-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢の石碑・石仏

2013-06-29 22:31:58 | 歴史

 「畑沢の江戸期を中心とした石碑の数々」で投稿しましたように、楯岡高校社会部が昭和45年に調査した「郷土 Ⅱ」には、畑沢の石碑を調査した内容が掲載されています。お蔭で、全身理系の私でも、何ということでしょう、石碑や石仏にも関心を抱いてしまいました。この楯岡高校の資料のほかにも、例えば尾花沢市内の石碑・石仏に関する文献があればと探しましたが、全く見つかりませんでした。村山市、東根市等では立派な文献が残っています。地元に郷土史の研究会があるようです。残念ながら、尾花沢市には、立派な人材がありますが、組織だった行動になっていないようです。

 ところで、楯岡高校の資料を基にして、畑沢の石碑と石仏を調べています。あくまでも途中段階ですが、結構、面白いものでしたので、下表に紹介します。ただし、私は年号の読み方等においても、素人の域ですので、現段階での調査結果として御覧ください。今後のにわか勉強と調査内容によっては、変更する可能性があることを御承知ください。

 それにしても、狭い畑沢にこれだけの石碑等があるのは、驚きでした。やはり、背炙り古道との関連が深いものが見えます。例えば、六面幢とか馬頭観音と言ったものです。

 石碑等の画像、大きさ等の詳しい情報は、後日、お伝えいたします。

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桑の実

2013-06-28 20:20:09 | 思い出

 

 写真では大きく見えますが、実際は1.5cm程度の長さです。左が熟したもので、右の白いものがまだ未熟な桑の実です。私たちが畑沢で最も多く食べた果実です。桑の以外にはアケビや栗なども食べましたが、甘い思い出は、桑の実が最高です。しかも、無尽蔵でした。桑の葉は蚕にやる餌です。

 畑沢など東北の農村では、稲作の忙しい時期の合間に、養蚕が盛んに行われていました。年に何回も繭を取ります。蚕が小さいうちは、さしたる忙しさもないのですが、蚕が大きくなると食べる量が極端に多くなります。朝から晩まで、畑から桑の葉を掻き(畑沢語では「クワコギ」)だしてきます。さらに繭を作る時期になると、蚕を一匹ずつ手で拾い別の場所に移します。その時は食事する時間もないほどでした。

 養蚕そのものはこのように忙しいのですが、桑の実の美味しさは別物です。特に小学校の1、2年生のころは、桑を掻きだすことに関してあまり手伝いになりませんので、少しは自由時間がありました。そんな時に桑の実を飽食するのです。小さい実を一つ一つ取りながら口に入れるのが正しい食べ方ですが、猿よりも少しだけ賢い我々は工夫をしました。一つずつでは口の中が寂しいので、まとめて食べよう。家に戻ってアルミの弁当箱を持ち出しました。それに桑の実でいっぱいにします。さらに、一工夫です。手拭いで包んで、果汁を絞り出します。ジュースを一気に飲みました。手の平と口の周りは、果汁で黒っぽい紫色に染まりました。以下にも「桑の実を食べたぞう」です。でも、二度と同じ「工夫」をした覚えがありません。猿並みのほうがおいしいようです。

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背炙り峠(7) 背炙り古道のルート(中間報告-畑沢版)

2013-06-27 20:49:43 | 歴史

 久々に背炙り峠です。背炙り古道については、大分前に中間報告しましたが、その後、既に6月1日に畑沢ルートの探索をしております。その結果について、直ぐに報告すればよろしかったのですが、何とも気が重いものがありました。古道の往時を偲ばせるものが殆ど見られなかったからです。先に調査した村山市内の古道は、ほぼ昔のままで残っていましたが、畑沢側は水田、畑、造林のためにかなり地形が変形しています。畑沢側のルートがある山地は、緩い斜面となっているため、重機による開発がしやすかったようです。農地等への道(「農道」と呼ぶことにします。)は、古道を拡幅して、そこに採石を敷いています。採石の材料は、立石山からのものと思われる流紋岩です。近くに採石場があったことも災いしたようです。それでも、峠に向かう半ばごろまでは、農道がほぼ古道であろうかなと推定されます。所々に、幸か不幸か古道がそのまま残されている場所もありました。次の写真のように杉が植林されているため、農道を作るときに杉を避けて、古道をそのままにして古道の直ぐ脇に平行に造成してあります。

 古道がそのまま残っている場合は、U字型に地形が凹んでいます。杉のお蔭で助かったというべきか、何も古道に杉を植林しなくてもよいではないかというべきでしょうか。

 

 農道が突然林から畑に変わるところに出るところがあります。それよりも上の農道は、古道なのか別に造成された道なのかが分からなくなります。昭和40年代か50年代に桑畑に開墾され、古道が寸断された可能性があります。桑畑は耕作が放棄され、雑木林に戻っていますが、一度、変形された地形は古道の判別を困難にしています。それでも、農道を登っていく道すがら、横の藪の中を覗き込むと、道の跡らしきものが随所に見られます。しかし、どれも確信が持てません。落葉の時期にもう一度確認する必要がありますし、私だけでなく複数の人で確認した方が良いようです。

 ところで、話が前後してしまいましたが、畑沢ルートの入口は「丸森」と言われている場所でした。ここから南下して、千鳥川を渡ります。川を渡る橋は、今はコンクリート製ですが、近年までは村人によって作られた石橋があったそうです。石橋に使われた石材はまだ近くに保存されているそうです。

 また有路S氏によると、入口には馬頭観音があったというのですが、確認することができませんでした。もしかしたら、水路の橋にされていたこの石だったのでしょうか。文字を読み取ることができません。

 

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畑沢地蔵庵

2013-06-26 21:19:42 | 歴史

 

 「畑沢地蔵庵」は、下畑沢にある熊野神社の北北西数十メートルの位置にあります。熊野神社が県道からよく見えるのに対して、地蔵庵は山の陰に隠れています。

 名称に「庵」の文字があるように、かつては「庵主様(あんじゅさま)」と呼ばれる尼僧がおられたとの言い伝えがあります。それがいつ頃のことかは確認しておりませんので、引き続き調査を続けます。

 この建物は、近年、建て直されています。私が小さい頃(道草大好きな小学校時代まで)は、古い建物があったことを覚えています。写真でも分かりますように、現在の建物の周囲には、平坦な敷地が余裕を持って広がっています。昔はこの敷地いっぱいに建物が建っていました。部屋数も二室以上あったと思います。その中の一室はかなり広くて、数十人は集まれたと思われます。集会場の役割もあったのでしょう。私の年代よりも少し上の年代である所謂、団塊の世代は、ここで冬季の分校として学んでいたようです。当時の言葉で「分教場」と言っていました。

 今でも敷地の中に湧き水(井戸とも言える。)があります。昔はこの湧き水も建物の中にあったと思われます。敷地外にも別な湧き水があります。私たちが、道草して飲んだのはこちらの方です。私たちの道草は、単なる遊びではなく、今思えば中々、高尚な体験をしていました。「人生、道草すべし」の格言を得ました。しかし、その高尚なるガキでも、庵の外の南側にあった仏像を覚えていません。真面目一途な普通の仏像と異なり、くつろいだ風の姿は味わいがあります。その傍らには墓石が倒れていました。もしかしたら「安寿様」が眠っておられるのかもしれません。きっとそうでしょう。銘を読み取ることができませんが、畑沢を静かに見守って下さっていることに感謝しながら手を合わせました。

 今回も庵の中は、確認しておりません。スビタレ一途。

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下畑沢の稲荷神社

2013-06-25 18:13:14 | 歴史

 畑沢にある稲荷神社については、私は中畑沢に建っているものだけしか知りませんでした。ところが、この間から紹介している紹介している楯岡高校の「郷土 」Ⅱ(昭和45年調査結果)の「畑沢堂祠碑分布図」には、中畑沢だけでなく下畑沢の荒屋敷地区にもその存在が示されています。しかし、私はどうしてもその存在に確信が持てません。記憶がないのです。

 そこで、6月23日に行ってきました。県道から荒屋敷に入ると、宅地と林の境に鳥居が見えました。でも、やはりお堂らしきものは見当たりません。もしかすると、約40年前にはあったが、今はなくなったのかななどと想像しながらも、先ずは近づいて確認することにしました。鳥居は基礎部分が朽ちたのでしょう、かなり低くなっていました。体をかがめる様にして鳥居をくぐると、さらに10mぐらいの高さの木立の中に、まっすぐに上に伸びた山道がありました。ほどなく進むと、頭上でお堂が神々しく私を見下ろしていました。林に囲まれて全く姿が見えない状態から、突然に急な坂下から仰ぎ見る形になりますので、お堂は威厳を感じさせます。お稲荷様の一つの戦略でしょうか。私はまんまと術中に落ちました。何もなかったところに現れた「お稲荷様」。私は初めて対面しました。畑沢に生まれながら、60年以上もその存在を知りませんでした。「神様お許しください。60年以上も生きてると、お許しを願うのはいろいろと…あります」。

 お堂の周囲は、ブナ、楢、杉が主体です。何処のお堂でも神社の周囲の木々は、薪や炭焼きのために頻繁に伐採されることはなかったのでしょう。普通の雑木林は何度も伐採されると株立ちになり、「藪(やぶ)」になっていますが、ここは樹高の高い木がすっと天に伸び、林の地表近くは、すっきりとしています。ブナが多いのも珍しい感じです。お堂のすぐ裏からは、直ぐに尾根が上に伸びています。と言うよりは、わざわざ尾根の最先端に建てられたお堂のようです。

 お堂は、しっかりしています。手入れがされているようです。周囲は現代風に外壁材が使われています。お堂の中には、御神体があるのでしょうが、そこはスビタレ、今回も中を覗くことに躊躇してしまいました。私の様な罪深い者が覗くと、「天罰」が落ちそうです。

 しかし、好奇心はひたすら旺盛です。周囲の木々がなかったら、このお堂から下畑沢、中畑沢、上畑沢を一望することができます。軍事、為政上の監視には持って来いの場所に位置しています。また、このお堂は、昔、楯があったと言われている「山楯」と尾根伝いに繋がっています。「とすると、山楯とこのお堂を結ぶ道が尾根伝いにあるのではないか」。素人仮説の確認のため、直ぐに登ってみました。お堂から上る尾根は平坦で、道としては最適なようです。。確かに途中までは、私の仮説は的を射た様に見えました。しかし、今度は山楯の方に下る尾根に入ると、状況は一変しました。極めて歩きにくいのです。とすると、お堂から続く尾根の道は、細野からの山道に対する監視等の役割りかもしれません。それは、次回の宿題となりました。

 

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