-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背炙り峠の紅葉はまだ

2019-10-31 13:59:12 | 自然

 令和元年10月28、29日(月・火)の両日にわたって畑沢で働いてきました。どうしても一日だけだと働く実質的な時間が短くなりますので、二日間を予定しての作業でした。

 当然、往路は背炙り峠越えです。いつもですと、村山市の中沢地区の入り口を直ぐに左に曲がるのですが、この日は天気のせいでしょうか、そのまま素通りすることなく、立ち止まって写真を撮りました。この中沢地区には畑沢と同じぐらいに石仏が多くあります。それらの石仏は道路沿いにありますので、車中からでも見ることができます。その点、畑沢の石仏はシャイです。道路からは見えない場所に立っています。中沢地区のように道路沿いに並んでほしいものです。峠の麓にある二つの村は、峠の交通が盛んだったことと石仏が多いことに関係があると思うのですが、そこにどんな理由があったのでしょう。

 ところで、下の写真の右側に石仏が三体見えます。墓石のようにも見えますが、どれも石仏です。道路に沿って奥の方へ人家がまとまって建ち並んでいます。さらにずっと奥に山が見えます。甑岳と大平山の中間に位置している山です。大平山よりも標高が高いのですが、国土地理院の地形図に名前が記載されていません。どなたか教えて下さい。結構、立派な山容を見せていますので、きっと素晴らしい名前があると思います。


 畑沢で二日間をフルに働いたので、くたくたに疲れ果てました。去年も二日間続けて働くつもりだったのですが、余りにも小屋の中にカメムシが多くて、泊まらずに山形へ逃げ帰りました。今年は大分、カメムシが少なかったのですが、それでも一晩で40匹ぐらいは捕まえて焼却処分せざるをえませんでした。寝るころには殆どカメムシがいなくなりましたので、何とか寝ることができました。しかし、寝袋での睡眠は浅いものです。翌日、睡眠不足のままの重労働はきついものでした。疲れ果てて辿り着いた背炙り峠は、陽が沈んでいるように見えました。本当はまだ沈んでいなくて、厚い雲に太陽が遮られてただけの様です。雲の切れ間から見える空はかなり明るく見えます。右手奥の山が葉山です。葉山の麓からこちらの峠方向に向かった低地には、霧が立ち込めてきました。翌日はきっと朝霧が濃かったと思います。これからさらに寒くなると、峠からの雲海が見事になります。

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畑沢へまだ直線距離6.6㎞

2019-10-22 15:49:32 | 自然

 台風19号が過ぎ去ってからも、用事があったり風邪をひくなどして、10月8日から二週間近くも畑沢へ行くことができませんでした。風邪が治りました。ようやく、外出可能です。ところが、真っすぐに畑沢へ向かえばいいのでしょうが、久しぶりのドライブなので、幼児期に逆戻りして、いつもの道草を始めました。国道13号線を北上していたのに、村山市金谷でハンドルを西に切りました。最上川の隼を左に見ながら橋を渡り、少し進んだところを右に曲がると、私の大好きな「じゅんさい沼(大谷地沼)」へまっしぐらとなりました。

 私が「じゅんさい沼」を好きな理由は、動植物が豊富で豊かな自然があることです。ジュンサイを収穫することが大きな目的としていることからか、水位の大きな変動がありません。そのために水生植物が安定しています。私の拙い植物に関する知識でも、沢山の植物名を挙げることができます。例えば、コウホネ(河骨)、ヒツジグサ(未草)、ジュンサイ、ムジナモ、サンカクイ、シカクイ、フトイ、マルイ、ミズオオバコ、セキショウモ、オカトラノオ、ミゾソバ、オモダカ、ミツガシワ、ミソハギ、アシなどです。ところで、マルイ、サンカクイとかシカクイ等の名前は、ふざけているのではありません。いくら私が「適当な人間」でも、これは本当の名前です。ただし、命名者がふざけていたかどうかは別です。ちゃんとした方が調べれば、外にもホソイ、フトイとかが見つかるでしょう。

 水生植物が豊富ですから、当然、魚種も豊富であることが予想されます。釣りなどは禁止されていますので、捕獲して調べることができません。それでも岸からでも、はっきりとメダカや鮒の稚魚らしき魚が見えます。それもかなり賑やかに泳いでいますので、様々な魚がいるはずです。釣りを禁止していますので、悪党どもが勝手にブラックバスやヘラブナを放流しません。この釣りを禁止していることが、自然が豊かに残っている最大の理由かもしれません。ブラックバスなどの魚が放流されたら最後、この生態系が根こそぎ破壊されてしまい、ただの「水溜まり」になってしまいます。残念ながら、尾花沢市内にはそのような溜池が多いようです。村山市はその点を誇りにできると思います。東沢公園でもブラックバスを駆除しました。ここで尾花沢市の名誉回復として一言、添えます。徳良湖では3年に一回の水利施設点検に合わせて、ブラックバスの駆除をやってきました。お陰でほぼ駆除された可能性があります。頑張りました。もしも、まだブラックバスが徳良湖にいるとすれば、悪党どもがまたもや違法な放流を行ったことになります。ブラックバスやヘラブナ釣りは、釣具店にとってのドル箱です。竿、ルアー、リール、浮き、バッグ、糸の外にも頭から足の先まで、身に着けるものも全て高価です。商業主義に踊らされているのは、スポーツだけでなく、今では釣りもそうなってしまいました。

 本題から外れましたので、戻ります。この写真の向こうには葉山が写っています。背炙り峠からの葉山を眺めるときと違って、かなり近い所からの眺めですが、あまり大きくないように感じます。これはじゅんさい沼から葉山に向かってかなりの傾斜で地面が上昇しているからと思われます。それに葉山のずっと手前にある低い山々が葉山を低く見せています。沼と道路の間には桜が植えられていて、春の景色も見事です。

 じゅんさい沼には畑沢などで見られないトンボも飛んでいます。今回は見ることができませんでしたが、大部前に撮影しました。チョウトンボです。畑沢では絶対に見ることができません。じゅんさい沼ならではの昆虫です。推測ですが、かなり昔からでないと棲息しないのでしょう。「大谷地沼」の名前から察するに、昔から広大な湿地があったと思われます。

 次に珍しくないのですが、去年も今年も畑沢の稲刈で見ることができなかったイナゴです。じゅんさい沼でようやく会えました。

 空を見上げると、一見、トンビらしき鳥が飛んでいました。しかし、トンビの尾の特徴と異なります。鷹の仲間です。写真を拡大してネットで調べたら、ノスリだそうです。翼の模様が特徴的です。極、ありふれた鷹だそうです。畑沢ですとハヤブサ(隼)をよく見かけます。それにしても、恥ずかしい写真です。望遠レンズがないのですからしようがありません。

 

 じゅんさい沼の東側に目を向けると、ありました。畑沢の山がこちらを見ています。写真の左の山が大平山です。畑沢から眺めた形とはかなり違います。ここから見ると、大平山は尖がり山です。ずっと右の大きな山は甑岳です。横から二つの山を比べると、甑岳が大平山よりも高いことが一目瞭然ですし、風格も違います。甑岳が山岳信仰の対象になることが分かる気がします。

 

 じゅんさい沼の近くにある畑にマメガキ(豆柿)がありました。今では珍しくなりました。私が小さい頃は、畑沢でよく見かけたものです。冬に雪が積もってからが食べごろで、秋に口に入れると渋くて渋くてたまらなくなったものです。そんなものをどうして植えてあるのかは、さらに次の写真で分かりました。

 下の写真に写っているのは普通の柿です。ところが、幹を見てください。途中から太さも色も変わっています。幹の下は台木で、それに普通の柿を接ぎ木したことが分かります。台木の幹の色はマメガキと一緒です。つまり丈夫なマメガキを台木にして、普通の柿を接ぎ木したのです。すると、さっきのマメガキの木は、接ぎ木した普通の柿が枯れるなどして、台木がそのまま枝葉を茂らせたもののようです。

 

 畑沢でいろいろと作業をして、夕方に帰るときは、背炙り峠を通りました。あいにくの曇り空です。峠での眺めには面白みがありません。峠で停車することなくそのまま村山市側に下ってきたら、葉山のシルエットの中に白い雲が閉じ込められています。ん!少しは面白いかなとパチリ。

 でも、いまいちです。写真の下には高来沢(こうらいさわ)の堤が見えます。「こうらい」と言えば、普通は「高麗」を思い浮かべます。埼玉県では高麗を「こま」と呼ばせる高麗郡があります。朝鮮半島に因んだ昔からの地名です。「高来沢」も何かそのようなことがあるのかなと想像していますが、誰も教えてくれません。

 ところで、この堤には何十年か前に胸が張り裂けそうなくらいに悲しい事件がありました。当時はまだ稀な事件でしたが、今ではしばしば起きるようになってしまいました。世の中がより変な方向に進んでいることを示しているようで、何ともやるせない気持ちです。

 

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宝の山にもう一冊

2019-10-12 14:47:27 | 歴史

 尾花沢市民図書館には、私たちの郷土を知るうえで大変、参考になる資料が、地元の方々によって作られている本があります。このことについては、以前にも「お宝がザック ザック」というタイトルで投稿しました。もう一度、紹介します。

 

「福原 むかしのお話」

 尾花沢市福原地区の昔のことについて、福原中学校の生徒なども含めた地元の方々が書きました。その中で、幕末から明治にかけて、修験者の生活が激変する様子を中学生が調べました。江戸時代まで各村に修験者がいましたが、明治維新によって神道が国教になり、修験者は大きな影響を受けました。そのことを中学生が調べて書いたのですから驚きです。大変に貴重な内容です。

「宮沢 お宮とお寺、石塔」

 宮沢地区のお寺とお宮が奇麗に写真付きで解説されています。この中で、興味深かったのは、江戸時代のある時期に他の地区には見られないほどの人数の修験者がいたことです。宮沢地区は他の地区とは異なる修験者の組織があった可能性があります。

「おやじの寝言」

 牛房野地区での昔の生活が、軽妙に表現されています。子どもたちの牛房野川でのカジカ採り、学校での腕白ぶりなども笑いを誘います。

「水船」

 大石田町出身の海藤忠男氏が平成10年7月12日に発行されました。表紙にありますように、昭和30年代の暮らしについて書かれています。その時代は私とも共通していますので、畑沢の風景までもが思い出されます。この中に204もの事柄が綴られています。簡潔で的確な表現です。正確に記録することを目的にされている感じです。真面目なお人柄を想像できます。

 

 先日、この「水船」の著者にお会いすることができました。すると、別の本を絶賛して紹介してくださいました。それが下の写真の本です。

 この本の著者は、宮沢地区の中嶋の方で、水船の著者よりも30年以上も前にお生まれになりました。従いまして、水船で描かれている風景とは全く異なる風景が描かれていますし、シベリア抑留にも耐えてきました。大正と昭和時代が主です。当然、私が経験したことがない貴重な内容です。その頃の生活を活き活きと描き出されていて、所々では子供たちの行動が可笑しくて息ができないほどにまでなり、前に読み進むことができなくなった部分があります。私も皆さんへお勧めしたくなりました。

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「ゴングラ」の謎が分かりました。

2019-10-03 21:12:13 | 歴史

 今年の9月に、畑沢へ行った時の会話です。

挨拶しながら、「どさ んぐなや」と聞くと。

「ゴングラだ」と答えが返ってきました。

えーー懐かしい響きの言葉です。長いこと使っていなかったのですが、そうだ、こんな言葉があったのです。そして長年の謎が一気に解けました。


 昭和30年代からは、畑沢の中心となる場所は二箇所ありました。一つは畑沢分校です。畑沢公民館も兼ねていて、畑沢のことについて会議をするとき、映画上映、青年団、婦人会、若妻会、子供会の各種集まり等々、まさに中心的な場となっていました。

 もう一つの場所がゴングラでした。ここに隣接する熊野神社(オグマンサマ)で畑沢祭をして、ゴングラには2軒の屋台が建ち人が集まりました。ゴングラの端っこには消防ポンプ車の格納庫があり、消防訓練がこの場所で行われました。さらにその脇には牛を繋ぐ柵のようなものがあり、年に何回か畑沢中の牛の爪切りが行われました。また、昭和30年に畑沢分校が建てられるまでは、この地の近くある畑沢観音が分教場になっていましたので、元々、畑沢の中心的な機能は全てゴングラにあったようです。

 そして、今回の投稿のテーマである「ゴングラ」の語源になる建物がありました。さて、私が記憶する限りの昭和20年代から40年代においては、稲の収穫が終わって籾摺(もみす)りまで終了すると、出荷する畑沢中の米がここに集められて米の品質を等級付けする「米検査」が行われ、ゴングラの中心部にあった倉庫に保存されました。この倉庫こそ、ゴングラの語源に関係するものです。

 それでは何故、倉庫がゴングラの語源なのでしょうか。説明はさらに長くなりますので、覚悟してください。畑沢に関する古文書があります。尾花沢市史編纂委員会が編集した「村差出明細帳」と有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」には、正徳四年(西暦1714年)に畑沢村の代表者が、新しく赴任した代官へ村の農産物の生産高と村の概要を報告したものが記載されています。二つの古文書の原本は一つだったのでしょうが、書き写す際に二つは別物のように姿を変えています。それぞれ次のように書かれています。なお、本来は縦書きなのですが、このブログでは縦書きできませんので、横書きに変えています。

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尾花沢市史編纂委員会が編集した「村差出明細帳」

   ……

   一、当村郷藏ハ御座候得共、屋敷之儀ハ百姓屋敷三畝歩之所借り置、御年貢定納申候

   ……


有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」

   ……
   一、当村郷藏は有候共、屋敷の儀は百姓屋敷三畝歩之㪽借置候、年貢定納申候  

   ……

>>>>>>>>>>>>>><<<<<<<<<<<<<<<<<<>>>>>>>>>>>>> 


 両者には若干の違いはありますが、大意は一致しています。要するに「畑沢村には村の藏があり、その敷地は百姓が有している三畝歩の土地を借りており、定額の借地代を納めています」という事の様です。ただ「年貢定納申候」の現代語訳はかなり怪しいです。

 ここまで来れば、賢い皆さんはもうお分かりでしょう。ゴングラとは郷蔵(ごうぐら)のことです。ゴウグラの発音が訛(なま)ってゴングラになったのです。尾花沢市史編纂委員会が編集した「村差出明細帳」については、もう5年以上も前に目を通しており、有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」についても今年になってから、翻刻したものです。しかし、これほど「郷蔵」が私の目の前に現れていながら、ゴングラへの発想が全く湧かなかったのです。もうゴングラが私の脳から消えかかっていたのでしょう。ところが、隣の御婦人が発して下さった「ゴングラ」が、私の脳の隅から記憶を呼び戻してくださいました。やっぱり、私が畑沢を知るには「畑沢の人から教えて貰う」ことが一番、大事です。

 下の写真は昭和50年正月です。写真上部の大きな樹木林は、熊野神社の大杉で、この当時は今よりももっと多くの大杉がありました。その下に建物が複数見えます。左端は農家の小屋、道路を挟んで向かい側には小さな消防ポンプ小屋、その右が米の倉庫です。この時の倉庫は木造でした。江戸時代も木造だったのか土蔵であったのかは分かりませんが「郷蔵」です。その右上は畑沢観音堂です。

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