10月18日に行われた延沢城跡国指定三十周年記念祝賀会に参加していた時に、畑沢の大先輩たちから訃報を聞きました。まだ七十歳代のが亡くなられたということでした。去年の「おさいどう」で御一緒し、元気なお姿を拝見していただけに驚きました。しかし、私のリフォーム作業との絡みやその他の用事もあって、直ぐには行けませんでした。ようやく一段落して畑沢へ向かいました。
思えば、私が畑沢を再認識して活動を始めてから四年目を迎えていますが、その間に既に6人もの人が畑沢で亡くなってしまいました。残念で仕方ありません。
畑沢へ向かった10月30日は朝からぐずついた天気で、時々、小雨が降る寒い日でした。いつものように村山市中沢(道玄)から背炙り峠へ向かうと、背中炙り峠の楯跡の直下を通りかかりました。楯の曲輪の下から切岸があり、さらにその下の急な斜面には古道が二本左上から右下へ向かって伸びています。下の古道には途中に「弘法清水」と言う湧水があります。
ところで、峠で出会った車は、長野、青森、袖ケ浦のナンバーでした。山形ナンバーよりも県外ナンバーが圧倒的に多いようです。一見、背中炙り峠は県外客に人気に見えますが、真相は分かりません。単にカーナビのなせる業かもしれません。
峠を越えて畑沢の中に入って直ぐに上畑沢の墓地へ立ち寄り、先日亡くなった方のお墓に手を合わせてきました。墓のそばには真新しい卒塔婆が横たえてありました。
畑沢の中も、もう山一面が紅葉になっていました。田んぼには何にもなくなってしまいましたが、その分、山が賑わいを見せています。
小さな沢に入ると、熊や猪の注意を促す看板の真上が、彩(いろどり)鮮やかになっています。看板も鮮やかですが、木々の紅葉も負けてはいません。
しかし、目を下に移すと、そこには世の移り変わりの厳しさがあります。昔、水田だったところ一面が萱(かや)に覆われています。この水田「跡」は、私がスビタレと言われながらも、泥濘(ぬかるみ)の中で、小学生の小さな体を耕運機に振り回されながらも懸命に代掻きなどを行っていた場所です。今の私ならば、小学生よりは体力がありますから、難なく耕運機を操れるでしょうに。もう、挑戦することすらできなくなっています。
この小さな沢から集落の方向を見ますと、のどかな中畑沢が見えます。
ところが、この写真の下には驚くべきものがありました。ただの泥のように見えますが、実は猪が踏み荒らした跡です。もっと正確に言うと、ミミズなどの餌を掘り起こした跡か植物の球根を掘り起こした跡かと思われます。猪は植物も動物も食べます。
実家の小屋で着替えをしてから、あらためて亡くなられた方の家へ行き、仏壇を拝ませてもらいました。一年半前のおさいどでお会いしたのが最後でした。私は最近ようやく畑沢へ行くようになりましたが、早い時期に畑沢を離れていましたので、長い間お会いしていなかった方がおおぜいおられます。今までの無沙汰を取り戻すように努力していますが、それでも中々、お会いできない方がいます。このたび亡くなられた方は、私が恩返しをしなければならない方でした。私が何もできないうちに天国へ旅立たれました。