-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

お参りしてきました

2015-10-30 21:43:24 | 近況報告

 10月18日に行われた延沢城跡国指定三十周年記念祝賀会に参加していた時に、畑沢の大先輩たちから訃報を聞きました。まだ七十歳代のが亡くなられたということでした。去年の「おさいどう」で御一緒し、元気なお姿を拝見していただけに驚きました。しかし、私のリフォーム作業との絡みやその他の用事もあって、直ぐには行けませんでした。ようやく一段落して畑沢へ向かいました。

 思えば、私が畑沢を再認識して活動を始めてから四年目を迎えていますが、その間に既に6人もの人が畑沢で亡くなってしまいました。残念で仕方ありません。

 

 畑沢へ向かった10月30日は朝からぐずついた天気で、時々、小雨が降る寒い日でした。いつものように村山市中沢(道玄)から背炙り峠へ向かうと、背中炙り峠の楯跡の直下を通りかかりました。楯の曲輪の下から切岸があり、さらにその下の急な斜面には古道が二本左上から右下へ向かって伸びています。下の古道には途中に「弘法清水」と言う湧水があります。

 ところで、峠で出会った車は、長野、青森、袖ケ浦のナンバーでした。山形ナンバーよりも県外ナンバーが圧倒的に多いようです。一見、背中炙り峠は県外客に人気に見えますが、真相は分かりません。単にカーナビのなせる業かもしれません。

 峠を越えて畑沢の中に入って直ぐに上畑沢の墓地へ立ち寄り、先日亡くなった方のお墓に手を合わせてきました。墓のそばには真新しい卒塔婆が横たえてありました。

 畑沢の中も、もう山一面が紅葉になっていました。田んぼには何にもなくなってしまいましたが、その分、山が賑わいを見せています。

 小さな沢に入ると、熊や猪の注意を促す看板の真上が、彩(いろどり)鮮やかになっています。看板も鮮やかですが、木々の紅葉も負けてはいません。

 しかし、目を下に移すと、そこには世の移り変わりの厳しさがあります。昔、水田だったところ一面が萱(かや)に覆われています。この水田「跡」は、私がスビタレと言われながらも、泥濘(ぬかるみ)の中で、小学生の小さな体を耕運機に振り回されながらも懸命に代掻きなどを行っていた場所です。今の私ならば、小学生よりは体力がありますから、難なく耕運機を操れるでしょうに。もう、挑戦することすらできなくなっています。

 この小さな沢から集落の方向を見ますと、のどかな中畑沢が見えます。

 ところが、この写真の下には驚くべきものがありました。ただの泥のように見えますが、実は猪が踏み荒らした跡です。もっと正確に言うと、ミミズなどの餌を掘り起こしたか植物の球根を掘り起こしたかと思われます。猪は植物も動物も食べます。


 実家の小屋で着替えをしてから、あらためて亡くなられた方の家へ行き、仏壇を拝ませてもらいました。一年半前のおさいどでお会いしたのが最後でした。私は最近ようやく畑沢へ行くようになりましたが、早い時期に畑沢を離れていましたので、長い間お会いしていなかった方がおおぜいおられます。今までの無沙汰を取り戻すように努力していますが、それでも中々、お会いできない方がいます。このたび亡くなられた方は、私が恩返しをしなければならない方でした。私が何もできないうちに天国へ旅立たれました。

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千鳥川ウォッチング(8)

2015-10-23 20:26:13 | 自然

 あまりにも久し振りに「千鳥川」と言われても、ピンと来ないでしょう。千鳥川は畑沢を流れる川です。直近の投稿は7月でした。あれから三か月も経っていますので、忘れ去られているかもしれません。

 さて、今回は前回(7)の少し上流です。即ち、千鳥川と朧気川との合流点から畑沢側へ約450m上流を紹介します。

 大平山から始まった千鳥川の流れは、清水畑から上畑沢へは西端の山際を、上畑沢から中畑沢の途中で今度は東端の山際にぶつかります。中畑沢ではほとんどそのまま東端を流れ下り、下畑沢へ向かう辺りで山際から離れはじめます。下畑沢では、東端から西端へ長く斜めに田んぼの中を横切ります。そして下畑沢が終わろうとする岡田沢の西側で、再び西端の山際に戻ってきます。今度はもう山際を離れることなく、朧気川へ合流するまで流れていきます。

 朧気川に近づいた千鳥川は、山際を流れているので直線的な流れになっています。より上流の千鳥川とは趣を異にしています。端的に言えば、単調です。しかし、流れが直線的で単調であるということは、増水時の流速が早いということです。しかも、両岸がコンクリートブロックで護岸されていますので、益々、大きな流速になり、川底などの土砂を一気に流し去る大きなエネルギーを持っています。別な言い方をすれば「増水すれば怖い」川です。


 荒町から松母の墓地へ入る前に西側へ伸びている農道があります。そこを西側へ進むと、千鳥川にぶつかります。そこに横前橋がありました。昭和45年(西暦1970年)に作られたようです。しかし、欄干は新しく見えますので、改修が何回かあったのでしょう。千鳥川に架かる最下流の橋かと思います。

 

 橋の直ぐ下には取水口がありました。堰き止められた水は、右岸の脇に作られた農業用水路を流れています。10月下旬は既に田んぼの水は必要ないのですが、最近の増水で大きな丸太が流されてきて取水口の脇の流れを止めてしまいました。そのために、季節外れの農業用水が流れています。

 少し下流に来ると、川底の岩盤が見えます。早い流れが川底を強烈に洗い出しているようです。

 農業用水路に流れていた水でしたが、ここでは農業用水路が堰き止められています。増水で大量の土砂が水路にも流れ込み、水路に土砂が置き去りにされました。来春は水路の土砂を掻き揚げなければなりません。

 

 

 

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新 常盤小学校が準備中

2015-10-22 16:55:38 | 近況報告

 今年から常盤中学校が尾花沢中学校に統合されました。中学校として使われた校舎は、来年度から常盤小学校として使われます。今年度いっぱいは、中学生用の仕様を小学生用の仕様に改める改装工事が行われています。この場所は、少なくとも昭和30~50年代までは、元々、常盤小学校として使われていましたので、何十年ぶりかで再び小学校に戻ることになります。

 

 校舎の周り全体に足場が組まれています。外壁や屋根なども改装するのでしょう。

 

 校舎の前には、中学校の校歌を刻んだ石碑があります。小学校になれば不要になるのでしょうが、中学校がなくなった現在の状況においては、ここに置いておくしかないのではないでしょうね。石碑の脇には「考える人」らしき像があります。しかし、どうも「ロダン」らしからぬ雰囲気です。どなたの作なのでしょう。

 

 校庭も大規模に改修しています。U字溝が見えますので、排水処理工事かなと思います。

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延沢城跡に「ユキツバキ」はありませんでした。残念!

2015-10-21 17:03:43 | 歴史

 これまで何度か畑沢のユキツバキ群生について投稿し、八月末にもまとめ的な内容も投稿しました。その中で、延沢城との関係について言及しております。「延沢軍記」に「城の馬場の四方の土手に花木を植えた」との内容が書かれておりましたので、それを私が確認して報告することを約束していました。

 それがついに確認することができました。去る10月18日の「延沢城跡国指定三十周年記念祝賀会」に先立ち、私だけが先行して山に登って馬場を見てきました。馬場は二の丸の南側に細長く隣接していました。馬場そのものにも、その周囲の土手にも杉の木がすくすくと育って、広葉樹がまともに育つ状態ではありませんでした。杉は植林されたもので、馬場に限らず城跡一帯が杉林になっています。しかも、ここは珍しいくらいに手入れが行き届いており、下刈りもきちんと行われていました。

 馬場の東側も西側も一面が杉林です。

 もしも、延沢軍記の「花木」がユキツバキであったとしても、とても生き残ることはできなかったでしょう。これで、完全に馬場の周囲にユキツバキがあるかもしれないという希望は完全に消え失せました。ユキツバキの群生が残っているのは、畑沢の熊野神社だけのようです。

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延沢城跡国指定三十周年記念の祝賀会等

2015-10-19 20:32:21 | 行事

 10月18日に延沢城が国の史跡として指定されてから30年を迎えました。その祝賀会は延沢城跡保存会が中心となって開催されました。朝の8時30分に集合して、10分後には城跡がある山へ登り始めました。登り口は、元の常盤中学校舎(元元の常盤小学校跡地)の北側です。

 道の両側には常盤小学校児童が作った旗が何十本も立てられていました。

 山の頂上には、役30人が集まりました。年配の方が多いのですが、皆さん元気です。余裕綽々で式典に臨んでおられました。

 一本杉の前で神主さんの祝詞があげられました。樹齢千年を超えているとも言われていますが、果たしてどれぐらいでしょうか。

 次に剣士・練士による真剣を持った演武です。常盤地区出身の方々で、私の少し年上のようでした。

 試し切りでは、藁束を見事にバッサリ。

 城跡での式典が終わると、会場が尾花沢の町の中に移りました。約80人も出席したとのことでした。尾花沢市役所関係者、市内地区代表者、老人クラブ代表、一般参加者などです。私は「一般参加者」です。祝賀会とは「祭」です。沢山のアトラクションが次から次へと繰り広げられます。まるで、尾花沢祭よりも賑やかでした。霧山太鼓、詩吟と舞、延沢音頭、長瀞猪子踊り、六沢流花笠踊りなどです。

 

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