-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

天気が良かったので、楯の調査で遠景撮影

2015-11-30 18:20:47 | 近況報告

 晩秋と言うか初冬と言うのか分かりませんが、積雪がありませんので微妙な季節感です。確かな季節の定義はどうでもよいことですが、不純な天気が続いた中で一日だけ晴れ間の予報が出ていました。大分前から狙っていた「晴れ」です。いそいそと今年最後の背中炙り峠の楯の調査に行ってきました。今年最後と言うよりも一区切りさせる意味もありました。考古学の知識がなく、測量の知識もなく、そしてまじめな研究者の態度もない私には、楯の調査も限界に近づいています。これではいつまで経っても「終わる」ことができません。葉が落ちて見通しが最高のこの季節に、自分の力を出し切って一区切りつけることにしました。それがこの調査でした。調査の道具として持っているのは、コンパスとgoogleの航空写真だけです。5千分の1の地形図を分けていただきましたが、等高線は正確な地形を表現していませんので、全くあてにできません。航空写真に写っている杉の一本一本の樹冠を手掛かりにしました。何とか概況を掴むことができました。ただし、杉が植えられていない場所は、ポイントを特定できずに途方に暮れることがしばしばでした。しかし、コンパスと頑強な足で強引に位置を特定してしまいました。全体的にも強引と言えるものかもしれませんでした。成果はいずれまとめます。

 さてその合間に峠から遠景を映しましたので、御覧下さい。

 背炙り峠(県道29号線)からの朝日連峰です。大朝日岳、小朝日岳、以東岳などが分かります。しかし、寒江山、竜門岳等々はどこなのでしょう。昔々、私もここを二度縦走したのですが、山の名前も忘れてしまいました。

 今度は背中炙り峠(古道)へ向かう作業道からの鳥海山です。以前との投稿の時よりも雪で白くなっています。美しい姿です。

 弘法清水(古道)からの葉山です。ほんの5分ぐらい前にはくっきりと見えたのですが、雲が出てしまいました。

 楯から甑岳方向に伸びる尾根からの真木山(大平山)です。山腹には沢山の傷跡が見えます。伐採時に作られた作業道の跡です。

 今度は遠景ではなくて、足元の風景です。この日は今季最低の気温で零下2度ぐらいになりました。

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背炙り峠は、まだ通れました

2015-11-24 20:26:11 | 近況報告

 11月28日、いつものように畑沢へ向かいました。山形も大分、冷えてきたので、畑沢では雪が降ったのではないかと思い、背炙り峠を通行できるものかどうか不安でした。もし、峠の入り口まで登ってしまってから、「あれー、通行止め」などと引き返すのも嫌なので、山形から天童辺りまでは、峠へ行かないで尾花沢を回ろうと考えていました。ところが、東根も村山も雪が降った形跡が全くありません。白い雪が見えるのは高い山だけで、低い山には見えません。土壇場の峠への分かれ道で、とうとう峠コースを選んでしまいました。今までもこんなことを何度もやって、引き返したことは数知れです。幸い、峠の登り口に到達しても、通行止めの看板がありませんでした。

 村山市中沢のビューポイントから朝日山系を見ましたが、大朝日などは雲に隠れています。右側に葉山の一部が出ています。眼下の里は村山市中沢です。

 方向を南東に転じると、甑岳がうっすらと雪化粧です。

 山形県のホームページで調べましたところ、背炙り峠を通る県道29号線は、「12月8日から5月下旬まで冬季閉鎖」だそうです。

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雪が降る前に峠の風景

2015-11-23 17:59:41 | 近況報告

 ブログの投稿をしばらく休んでいました。県外で働いている息子が、さらに外国へ転勤することになりましたので、引っ越し等の手伝いに行っていました。国内に就職しても国内にいられる保障はありません。地球のどこへ転勤になるか分からない時代になっています。グローバリゼーションなどと言うことらしいのですが、果たして私たちにとっては良いことなのでしょうか。企業が利益を上げるために有効なのは分かりますが、そこで働いている人たちにとって幸せなことかは疑問です。

 さて、山形へ帰ってきて天気予報を見たら、これからしばらくは雨模様で雪も降りだすようです。雪が降りだすと背炙り峠を通れなくなりますので、この間、畑沢へ行ったときに撮っておいた写真をお見せします。

 そんなに大した写真ではありませんが、秋を感じてください。先ずは畑沢へ向かっているときの湧水です。湧水の溜まり場に落ち葉が積もっていました。あたかも人の手で落ち葉を詰めたように見えますが、けっして私が落ち葉をかき集めて突っ込んだわけではありません。自然に積もったものです。

 そこで、私の役割です。もう何十年も同じことを繰り返してきました。落ち葉を掻き出すのです。すると、本来の溜まり場が顔を出しましたが、水が濁っています。

 そのまま、畑沢の実家へ行って、一仕事を終えて再び湧水に寄ると、水が澄んでいました。

 これでいつもの作業を終えたのですが、天気が良かったのでこの場所から峠の楯跡関わる調査を開始してしまいました。楯跡はこの湧水の上にも続いています。急な斜面を木立を掴みながら登っていくと、急な斜面に生えている樹木の形に気づきました。どの樹も株立ちなのです。株立ちとは、一つの根から何本もの株が生えている状態の樹形のことです。普通、自然の樹木は一つの根から一つの幹が伸びていきますが、根元から伐採されますと、生きている根は、切り口から何本もの幹を伸ばします。これが株立ちになります。株立ちになっている林は、その昔、薪や炭を作るために伐採されていたことを意味します。などと偉そうに山育ちのうんちくを述べましたが、言いたいことは、この急斜面でも昔は生活のために切り出されていた知言うことです。徹底的に伐採されていたころがあったのです。現在の石油による生活からは想像できなくなってしまいました。楯跡の調査結果は、今回はいたしません。

 近くでは、今年の締めくくりとして、木枯らしに子孫繁栄を託す準備ができていました。カエデの種子が羽をつけて飛び出そうとしていました。

 調査を終えて、いつものビューポイントで甑岳の雄姿を拝みました。甑岳の山肌に葉はなく、日本海から運ばれてくる舶来の白い化粧品を待っていました。

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晩秋の畑沢 峠からの遠景

2015-11-13 17:56:40 | 自然

 

 ぐずついた天気が続きましたが、ようやく11月12日は秋晴れとなりました。朝の気温が零度に近づいたので、背炙り峠から雲海を眺められるのではないかと期待して出かけました。山形を八時半に出発したのですが、峠に着いたときは既に九時半を回っていました。雲海は広がったとは思うのですが、残念ながら到着するのが遅すぎました。それでも遠く西の方には、葉山が珍しく起伏のある山腹を見せていました。いつもの葉山ですと、遠いので霞んでしまい、べたっとした山腹になるのですが、空気が澄んでくっきりと浮かび上がっていました。写真を見て分からない方もおられると思いますので、説明します。写真の一番左が葉山です。月山は葉山の後ろに隠れています。そして中ほどから少し左側が朝日連峰ですが、雪をかぶっているであろう山頂部は雲の中です。一番左側は、恐らく飯豊連峰だと思うのですが、小さすぎて自信がありません。背炙り峠からは、西と南西方向を眺められます。

 背炙り峠から背中炙り峠方向へ伸びている林道に入ると、今度は北西方向に鳥海山が見えました。畑沢の集落からは見えないのですが、高い所に上ると鳥海山はよく見えます。小学校時代もよくスキーで山へ登り、幼友達と眺めたものです。鳥海山は二千メートル以上の独立峰なので、私でも一度、教えられると覚えてしまいました。雪をかぶった山頂部が雲を突き破って顔を出しています。

 

 北と北東方向には、神室連峰と奥羽山系が見えました。中段に見える集落は、畑沢です。ここから清水畑、上畑沢、中畑沢、下畑沢と畑沢全体が見渡せます。

 頭上でコッコッ、コココココっと音がしました。音の方向を見ると、啄木鳥が木を嘴でつついていました。山には楢枯れで朽ちた木が沢山あります。その中に潜んでいる虫を探しています。畑沢で啄木鳥が木をつついている音は聞いたことがありましたが、畑沢で姿をみたことはありませんでした。喜び勇んでカメラを向けました。自分では上手く撮ったつもりでしたが、少しブレがありました。啄木鳥の動きが早すぎたのか、手ぶれなのかは分かりません。

 ところで、この啄木鳥は図鑑で調べたところ、アカゲラであることが分かりました。

 楢枯れによる特異な現象は、今年も続いていました。キノコが沢山、朽ち木に生えています。左がムキタケで、右がツキヨタケです。ツキヨタケは幅が20cmぐらいもある大きなキノコで、皆さんも御存知の毒キノコです。よくツキヨタケをムキタケと間違えて食べて、食中毒になっています。私は両種の違いがよく分かりませんので、一人では採りません。教えてくれる人と一緒に採集します。

     

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新たに石の祠(石祠)を発見

2015-11-09 20:48:57 | 歴史

 千鳥川を調査して帰ろうと林道を歩いていたところ、遠くで夕日を受けて白く輝く角ばった物体が見えました。道路から外れて近づくと、祠であることが分かりました。郷土史などに何の記録もありませんし、村の人から聞いたこともない石祠です。紅葉の中に佇(たたず)む祠は、「森の精霊が宿る小さな家」にも見え、夕日を浴びて光っている様子は、神々しくもあります。


 右側の祠は肌理(きめ)の細かい凝灰岩から作られています。部屋に当たる前面には格子状の模様があります。何らかの神様を意味するものなのか、それとも扉のようなものを意味するものなのかは分かりません。この祠の右の側面には、「大正十五年 旧八月」と刻まれていました。この年月は何を意味するのでしょうか。この祠の近くには、人家がありましたが、数十年前に尾花沢市の外に引っ越されました。この祠はその家だけの祠のようです。私が聞いた話では、ここにあった家は昔、下畑沢からこの場所(清水畑の南端)へ引っ越したとのことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し話が脱線しますが、昔、下畑沢から清水畑の奥へ引っ越しをした家がニ軒あったそうです。沼沢へ一軒、宝沢の入り口に一軒で、どちらも一軒家です。ニ軒とも下畑沢の徳専寺周辺にあったようですが、明治に入ってから街道が今の県道の位置に変わったために、家が街道から離れてしまいました。街道が変わったために引っ越したのか、それともほかに理由があったのかは分かりません。

 ところで、この祠を発見したことによって、気づいたことがあります。沼沢にあった祠の所有者も、引っ越した家だったということです。沼沢の祠には「明治三十年七月二十六日」と刻まれていました。引っ越しをするというのは、大きな期待がある一方、大きな不安も背負っていたはずです。不安を払拭して家内安全を祈願する「神様や仏さま」が必要だったのでしょう。刻まれた年月は、その場所に引越した年月を記したものでしょう。そして、引っ越す前の下畑沢に家があった時は、荒屋敷の稲荷神社が守り神だったのでしょうが、そこから遠く離れて守り神がなくなったので、自分で守り神を祀ったものと思われます。昔は必ず守り神があったというよりも、必要だったようです。くどい様ですが、向かい地区は熊野神社、荒屋敷は稲荷神社、中畑沢は稲荷神社、上畑沢は地蔵堂がそれぞれの地区の守り神でした。

 

 さて、本題へ戻ります。左の祠は凝灰岩ですが、右の祠とは大分、性質が異なる凝灰岩です。粒子が粗くて表面に小さな窪みが沢山あります。畑沢の凝灰岩ではなく、楯岡で産する凝灰岩に似ています。この祠の右側面にも年月が刻まれていました。表面が大分、風化していますので、文字もかなり分かりずらくなっていました。しかし、右側の祠で年月を読み取れた「大正十五年」という先入観を持って読んでみましたところ、「大正十▢年」であるようです。「▢」のところは、いかなる先入観でも読み取れませんでした。それでも、「五」であろうことは想像できます。

 

 二つの祠の周囲はきれいに草刈りされていて、新しい蝋燭も供えてありました。遠くへ引っ越されても時々、故郷に帰られてお詣りされているようです。今でも立派な家の「守り神」です。

 

 祠がある場所には、椿の木があります。神聖な場所には必ずこの木が植えられています。木の種類はユキツバキのようです。この時期には花がなくて葉しかありませんので、断定できかねるところがありますが、畑沢で昔から植えられている様子を見ると、まず間違いないかと思います。祠を持っている家は畑沢では四軒あり、そのどこの家でもユキツバキが植えられています。祠の近くに必ず植えられたもののようです。

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