-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

2016年最後の畑沢行

2016-12-28 19:57:52 | 近況報告

 年賀状を総て書き終え、晴れて自由の身となりました。パソコンで描くようになったのですが、それでも筆不精は昔のままです。言葉が出てきません。

 前日にNHKテレビの気象データを見ていましたら、尾花沢市は積雪がゼロとなっていましたので、畑沢の山楯を現場調査できるかもしれないと期待をしてしまいました。ところが、夜中にしっかりとした降雪があり、現場調査が不可能なくらいに積もってしまいました。それでも、カンジキ作りから10日も経っていましたので、外出したくなり畑沢へ出かけました。

 夜中に降った雪は大した量でなかったので、運転には差し支えありませんでした。ただ、曇りがちなためにいまいち気分がはれません。それが、どうしたことでしょう、古殿地区で急に太陽が燦々と輝いたではありませんか。明るい、眩しい、なんと美しい。周囲が白いだけに太陽が出ると、その効果は絶大です。普段なら見向きもしない景色も、景勝地のそれに見えてしまいました。車を脇に停めて、下手な撮影と相成った次第です。殺風景な構図でしたので、気を使ったパトカーが画面に入ってくれました。

 その場で目を南へ転ずると大平山があり、その時には一服の水墨画のように見えました。偏光フィルターも使いませんでしたので、出来上がりは水墨画とはほど遠くなりました。大平山は、畑沢では宝沢山(ほうざやま)と呼ばれていますが、この写真に現れている姿は宝沢山ではありません。宝沢山とは大平山の宝沢の斜面を言います。この写真には宝沢が一部だけ写っているだけで、大半は細野地区で見られる斜面です。

 大平山からさらに東方向に御堂森が見えました。山頂部が雲で覆われていましたので、形の良い山体が台無しです。常盤小学校と常盤中学校時代の写生でいつもお世話になっていた山です。春、夏、秋と彩を変えて姿を見せてくれました。昨年、細野地区の方々は、この御堂森への登山道を整備したそうです。来年は私も行ってみようと思います。


約40年前の尾花沢の冬季の風景です。

2016-12-19 17:35:19 | 思い出

 パソコンに保管してある写真を眺めていたら、蔵王温泉名のフォルダに撮影場所が分からない写真が混じっていました。商店街のようですが、蔵王とは思えません。詳しく商店名などを手掛かりにして調べましたら、尾花沢の町であることが分かりました。

 昔、畑沢の何処の家でも、カメラはなかったような気がします。勿論、私の家にもカメラがありませんでした。高等学校での修学旅行には、姉の嫁ぎ先である楯岡の親戚からお借りしてカメラを持っていきました。高校1年の時から新聞配達のアルバイトをしていたのですが、その収入は生活費や学費に入れていましたので、とてもカメラなんぞを買うことができません。カメラ店のカタログを眺めて、「あれがいいな、これがいいな」と楽しむだけでした。私が憧れたのがヤシカ・レクトロ35とオリンパス・ペンです。

 その後もお金はなくて、就職してようやくある程度の給料を得ることができるようになって、月賦で買ったのがヤシカ・エレクトロ35を一眼レフにしたカメラです。正式な名前は記憶していません。当時、就職した若者が買いたがる物は、カメラとステレオと自動車でしたが、私はステレオや自動車には興味がありませんでしたので、当然のごとくカメラを直ぐに買ったわけです。カメラにも「腕前」というのがあります。カメラの雑誌を読み漁(あさ)るなどして勉強したつもりでしたが、いくら撮影しても上達しません。それは今でも続いています。それなのに、カメラの勉強もしない末っ子である小学生が、私のカメラで撮った初めての写真の方がずっと上手く撮れていることもありました。構図がいいのです。私は構図が下手なのです。写真に関しては、「神は不平等を作った」ようです。今では上手くなろうと思わなくなりました。

 当時その下手糞が、買ったばかりのカメラで、手当たり次第にどうでもいいような物を片っ端から撮りまくりました。そのために得体のしれない写真があちこちに散らばる結果となってしまいました。下の写真もその類(たぐい)の一枚です。私が就職した昭和49年頃のようです。雪が積もっていますが、大したほどではありません。自転車さえ見えます。写真の奥の方は、延沢の方角です。今とはまるで違う風景です。

 ところで、12月18日に常盤地区公民館で、カンジキ作りをしてきました。私を含めて11人の参加でした。畑沢、細野から2人ずつ、延沢からは4人、鶴子と新庄から各1人でした。私はカメラだけでなく説明も下手なために、参加者を苦しませてしまいました。苦しんだ分だけ、参加者にはきっと、「今度は自分だけで作ってやろう」という自立心が育まれたことでしょう。


雪が積もっていました。

2016-12-13 20:36:18 | 近況報告

 先週の日曜日12月4日は、畑沢でも全く積雪がありませんでしたが、12月9日辺りから11日まで、本格的な降雪がありました。

 常盤地区公民館でのカンジキ作り行事の打ち合わせのために、13日に常盤地区公民館へ行くことになり、山形を9時過ぎに出発しました。山形から畑沢までは、心地よいぐらいの青空の下でのドライブでした。真っ白な畑沢を見るのは久しぶりです。NHK地上デジタル放送の気象データでは、尾花沢市の積雪量は50cm程度だったと思いますが、畑沢のそれは幾分多いかなと思います。既に除雪車が稼働しているようで、道路の両脇に除雪された雪が小さな小さな山を築いています。これがやがて大きな壁を作ることになります。

 畑沢で一仕事してから、公民館を訪れました。この一年は忙しくて公民館へ行かないでいましたので、公民館は久しぶりです。ところで、公民館があった場所には昔、尾花沢市役所の常盤支所がありました。そのころは、公民館は各集落ごとに一つずつあり、職員は誰もいませんでした。ただ建物があっただけです。今は中学校の学区に一つずつに減りましたが、ちゃんと職員が3人いらっしゃいます。各地区の地域振興センター的な役割を担っておられます。

 ここで打ち合わせしたカンジキ作り行事の内容は、以下のとおりです。

1 日 時 12月18日(日)午後1時半から3時半まで

2 場 所 常盤地区公民館(電話0237-28-2122

3 参加者 12月13日までに申し込んだ10名

 カンジキを製作する人は、申し込みが必要ですが、見物は可能だと思いますので、御覧になりたい方は公民館へ電話してみてください。畑沢流のカンジキを作ります。

 公民館がある場所には、常盤小学校と常盤中学校がありました。常盤地区の中心部です。昔はこの近くに商店が2軒もあり、中学校のクラブ活動からの帰りには、腹を空かしてパンなどを買ったものでした。所謂「買い食い」で、中学校でも禁止されていた行為だったような気がします。そんなことを校則で決めても、腹を空かして4キロの道を帰るのは辛いものです。今は2軒ともお店は営業しておりません。買い物は尾花沢まで買いに行かなければなりません。


畑沢の「山楯」を調査しています。

2016-12-10 18:11:06 | 歴史

 畑沢のお祭りがあった4月15日、熊野神社での会話から4月下旬に新たな石仏調査を開始し、その際に「山楯」という楯の遺構に関して驚きの新事実を発見してしまいました。このことは4月30日のブログにも少しだけ報告しております。背中炙り峠楯の調査がほぼ終了したと思っていましたので、そろそろ畑沢の事を調べた諸々(もろもろ)をまとめようとしていたのですが、新たに見つかった「山楯」をそのままにしておくことができません。これを調査しなければと思っていたのですが、如何せん、樹々の葉が茂っていると地形が分かりませんので、来春の雪融け直後を待つことにしていました。

 ところが、来春まで待てない状況が生じました。来る1月14日(土)に常盤地区役員方の新春を祝う会で、「畑沢の話をしてくれ」との要請がありました。同じ常盤地区出身と言っても、私たちは互いの集落について知らないことだらけです。特に畑沢は最も小さい集落ですから、常盤地区民でも御存じない方が大部分でしょう。せっかくの機会をいただいたので、「畑沢の宣伝」をさせてもらうことにしました。そのために、楯について話をする際には、背中炙楯の外に山楯も紹介しなければならないと考えた次第です。とても来春まで調査を待っていられない状況になったのです。勿論、まだ地面の草木が地面に押し付けられていないこの季節は、調査に適した時期ではありません。それでも概略程度は掴めまなければなりません。

 そこで、畑沢の区長さんにお話をして了解を得てから、現場に出かけてきました。次の写真は、楯の一番上の曲輪があった場所だと思います。今は畑として使っているのですが、ほぼ元々の地形を残しているという話を聞いています。最長部で100mぐらいはあります。背中炙り峠の楯の主曲輪でも80mですから、かなり大規模な楯のようです。

 楯からの眺望は、すこぶる快適です。畑沢の全域が見渡せます。この楯は背中炙り峠越え街道(古道)にぴったりと寄り添って作られていて、道を守る楯のようです。野辺沢銀山から山形へ金銀を運ぶ街道は、重要な産業道路です。野辺沢氏は、楯を作って街道を守りました。背中炙り峠の楯も「山楯」から見えますので、互いの楯は連絡を取ることができます。ただし、野辺沢城は見えません。

 さて、この様に「楯を調査しましたよ」という証拠写真をお見せしましたが、肝心かなめの楯の図面をお見せすることができません。そこで、言い訳をします。県道から見える範囲内に楯があるものと高をくくっていたのですが、とんでもない大規模でした。県道から見えるのは、曲輪を縁取(ふちど)る斜面だけですが、実際に登ってみると、それぞれの曲輪には奥行きがありました。さらに、尾根上の曲輪だけでなく、曲輪の脇にも帯曲輪(おびくるわ)が長く伸びています。「えっ、そんな話きいてないよ」と言いたくなります。私の安易な憶測は、見事に裏切られてしまったのです。そして、ホールドアップ。とてもその日だけでは調査を終えることができませんでした。それでも、拙い調査結果を基にして、図面に表わそうとしたのですが、その書き方の下手なこと。とても自分のものとは言いたくない出来です。そんなことで、もう少し図面はお待ちください。ん?、「少し」だけかな、本当は「かなり」お待ちいただくことになりそうです。


今年最後の背炙峠

2016-12-05 17:04:41 | 近況報告

 平成28年12月4日(日)、今年最後の背炙峠越えをしようと思い、事前に山形県のホームページで道路規制状況を調べてみました。背炙峠を越える県道は、以前は県道29号線と表示されていましたが、最近は主要地方道尾花沢関山線などと表示されています。表示が変わると分かりにくいのですが、それなりに慣れてきました。

 ホームページには、やはり冬季閉鎖のお知らせがありましたが、「平成28年12月6日14時00分~平成29年月5月下旬」とありました。

 この日は通行できるようなので一安心です。しかし、このお知らせ内容について、一抹の不安を感じてしまいました。「平成29年5月下旬」のところです。まだ温暖化が進んでいない昔でも、5月上旬には背炙峠を通ることができました。ましてや温暖化が進んだ昨今では、5月上旬なら十分に通れるはずです。それを下旬としているのは、最近、毎年のように訳の分からない「道路閉鎖」してまで行う工事を行おうとしているのではないかと勘繰りたくなります。ついでにより勘繰りを強くした言い方をしますと、「通行止めにして工事の様子が分からないように」するのかなとなります。今年は一か月と少ししか通行できませんでした。

 どうか背中炙り峠の馬頭観世音、湯殿山、山の神、大日堂、乳母木地蔵、水神の皆様方、来年は普通に閉鎖を解除してくれますようにお願いします。私は県道の工事に熱心な政治家などの有力者へ頼む方法を知らないので、神仏の御加護にすがるしかありません。

 いつものように最初から脇道に反れてしまいました。読者の方々から不評を買う訳ですね。さて、山形から出発して直ぐに一週間前よりも霧が濃いことに気付きました。国道を北上するにつれて、益々、霧が濃くなり、とうとう東根付近でスモールライトを点灯しました。この様子だと、背炙峠では素晴らしい雲海を見られるのではないかと期待が膨らんできます。林崎から中沢の道玄に入り峠へ登っていくのですが、中々、霧が薄くなる気配がありません。中沢の棚田ビューポイントへ着いても、まだ辺りは霧の中です。今回は無理かなあと諦めていましたが、最高点に近づいた時に急に視界が開けました。葉山が屏風のように切り立った姿を雲の上に見せています。そして空は青。最高の景色です。左側には時々、雲に隠れながらも雪で真っ白に化粧した朝日連峰が見えます。大朝日、小朝日、鳥原山、以東岳が、やがて本格化する刺すような冬の厳しさを伝えています。

 屏風のような雰囲気を強調したくて、同じ場所からですが、葉山を拡大しました。これまで何度も登った山です。標高は1400mを超える程度ですが、アプローチが長いので結構きつい登山でした。最近は体を甘やかしていますので、登れる自信がありません。

 今年は関東地方に11月中に雪が積もりました。それに比べて山形ではほとんど降りませんでしたので、関東にいる兄弟や親戚には、「そちらは降ったようですが、こちらは全く降りませんでした」などと言っていたのですが、峠に来てみると、日陰に雪が残っていました。私が知らないだけで畑沢には雪が降って積もったようです。