-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

お宝がザック ザック

2018-11-30 16:54:29 | 歴史

 尾花沢市民図書館には、お宝がザック・ザツクとありました。この図書館には以前から何かとお世話になっていました。特に6年前は、何か畑沢に関する資料がないかと何度も足を運んだ結果、数々の手がかりを得ることができました。

 そして、この度、下の本を発見して、またもやお宝に恵まれました。

 山形県大石田町出身の海藤忠男氏が平成10年7月12日に発行されました。表紙にありますように、昭和30年代の暮らしについて書かれています。その時代は私とも共通しています。書かれている内容は、次のとおりで、この中に204もの事柄が綴られています。

 1 次年子の思い出

 2 大浦バス停

 3 草屋根の暮らし

 4 学校生活

 5 食べ物

 6 唄と呼ばわり

 7 遊び

 8 雪の中の暮らし

 次年子伝説

 小平の七不思議

 簡潔で的確な表現です。正確に記録することを目的にされている感じです。真面目なお人柄を想像できます。大変、中身が濃いものになっていて、よくもこれだけのものを記憶されているものと感心しました。例えば、「8 雪の中の暮らし」に「ドフラ(落とし穴)」というお話があります。畑沢のドフラと同じでした。次年子の子どもたちも、私と同じいたずらをやっていたようです。もう、これ以上、当時の生活を記録した本は出てこないでしょう。大事にすると同時に、なるべく多くの人たちに読んでいただきたいと思います。

 この図書館のお宝は、これだけではありません。尾花沢市内の各地区で書かれた様々な本が、図書館の見えやすい書棚に置かれています。各地区の歴史保存会によるものや地元小・中学校の子どもたちが書いたものがあります。現在、読んでいる一部の本を紹介します。

「福原 むかしのお話」

 尾花沢市福原地区の昔のことについて、福原中学校の生徒なども含めた地元の方々が書きました。その中で、幕末から明治にかけて、修験者の生活が激変する様子を中学生が調べました。江戸時代まで各村に修験者がいましたが、明治維新によって神道が国教になり、修験者は大きな影響を受けました。そのことを中学生が調べて書いたのですから驚きです。大変に貴重な内容です。

「宮沢 お宮とお寺、石塔」

 宮沢地区のお寺とお宮が奇麗に写真付きで解説されています。この中で、興味深かったのは、江戸時代のある時期に他の地区には見られないほどの人数の修験者がいたことです。宮沢地区は他の地区とは異なる修験者の組織があった可能性があります。

「おやじの寝言」

 牛房野地区での昔の生活が、軽妙に表現されています。子どもたちの牛房野川でのカジカ採り、学校での腕白ぶりなども笑いを誘います。

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まだ雪は積もっていません。

2018-11-29 11:41:47 | 近況報告

 平成30年11月28日(水)に、尾花沢市内での用事があり、畑沢にも廻ってきました。紅葉はとっくに終わり、木々の葉はほぼ全てが落ちていました。風景全体が暗い色です。その中で唯一、明るいのが雪です。少し前に畑沢全体が雪で覆われたようですが、その後、天候が回復して雪が消えました。ところが、屋根から落ちた雪が積み重なっている場所には雪が残っていました。昔の11月の下旬ならば、既に根雪になっていて、雪で覆われていました。今は12月に入っても、雪がありません。去年だけは特別で、11月下旬に根雪でした。

 

 永年の間、放っておいたキャラの枝が伸び放題になり、大量の積雪で幹が損傷する危険がありました。私の得意な「雪に耐えうる」強い剪定を行いました。少し、仕事をしただけで疲れてしまい、息抜きに周りをうろついていたところ、思わぬ光景を目の当たりにしました。下の写真です。かなりのピンボケなのですが、これしか撮影しませんでしたのでそのまま載せました。写真下の中央部から左側へ斜めに水路があり、その上側は全て耕作放棄されている水田ですが、その輪郭が滅茶苦茶になっています。イノシシの成せる業です。水路の岸を掘り起こして、ミミズを探したようです。水路が破壊されて、水が田んぼに流れ込んでいました。まるで湿地のようです。イノシシは鼻や牙で土を掘り起こすのでしょうが、イノシシ並みと自称する私も負けてはいません、ゴム長靴で水路の底の土砂を掘って、土手を修復してきました。負けるもんか、イノシシなどに。イノシシがいない時は、大口を叩けます。イノシシは、写真に写っている山の方からやってきます。


 帰りは背炙り峠を通りました。まだ通行止めになっていませんでした。ありがたいことです。山の木々から落ちてきた葉っぱが山側の路肩にうず高く積もっています。この下にU字溝があるのですが、完全に覆われています。今のところは、積み重なった落ち葉の間に隙間がありますので、雨が降っても側溝に流れ込みます。しかし、やがて積雪が落ち葉をぎゅっと押し固めてU字溝への穴を塞いでしまいます。3月下旬にもなると、雪が溶け始めて4月の一ヶ月間もの間、大量の雪解け水が、路面だけでなく山中から流れ落ちてきます。しかし、その大事な時期に側溝の機能が発揮されるのでしょうか。山岳道路に、この形の側溝は無理がありそうです。雪が溶けて5月に落ち葉を取り除いても、最も必要な時期に側溝の機能を果たさないのではないのではないでしょうか。山岳道路には、それなりの工事手法がありそうです。良い例が畑沢から上五十沢へのスーパー農道にありますので、参考にしてもらいたいものです。L字溝です。

 山中と平地では、側溝の集水範囲、側溝から排水すべき場所などの点が全く異なりますので、それぞれに適した工法を採るべきです。それは私ごときが論じるまでもなく、既に確立されているはずです。山岳部での側溝などについての私の考えを、後日、投稿したいと思っています。

 目を側溝から上に転ずると、古道が走っている背中炙り峠方向の木々が見えました。寂しげに私を見下ろしています。今年は忙しくて、一度も背中炙り峠と楯跡に入っていません。峠の地蔵さんが「どうしたんだ、顔を見せねーなあ」と言っているようです。ごめんなさい。

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何と!お城山に城が建っていました。

2018-11-16 19:29:52 | 歴史

 平成30年11月15日(木)に、尾花沢市教育委員会へ畑沢に関する資料についてお願いに行ってきました。約束していた時間に余裕がありましたので、悠美館一階の展示物を観賞していたら、思いがけない素晴らしいものを見ました。野辺沢城のジオラマです。城跡のジオラマは去年、完成していて既に拝見しましたし、このブログにも投稿して皆さんに紹介しました。ところが、今度は城の建物が入っているジオラマが別に作られていました。

 下の写真のジオラマは、右か南で手前側が西に当たり、常盤小学校や中学校があった方向になります。ジオラマは透明のプラスチックのケースに入っていますので、どうしてもケースの表面で窓からの光が反射してしまいます。かろうじて全体を判別できそうなので、下手な撮影技術をお許しください。御覧になると直ぐに分かるように、右の大きな広場が本丸になり、そこに最も大きな建物が見えます。本丸の西端と東端に櫓が立っています。北の櫓は、ずっと北にある堀切を見下ろす位置に立っています。

 

 城の入り口は、敵の侵入を防ぐ仕組みが施されています。しかし、拡大した下の写真でも、そのことが分かりにくいのですが、図面ではもっと複雑になっています。石垣も用いられて頑丈な作りになっていたことでしょう。この入り口の門は、大手門と呼ばれるもので、城が破壊されてからは、延沢の龍護寺に移築されたとも伝えられているそうです。

 下の写真は、本丸を南側からアップ撮影したものです。本丸は発掘調査をして、柱の位置などを確認していますので、それに基づいた建物なのでしょう。今風に言えば、「平屋建て」のようです。城の周りは樹木が見えなくて、物足りない感じを受けますが、これは守りのために樹木を伐採しているためであるようです。樹木があれば、木々を掴みながら登れますし、隠れ場所にもなってしまいます。徹底的に伐採されたようです。当然、裸地の斜面は降水による浸食も大きかったことでしょう。

 ところで、教育委員会での相談中に、畑沢に関する、畑沢の大先輩による、畑沢のための貴重な資料があることが分かりました。大きな収穫です。畑沢の先輩方に深く感謝します。そして、協力して下さっている教育委員会の方々にも感謝、感謝が続きます。

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時は流れ 川が流れ 名前も流れ

2018-11-13 17:16:56 | 歴史

 タイトルを御覧になって、「何のこっちゃ。また頭がおかしいのでは」と心配されてる方もおられるでしょう。そうです。おかしいのは、いつものことです。

 でも、本当に言いたいのは、「川の名前は、時の移ろいとともに変化する」ものであることです。久しぶりに、昭和2年(1927年)に畑沢の大先輩である青井法善さんが発行した「郷土史之研究」を眺めてみました。この書籍については、何度も畑沢地区や細野地区の記述を引用してこのブログに投稿してきたのですが、常盤地区全体の部分については、疎(おろそ)かにしていました。常盤地区の川について、次のような記述がありました。

 

河の主なるもの

 丹生川は御所山から発して鶴子の東北を貫流する。そして玉野、宮沢、福原、

尾花沢等の町村を通り亀井田村で最上川に合ふのである。

 朧氣川は御堂森から発して細野の中央を貫流して延沢の北を流れ尾花沢を通

て大石田で最上川に合ふ。

 千鳥川は大平山から発して畑沢を貫流し字荒町の西南で朧氣川に合する。

 田の沢川は三日町山から出て九日町の北で朧氣川に合する。

 繋川は鶴子の西南から発するのであるが六沢の西北を流れ玉野村を過ぎて丹生

川に合するのである。

 

 この記述を整理すると、川の名前の新旧は次のとおりです。

   昭和2年    現在  

   丹生川    丹生川  全く変化がありません。

   朧氣川    朧気川  発音と文字の意味が全く同じで、字体が変化しました。  

   千鳥川    千鳥川  変化ないようですが、大正時代までは「畑沢川」でした。

   田の沢川   前田川  「田」が共通していますが、意味は全く違います。

   繋川     綱木川  発音が全く同じですが、文字が変化しました。  

 

 綱木川の風景(平成26年5月)

 

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背中炙り峠越え街道の姉妹街道を訪ねてみました。

2018-11-06 15:29:08 | 歴史

 古代から明治時代の初めごろまで、太平洋側から仙台街道と背中炙り峠を越える旅人の通行と荷物の運搬が、盛んに行われたそうです。平成30年11月5日に仙台街道に行ってきました。目的は外にあるのですが、併せて古道の現状も見てきました。これで三度目です。

 

 尾花沢市の峠への入り口は、銀山温泉の奥にあった旧「上の畑村」地内にあります。

 古道は昔のままの形を残していて、路面が凹んでいます。

 坂道を登りきると、天沼(あまぬま)があります。沼には鴛鴦(オシドリ)の数組の番(つがい)がいましたが、私のカメラアクションが間に合わず、その美しい姿を写真に納めることが出来ませんでした。この沼は自然に出来たものではなくて、いつの時代かに人の手で造られたようです。

 県境を越えて宮城県側を下ると、軽井沢番所の跡があります。江戸時代の初期に設けられたようです。その番所の向かい側には、半森山(はんもりやま)が聳えています。ほぼ全山が落葉していました。樹種はブナです。

 軽井沢は結構、近いので、畑沢へ行く時間を持てました。

 荒町から朧気川を渡って畑沢へ向かう途中に、松母があります。下の写真の様に今は全幅7mのアスファルト道路が林を大きく切り開いていますが、私の小中学校時代は砂利道で幅も3m程度の狭い道でした。当然、道の両側から広葉樹の枝が緑のトンネルを作っていました。緑のトンネルは、夏の明るい時間は日除けになるありがたい存在ですが、秋の日が暮れた時間帯は、ブラックホールそのものです。さらに、道の脇が墓地になっていて、幽霊や人魂(ひとだま)の怖い話が子どもたちの間で流行っていました。秋の文化祭での演劇に先生から役を言いつけられて、薄暗くなるまで練習させられましたが、松母に近づくころは真っ暗です。しかも、一人です。けっして、「先生」は私の下校時の事情を考慮に入れていませんでした。とんでもないことをさせられたものです。

 

 畑沢の紅葉は終わりに近づいています。遠くに見える大平山(宝沢山ほうざやま)のブナの森は完全に落葉しています。ところで写真の右側の電柱が傾いて見えますが、私が臍を曲げて傾けて撮影したのではありません。元々、傾いています。電線をカーブして張り巡らす時の高等な技術が隠されているものと思います。

 下畑沢の稲荷神社に新しい鳥居が建っていました。数年前は柱の部分が朽ちていたのですが、再建したようです。紅葉をさらに美しく彩っています。鳥居の左側の太い幹は、ブナの木です。神社の周囲がブナの林になっています。

 今年、大繁殖したカメムシ対策のために、日が暮れるまで実家の小屋にいたので、峠に着くと楯岡方面の夜景が見えました。いつもですと、もう少し早く峠に来て夕焼けを眺めるので、夜景とは無縁でした。カメラの三脚を用意していなかったので、ガードレールに密着させて撮影したのですが、4秒間の露光では手振れが生じてしまいました。何枚もの写真の中で、これが最もましな一枚です。

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