」ということは、この祠は稲荷神社ということになります。お不動様の前に稲荷神社も建っています。仏様も神様も、みーんな一緒です。まるで私の頭の中のようです。こういう、ごちゃごちゃなでいい加減な感じの世界は、大好きです。

 

 そういえば、下畑沢の稲荷神社の前にも石(一部がコンクリート製)の祠がありました。

 これが何を祀ったものかを確認する必要があります。今の私なら、この中も覗けるかもしれません。きっと昔の村人の生活が覗けるドラエモンの「どこでもドア」が隠されているでしょう。

 

 ところで、話は大きく変わります。一月ほど前に有路S氏がつぎのような昔の話をしてくださいました。

 子どものころ(今から80年以上も前、昭和初期)、七夕は子どもたちだけで泊まり込んだ。女の子は稲荷神社、男の子はお不動様(お不動様は、人家から遠く離れた沢の奥にあります。)で一晩を明かした。

 とこれだけの話ですが、中々、含蓄があります。このころまでは、畑沢らに限らずどこでも庚申講が行われていました。庚申の日に大人が一件の家に集まり、一晩中、寝ないで夜を明かしました。また、観音講と言うものがあり、御婦人方が集まってお参りをしたそうです。子どもの七夕は、この大人の行事の真似事のようです。言い換えると、大人の世界の練習とでも言えるのではないでしょうか。この風習は少し形を変えて、私が小学校へ入る前ごろまでありました。そのころはお不動様などには行かずに、親しい友達の家に泊まっていたようです。当時、私はまだかわいい洟垂(はなた)れ小僧でしたので、アブラシコとして仲間外れにされていました。ですから行事の内容の記憶はおぼろげですが、アブラシコされた記憶だけは悔しい思い出として鮮明です。

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ハンガーでもえもんかけ(衣紋掛け)でもありません

2014-06-26 18:16:44 | 民具

 何やらごっついハンガーのように見えますが、人間様には関係がありません。「ベゴ(牛)」が荷車を引くときに使いました。今から50年ごろ前までは、畑沢の主要な運搬車両は、牛がけん引する荷車でした。当時の牛は、大変な働き者でした。荷車をけん引するほかにも、田んぼや畑での耕運、代掻き、堆肥の元となる糞尿の排泄までやりました。一家の大事な働き手です。

 今は使わないのですから、残しておく意味がないのですが、中々、捨てられません。

 この写真の道具は、牛の肩あたりに掛けて、ベルトを首の下に回します。左右に伸びた棒の端には、金属の輪が取り付けられており、ここに荷車から伸びた取っ手を結びつけます。牛と荷車を結びつけるその外の道具もあったような気がしますが、どうしても思い出せません。何しろ、年端もいかない可愛いただのスビタレでしたからしょうがありません。それでも、この道具だけでは、牛は背中か首が痛いような気がします。きっと何かがあったと思います。

 牛が荷車を引かなくなったのは、耕運機が入ってきてからです。耕運機のお蔭で、牛は田畑の耕運もしなくなりました。しばらくは、堆肥の元を出して肉牛として売られるだけになりましたが、さらに肉牛の飼育もなくなり、各家から牛が消えてしまいました。

 でも、牛が引いている荷車に乗った記憶は鮮明です。中畑(なかばた)から荷車に乗って沼澤へ行き、夕方は山のように積載した収穫物の上に私たちが乗っていました。牛ですからゆっくりと動きます。家に着くころは、大分、暗くなりました。今、考えると異次元の世界のようです。のどかな風景です。あれから日本の経済が鰻上りに大きくなり、各家の収入が増えたのですが、誰もが忙しそうに動き回り、なんのための経済向上なのでしょうか。労働時間は長くなるばかりで、おまけに政治は懐古主義(時代錯誤)のオンパレードです。サイコパス的な人たちによって、いいように踊らされているようです。踊らされるのを止めて、ちょっと一息入れましょう。本当の自分を取り戻しましょう。

 リタイアすると、言いたいことを言えます。現職の方はそうはいきません。

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水芭蕉の花が咲いていました。昔は自然に

2014-06-21 13:19:22 | 自然

 夏が来れば思い出す 遥かな尾瀬 野の小道……

 これは皆さんが御存知の水芭蕉です。私が初めて水芭蕉を見たのは、山形県外の山へ登った時です。それ以来、水芭蕉は尾瀬のような高い所へ行かないと見ることができないものだと思っていました。

 写真の水芭蕉は、畑沢で春先に撮影しました。当然、自然に生えていたものではありません。人為的に他の場所から持ってきた株を休耕田へ植えたものです。畑沢に水芭蕉が生えているわけがありません。

 確かに今は畑沢には自然に生えた水芭蕉を確認できません。しかし、昔は畑沢でも自然に生えていたそうです。一月ほど前に私よりも10歳年上の兄が話していました。「ビョウザワのずっと奥は、薄暗くなっている。そこに水芭蕉が咲いていた。そのころは、水芭蕉を気持ち悪い花に感じていた」と言うのです。水芭蕉を気持ち悪いと言うのですから、兄は「夏の思い出」の歌を当時、知らなかったのでしょう。私は、ビョウザワの奥に何回も行きましたが、一回も水芭蕉を見たことがありません。昔はあったのでしょうが、今はなくなっています。畑沢に限らず、県内の沢の奥など湿り気がある土地には水芭蕉が自然に生えていたものと思われます。私は今、山形市に住んでいますが、西蔵王の放牧地には、沢山の水芭蕉が咲いています。それこそいろんな所に咲いています。そんなに高い山でなくても、元々は普通に生えているもののようです。

 畑沢などの水芭蕉は、どうしてなくなったのでしょうか。どなたかが大量に盗掘したことが考えられます。いろいろと残念なことがありますが、水芭蕉のことも残念です。

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アマドコロ

2014-06-20 10:15:50 | 自然

 アマドコロという名前だそうです。山際では昔から見たような気がしますが、この写真は田んぼの極、近くで撮影したものです。山際に生えているべきものが、田んぼの近くでも生えるようになりました。

 一見してユリ科の植物のように見えますが、何とか言う別の科に属しているようです。この時の花は大変に元気で、背丈も高く、茎も太くなっています。日当たりが良い開けた場所に生えているのですから、生育環境としては申し分ないのでしょう。この写真では茎の様なものが2本見えます。右の方は、葛(くず)の蔓です。葛も田んぼの近くに生えるようになりました。昔のように牛や山羊を連れて来れば、これらの家畜が葛を全部食べてくれたでしょうに、今は食べてくれる家畜がいません。

 ところで、このアマドコロをまだ食べたことがありません。調べてみると、アマドコロの「アマ」は「甘い」という意味だそうです。根茎を食べることができるのだそうです。食べられるのなら、秋にでも食べてみましょう

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「おごさま」の網?、篭?

2014-06-19 14:14:24 | 民具

 今、桑の葉がグングンと成長していますので、昔のこの季節には、既に蚕を飼育していた(おごさまかってえだ)ような気がします。蚕が小さいうちは、食べる量も少なく、スペースも狭くて済みますが、やがて成長するととてつもなく食べ始めます。スペースもどんどん広がり、私たちの居間さえも占領されてしまいました。何しろ蚕は「偉い」ので、おご様と「様」付けで呼ばれていました。それに比べて、私はスビタレと呼ばれていたのですから、蚕よりも下に見られていたのでしょう。

 写真の丸い網の様な篭の様なものは、蚕がまだ大きくなる前に使われました。ただし、昭和30年代の初めごろまでは、大きくなってからも、ずっとこの網が使われていました。30年代半ばごろからは、蚕が大きくなると床又は地面で直接、飼われ始めました。網で飼育する場合は、蚕が落した糞尿を桑を与えるたびに取り除きますが、床又は地面で飼育する場合は、糞尿を片づけずにそのまま桑を上に積み重ねていきます。それだけ省力化できたようです。

 この網は、「網」と言うには目が大きく、材質も硬い笹です。材質から言えば、「篭」と言うのが適当かもしれませんが、平べったいので篭とも呼べません。でも、何かの名前があったはずです。ここでいつものようにお願いします。名前を教えてください。できれば畑沢語でお願いします。

 

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