-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢での一仕事を完了して、ゆっくり

2018-10-25 19:21:57 | 近況報告

 畑沢の実家でペンキ塗りを開始して、既に三日も作業したのですが、天候に恵まれなかったことや危険な場所であることが災いして、作業が遅れていました。平成30年10月25日は快晴となり、ペンキ塗りを完了すべく山形から勇んで出かけました。などと言うと、真面目に仕事をやる様に見えますが、実は元々が真面目な性格ではありませんので、行く途中からの道草です。この日から尾花沢の「清風・芭蕉歴史資料館」で庚申信仰の展示が始まりました。大分前から楽しみにしていたものです。しかも、展示を企画なさった方は、私が畑沢の石仏等を調査する時に指導して下さった方です。尾花沢市内の石仏800体近くを調べたというのですから、大したものです。展示の概要は、次のチラシを御覧ください。

 展示のテーマになっている庚申信仰に関する石仏は、「庚申塔」や「青面金剛王」の文字を刻んだもの、「青面金剛」の像です。畑沢にも庚申塔が3体と青面金剛像が1体あります。しかし、他の地区には畑沢では見られない石仏もあり、他地区と比較すると面白さが増します。庚申信仰以外の石仏の展示もあり、その中で畑沢の如意輪観音の説明がありました。説明文に「朱漆が塗られていた‥‥」の文字が見られ、さすがは専門家の観察が深いことに感心しました。

 

 資料館を見学して、畑沢でのペンキ塗りを完了したのが午後2時半ごろでした。しばらく休んでから背炙り峠を通っての帰路につきました。かなり明るい時間帯でしたので、いつも以上に道草が多くなってしまいました。そう言えば、今年は一回も古道と楯跡に行っていません。せめて写真だけでもと、古道の峠(背中炙り峠)を下から写してみました。下の写真の杉が先がちょこんと見える場所が峠です。直ぐ近くにあるのですが、直線コースで登ろうとしても、急峻な崖に進行を妨げます。まず無理です。

 私たちが歩いてこの道を村山市方向へ行った頃は、途中の湧水で喉を潤していました。自動車で通ると、喉が渇きません。湧水を飲む機会が減りました。

 落ち葉が湧き水の所に溜まっていました。よくもこんなに積もったものです。けっして、私が詰め込んだものではありません。

 久しぶりに落ち葉を掻き出してきました。そのAFTER写真が次です。まだ、水が濁っています。

 いつもはビューポイントから写真を撮っていますが、ビューポイントを写真に撮りました。道路が左から右に向かって降りて行き、急に曲がっているところがビューポイントです。尾根になっていますので、カーブの外側が急な斜面です。下側に中沢地区の棚田か広がって見えます。砂利道だったころは、急カーブで急ブレーキをかけても、そのままカーブの外へ飛び出す事故が何度も発生しました。しかも、当時は木を伐採していましたので、かなり下まで転落しました。今は事故が発生していないようです。

 中央から少し右寄りに聳えているのが、甑岳(こしきたけ)です。江戸時代は山岳信仰の対象となり、多くの信者が参詣したと聞いています。

 今度はビューポイントからの写真です。この日、残念ながら逆光でした。最悪の状態でしたが、どうしてもお見せしたいものがありました。水田は殆んど刈り取られていますが、山際のなどに綿を被ったように白い所があちこちに見えます。よく見ると、萱の穂でした。元々は水田だったのですが、耕作を諦めた結果、萱に覆われたのです。昔は萱が生えている場所も「萱畑(かやばたけ)」と呼んでいました。萱は萱葺屋根の大事な材料になり、価値がありました。今、萱は使われませんので、「萱畑」とも呼ばれなくなりました。

 

 萱を近くから見た写真です。珍しいものではありません。ありすぎるくらいに生えています。遠くに見える山は大平山です。畑沢で桂葉(かつらぱ)と呼んでいる方向です。

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秋晴れじゃあ 獣も

2018-10-18 12:10:13 | 近況報告

 平成30年10月18日(木)、快晴になりました。10月初めから畑沢の小屋をペンキ塗りをしているのですが、疲れと信用できない天気が続いていましたので、ペンキ塗り再開の機会を待っていたところにこの上天気です。勇んで山形を出発しました。夜中から晴れていたようで、山形でも放射冷却現象により、今季、最低気温を記録していました。それではと、背炙り峠での雲海を期待していました。やはり朝早くは里を霧が覆っていたようで、峠に近づいても低く垂れこめた霧が残っていました。しかし、雲海には時間的に遅かったようです。峠路を登り棚田のビューポイントに出ると、眼下に中沢地区の景色が広がります。さすがに、この時期になると稲は刈られていました。

 下の写真の左上に大朝日が雲から顔を出しているのですが、分かりますか。心の目で見つめてください。見えるような気になってきますよ。見つけて下さい。

 

 ところが、ビューポイントから5m程北側の崖に、道路から家屋の廃材が不法投棄されていました。周囲の葛の上にばら蒔かれた様子を見ると、最近の犯行のようです。玄関の柱、農業用の黒いシート、沢山のベニヤ板などが散乱しています。とんでもない行為です。昔からこの山道には多くの不法投棄がありました。どれも同じように家屋の解体や、引っ越し時に出て来る廃棄物のようでした。常連の業者がいるようです。その場で村山市役所の不法投棄を担当している部署へ、報告しました。市役所は直ぐに監視を担当している職員と連絡をとって下ったようです。5分も経たないうちに電話を下さり、「一週間前に監視担当職員が発見し、投棄者の手がかりを探したが、見つからなかった。市では近いうちに撤去作業をする」と話してくれました。さすが村山市役所の対応です。そして、手がかりを残さない不法投棄者の手口が手慣れた感じです。

 

 畑沢集落内のビューポイントは、ここです。荒屋敷地区と遠くに最上町の禿岳が美しい場所です。素晴らしい天気と景色に誘われたのか、猪も出てきました。下の写真を撮る前、二階の屋根でペンキ塗りをしていた時に、刈られた田んぼの中に黒っぽい二つの陰が見えました。柴犬より少し大きくてコロッとした形の物体が、チョコチョコと動き回っています。一瞬、熊かと思いましたが、直ぐに猪であろうと訂正しました。まだ、成獣ではないようです。しかし、夜に猪が出てきて困っているという話を聞いていましたが、まさかお天道様の真ん前に出て来るとはいい度胸です。完全に人様を舐めています。なにしろ、獣の姿は見えるのですが、人の姿が見えません。屋根の上からでは、さすがの私も手を出せません。大声を出し両手を強く打って脅しました。これぐらいしかできません。ただ正直なところ、生まれて初めて猪を見た嬉しさも少しありました。


 この時期、午後4時を過ぎるとかなり暗くなってきます。ペンキ塗りが残っていたのですが、安全第一です。怪我をしないうちに作業を中止して、帰路につきました。帰りも背炙り峠です。峠の写真は、いつも棚田のヒューポイントか峠から村山市を見た光景でしたので、たまには、峠そのものを撮ってみたくなりました。下の写真は畑沢から峠である切通しの場所です。明治時代にここに新しい道が切り開かれる前も、鞍部となっていたようです。もしも、楯の堀切を作るとすれば、絶好の場所だったことでしょう。私の素人考えでは、「ここに堀切があったに違いない。いやあったはずだ」となっています。ほんとかな。ところで、この道から左に林道があり、楯跡や古道へ至ることが出来ます。

 

 その場所で振り返って畑沢方向の空を見上げました。半月が出ています。集落よりも幾分だけ標高が高いからでしょうか、すっきり見えるような気がします。私は確証がなくても、「気がします」で済ませます。

 

 さらにその場所で、畑沢方向の北側遠方です。私の好きな最上町の禿岳を拡大しました。撮影時に気付かなかったのですが、投稿しよう写真を見つめていると、写真中央の山が野辺沢城があった「通称 お城山」に似ています。国土地理院のWEB版で確認すると、方向には間違いありません。「背中炙り峠」を通る古道からは見えないのですが、背炙り峠を通る自動車道路上からは、かくも明確に全体が見えるようです。新発見です。背中炙り峠の楯では、野辺沢城をこの方角から確認できたのです。

 

 峠の上から村山市の方向です。平野部の右寄りに最上川が三日月状に左右に折れ曲がっています。東根市と河北町の境あたりです。最上川は置賜地区と村山地区の平坦部で何度も蛇行しています。比較的、直線的に流れるのは、白鷹町から朝日町の間と戸沢村地内の山に挟まれた区間です。

 この峠から村山市中沢地内へ下っている時、再び獣さんが登場しました。今度はぐっと小さい獣です。狸か狐か猪かと考えましたが、分かりません。ただ、大きさが野兎程度だったことと、「コロコロの丸い形」でしたので、きっと野兎だったのでしょう。まだまだ雪が積もっていませんので、冬毛に着替えていません。 それにしても、この日は、二匹一緒の獣に縁があったようです。「天気がよかったから」が理由でしょうか。

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片面印刷しかできない機種で両面印刷(技術編)

2018-10-17 12:30:00 | 近況報告

 平成30年7月31日付で、それまでgooブログに投稿した内容のうちの一部をまとめて本にすることにしました。ところが、年金頼りの乏しい財布からは印刷・製本を専門業者にお願いするお金を出すことが出来ませんでした。

 そこで、自宅のプリンターで印刷することにしたのですが、大問題が発生しました。

 所有しているプリンは、ブラザーDCP-J137Nです。3、4年前にプリンター購入を検討している時に、店頭にあった説明書きの「両面印刷可能」を気に入りました。そして、何よりも気に入ったのは、数多ある機種の中で最も安価だったのです。「安価」に引かれる性格です。しかも、黒インクが顔料系だったことです。水に濡れても流れません。

 しかし、購入してから、いざ両面印刷しようと説明書を見ると、

① 先ず奇数順番だけを印刷する。

② それを手でプリンターから出す。

③ 片側を印刷した紙の方向を確認しながら、トレイに入れる。

④ プリンターをスタートさせる。

となっていました。つまり、両面印刷できないのです。手作業で裏表を別々に印刷すると、両面に印刷できるということだったようです。手間がかかりますが、両面印刷できるならしょうがないかなと思いました。

 ところが、問題はその次です。表面を印刷して裏側印刷していると、しばしば複数枚が機械の中に巻き込まれてしまいます。その結果、表裏のページ番号がつながらなくなります。年賀状の印刷なら問題ないのですが、本を作るとなると、まったく役に立たなくなります。複数枚が巻き込まれないように片側の印刷した用紙を一枚一枚アイロンをかけてみましたが、大した効果がありませんでした。

 それでは、片側の印刷を終了したならば、一枚ずつ手差ししようと説明書を見ても、手差しの説明がありません。手差しできないのです。それで諦める私ではありません。手差しできるように機械を改良しようと考えて、プリンターの後ろを開けてみました。残念、手差しできるような構造ではありません。諦めました。

 ならば、用紙トレイを改良するしかありません。トレイの上に付いている印刷済みの用紙を受けるトレイを外しました。「外す」と言っても、メーカーは、ユーザーがトレイを「外す」ことを前提にしていませんので、簡単には外せません。しかし、製品を組み立てたはずですから組立の逆の工程を辿れば外せるはずです。蛇のようなしつこい観察と試行錯誤を重ねると、やはり外せました。ちょっとした工夫を見破る力が必要です。丁度、知恵の輪に似ています。その力の原動力は、「金がないから、やるしかない」という背水の陣に挑む覚悟です。

 次に葉書と印画紙のトレイを外すのですが、この時ばかりは「力づく」という技術も必要でした。不本意ですが、しょうがありません。

 次の写真は、片側を印刷して裏側を印刷している手差し風景です。この機種で両面印刷するにはこの方法しかないようです。

 一冊分ずつ印刷して、現在、24冊を完成しました。畑沢には8月10日に10冊、その他の関係者等に13冊置いてきました。出来損ないの一冊は私の手元にあります。

 

 

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徳良湖畔で尾花沢市のそば祭り

2018-10-14 19:04:34 | 近況報告

 平成30年10月14日(日)は尾花沢市のそば祭りでした。昨年、たまたま、そば祭りの存在を知って参加したところ、美味しいこと限りなし。そこで、今年も参加してきました。

 参加申し込みは、JAFのホームページで行いました。二口分をお願いしたので、二人分と思っていたのですが、なんと、一口が二人分でした。従って、合計四人分を申し込んでいたのです。妻と二人で四人分は無理かと思い、何方かに唯でお譲りしようかとも考えましたが、チケット販売場の前でそんなことをすれば、営業妨害してしうのではと思い、頑張って私が三人分を食べました。かなりの量でしたが、美味しいので、するするとお腹に収まりました。畑沢で採れたソバもあったはずです。

 

 会場では、花笠踊りなどのアトラクションとチェロの演奏がありました。この方の演奏は3回目ですが、今年も聞けるのではないかと期待ていただけに、嬉しい登場でした。

 

 徳良湖周辺も見物してきました。会場から東方向に翁山、双ツ森が見えます。どちらにも登ったことがありません。いつの日にか願いを叶えたい山です。

 

 徳良湖の南岸方向です。写真左の林は松林で、常盤中学校時代はここで芋煮会が行われました。

 

 逆に北岸です。かつてはここにお店があり、貸しボートもありました。

 

 北岸に釣り人の姿がポツンポツンと見えました。すべてヘラブナを狙っています。子どもたちの姿を全く見ることが出来なくなりました。ギンブナ、オイカワ、メダカなどがいなくなったからです。昨年、溜池の保守点検に合わせて、大規模なブラックバス駆除作業が行われました。その時に見た魚の大部分が大きなヘラブナと鯉でした。たまに在来種のナマズがいましたが、他のモツゴやムギツクは本来、山形県にいなかった魚種です。在来種は殆んどいませんでした。何度も釣り対象の魚が放流された際に、国内移入種が入って̪、在来種はほぼいなくなりました。もう子どもたちが釣り遊びする水面ではなくなりました。釣り道具などの釣り業界の儲けになる魚種が占めてしまいました。残念です。 


 沖に一本の棒が立っている船が見えましたので、望遠で撮りました。なんと、ヨットです。まるでヨットハーバーみたいな光景です。まさか徳良湖で見られるとは思いませんでした。ここまで運搬するのは大変だったでしょうし、お金もかかったことでしょう。ところで、ヨットは簡単に移動できないということは、いつも置きっぱなしということになります。はて、「私物をおきっぱなしするは、問題にならないのかなあ」と貧乏人は心配です。

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畑沢に残る姓(名字・苗字)の考察 【その5】

2018-10-14 09:55:06 | 歴史

(5) 有路家系譜で見る有路姓

 楯岡高校社会部が発行した「郷土Ⅱ」には有路源右衛門家に残された「有路家系譜」が記載されています。

路家系譜

抑当家曩祖有路某平行昌延澤遠江守平康満祖長義之臣 長義者其先紀伊国乃産也英雄而其志於武者修行某先祖行昌同郷之勇士与長義倶学兵術相伴而出国矣往々陪従於諸国於相模川之渡長義忘草履行昌自得之奉 長義従是有君臣約数代忠勤家也然而長義為羽州延沢城主行昌相従而為股肱之臣天正年中役山形城主源義光公之因招属旗下到此而延沢氏最上氏共滅亡依之当家の先祖為漂泊号有路但馬男三四郎猶昌二歳而孤也外叉里見蔵人者養育之成長而有路治郎右衛門為養子然治郎右衛門実子出生故慶安元年中新造家宅而住居畑沢是以為当家中興之祖矣

昌昂撰之

 (以下を省略しました。)

―現代語訳―

 有路家系譜

 そもそも当家の先祖である有路何某の平行昌は、延澤遠江守平康満の先祖である長義の家臣であった。長義は、先祖を紀伊の国とし、英雄にして武者修行を志した。同郷の勇士である行昌も、長義とともに兵術を学びに相伴なって出国した。道々を諸国へ付き従い、相模川の渡しに差し掛かった時に、長義が草履を忘れたので、行昌は自分の物を長義へ差し出した。これ以来、君臣の約束をし、有路は数代にわたって忠勤した家である。こうして長義は羽州延沢城主となり、行昌は相従って股肱の臣となった。

 天正年間に、延澤氏は山形城主の源義光公(最上義光)からの招きによってその配下となった。ここに至って延沢家と最上家がともに滅亡したために、当家の先祖は漂泊となった。有路但馬の息子である三四郎猶昌は二歳の時に独り残され、外戚の里見蔵人が養育した。成長して有路治郎右衛門の養子となった。しかし、やがて治郎右衛門に実子が生まれたので、慶安元年(1648年)に家を新造して畑沢に住むことになった。これを以て当家の中興の祖とするものである。

昌昂がこれを書いた。


 この部分については、郷土Ⅱに印刷の乱れがあったので、最後の方の文言の順序を変えました。私の現代語訳はかなり怪しいのですが、大筋はこんなものでしょう。これは、有路家系譜は有路源右衛門家に残されていた古文書で、野辺沢家の筆頭家老であった有路但馬の息子が畑沢へ定着した経緯が書かれたものです。有路但馬は笹原岩見とともに、野辺沢能登守と野辺沢遠江守に従って活躍しました。その有路但馬の息子である有路猶昌が、畑沢の有路姓の元になったことを推測させる資料です。しかし、有路但馬の子孫については謎が多く、そのことは平成30年8月29日に投稿した「畑沢の謎を解くために堺田へ」に書いてありますので、参照してください。

 

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