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-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢の積雪は2m超えだそうです。

2019-01-28 17:55:36 | 近況報告

 毎日、NHKテレビの連動データで、尾花沢市の積雪量を確認しています。先週ごろから積雪量が増え始めたので、平成31年1月27日(日)に畑沢へ雪降ろしに出かけました。雪降ろしは、絶対に一人だけでしないように注意の呼びかけが行われていますが、小規模であることと屋根の下に十分に雪が積もっているので、私の場合は全く危険がない状態で作業をできます。ただし、前回の雪降ろしの様に屋根から滑り落ちることはあります。でも、実質的な落下距離は、2階の屋根であっても大したものでありませんし、落下した場所には大量の雪があり、ショックを吸収してくれます。それでも常に注意を怠らないことは必要です。気の緩みが思わぬ事故につながります。私の場合の注意方法は、「無理をしないこと」です。特に疲れるほどに頑張ると、体が思うように動かなくなります。バランスが崩れます。

 まあ、御託はその程度にします。尾花沢を廻って古殿、車段、九日町、荒町を過ぎ、朧気川に架かっている松母橋を渡ります。でも、ここでいつも渡る前に道草をします。家並みが途切れると、遠くのいろんな景色が開けます。橋の手前に車を停め、ヘボカメラマンになります。

 橋の上から東南方向です。朧気川の両岸に雪が積もって、無積雪期よりも川幅が狭く見え、小さな小川のようです。遠くに見える山は、御堂森から細野の集落方向に伸びている尾根の途中が高くなっている場所です。山の名前は分かりません。細野の方は御存じだと思いますので、コメント欄で教えてください。その山の麓に近い所にスキー場の様な白い帯状の景色が見えます。細野地区のワラビ園だそうです。細野地区では、昔から地域全体で振興策を各種やってきました。積雪時期ならスキーもできそうです。3月下旬から4月上旬までの堅雪(かたゆき)なら面白いと思うのですが、いかがでしょう。

 

 反対側の風景は、人を寄せ付けない大絶壁です。雪が降っても大人しく積み重なることなく、絶壁を雪崩となって崩れ落ちます。山の裾は雪崩が積み重なっています。この大絶壁は、固い地層が傾斜しており、そこを千鳥川が浸食してできました。この頂上に登りたいと思っていますが、直登は無理なようで、40年程前に迂回して登りました。常に安易な道を歩きます。

 

 橋の上での撮影を終えて、いざ畑沢へと向かったのですが、天気が良いと、ついさらなる道草をしてしまいます。松母の林の中に入る手前が明るくなっています。杉が伐採されたようです。秋に伐採しているところを通ったことがありましたが、あらためて伐採した跡をしげしげと見ました。「おっかない松母」が「明るい松母」に変わったかのようです。まだ奥にも杉林がありますので、完全に明るくなった訳ではありません。それでも明るい事はいい事です。

 

 畑沢の中では、電柱に気を取られました。ここだけ電柱の上に厚ぼったいベレー帽を被っています。今回の雪は付着しやすい湿った雪でした。何度も降った雪が層になっています。

 

 さて、肝心な雪降ろしです。ようやく雪降ろしの現場に着いたのですが、道路の脇に除雪車が築いた約4mの壁が立ちはだかっています。この一角を崩して中に入ります。

 雪降ろしをする前に、道路の壁を破り、小屋の中に入ってから薪ストーブ煙突の大量の煤を除去し、ついでに昼食を済ませてから雪降ろし作業を始めました。実に呑気な雪降ろしです。雪降ろしは、一時間もかかりません。簡単です。気儘に、休み休み、景色を眺め、ついでに通行人とおしゃべりしながらです。屋根の上からの会話ですので、正に「上から目線」になります。失礼ながらもしょうがありません。その会話の中で、こんな話をお聞きしました。

「今年は雪が多い」

「除雪車などの影響がない所に、積雪量が分かるように棒を立てている」

「去年は1m80cmだったが、今年は同じ時期で2mを超えていた」

ということでした。そう言えば、道路わきの壁がいつもより高いようです。

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頭のテッペンにチクリ 痛かったー

2019-01-24 19:52:26 | 思い出

 下の写真は今から約40年前のスズメバチの巣です。私の実家にぶら下がっていました。しかし、只ぶら下がっていたわけではありません。

 私の頭に毒針を射し込んだ憎き暴力団です。私とスズメバチは、私が巣の下を通っても、春や夏の間、極めて平和友好的な関係を維持してきたのですが、秋が深まっていつものように巣の下を通ったら、急に頭頂部に激痛が走りました。ブーンと羽音もありました。スズメバチが攻撃したのです。

 あんなに平和共存してきたのに、私には珍しいくらいに「スズメバチいじめ」をしなかったのに、宣戦布告もなかったのに、にもかかわらず一方的な攻撃でした。スズメバチは秋になると性悪になり、少しでも巣に近づく者があれば敵とみなして攻撃します。そうだった、もう秋になっていたのです。迂闊(うかつ)でした。

 確かに自然の摂理ですので、諦めるべきです。しかし、「スズメバチいじめ」していた頃の論理が頭に蘇(よみが)りました。最近、世界的に流行っている「報復措置」です。世界で行っている「報復措置」は、人の命を平気で奪います。私のそれは、スズメバチの命を奪いますので、まだ‥‥。ん?、でも似ています。恥ずかしい限りです。

 さて、どうしてやろうか。火を着けたいが家までもが燃えてしまいます。ならば昔、鳴らした2B弾を発射をしたいのですが、もうそんな危険な物は売っていません。殺虫剤攻撃しようにも、当時は遠方への噴射する能力がありません。悔しくて、悔しくてどうしようもない気持ちでカメラを向けました。


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「畑沢の記録」に消防に関する記録がありました。

2019-01-22 14:37:45 | 歴史

 有路慶次郎氏の「畑沢の記録」昭和33年)に畑沢の消防に関する次の記述部分がありました。

(動力消防ポンプ)

 昭和三十二年‥‥‥。同三十二年、動力ポンプ購入、区長‥‥、消防分団長‥‥。小型動力ポンプであるが性能は充分ある由、から大金二十万円を出して町当局から十七万円程であった。

 

 昭和32年に動力ポンプになったということは、それまでは動力ポンプではなかったことになります。それまでの消防ポンプは「手押しポンプ」だったのでしょう。手押しポンプについては、5年ほど前に亡くなった大戸H氏から話を聞いた事があります。

「畑沢には龍吐水という消防ポンプがあった。そのポンプを冬に運搬するときは、橇(そり)を使った」

「その橇は、今、背中炙り峠にある湯殿山を運んだ時に使ったものだ」

 因みに背中炙り峠の湯殿山(石仏)は下の写真のことで、嘉永五年に造立されたものです。畑沢村の村人全員が標高差約二百mもの坂を上に運びました。台座を含めると約2m30cmもあり、私の小さな自家用車よりも重いものです。


 そして、龍吐水とは下の写真のような消防ポンプで、手押しして使います。写真のものは、山形県内のある地区の物ですが、リサイクルショップに展示されていました。地区名が書かれてありましたが、写真を処理して消去しました。畑沢の龍吐水がどんなものであったかは分かりませんが、もしかしたら赤いペンキで塗装されていたかもしれません。と申しますのは、私が小さい時に物置の天井に消防ポンプが下げられていて、それが赤かったからです。その消防ポンプが果たして畑沢で使った物かは確かめていませんでしたが、父の収集癖で廃棄する時に譲り受けた可能性があります。一度も動かしたことがないままに、やがてボロクズ屋に売り払っていました。


 父は本体を売り払ったわけですが、「竜の口」部分が残されています。水の噴出孔は僅か径1cm程度で、お淑やかなおちょぼ口の龍です。写真の管は曲がっていますが、小さい時に私が遊んで、曲げてからです。「良い子」ではなかったようです。


 おちょぼ口の嘴は管部分から外すことが出来ます。全く錆びていないことと金属の色から察するに、真鍮製だろうと思います。

 ズック製のホースと接続する部分は、太くなっています。直接ホースに接続するのではなくて、恐らくコネクターがあったのでしょう。


 はて、本題から大分、外れてしまったようです。何の話だったのでしょう。そうですね、動力消防ポンプの話でした。今はどんな消防ポンプでしょうか。


 昭和32年ころは、消防ポンプの経費は、原則、地元負担だったのですが、今はあくまでも自治体の負担とすべきものになっています。でも、今でも消防団へ地元から多額の補助金を出さなければならないようで、困ったものです。特に畑沢は戸数が極端に少ないので、一戸当たりの負担金が尋常ではないようです。消防という地方公共団体の会計に係ることが、そのようなことでまかり通っている不思議な話です。

 また、話が反れてきましたので、今日はこの辺で終わりにいたします。

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有路慶次郎氏の「畑沢の記録」から堀切に因んだ地名を紹介します。

2019-01-21 20:37:06 | 歴史

 二人の先輩が畑沢に関わる郷土史を著しました。一人目が昭和2年に「郷土史之研究」を書かれた青井法善氏で、二人目は昭和33年に「畑沢の記録」を書かれた有路慶次郎氏です。両書は、その後の郷土史研究のベースとなり、昭和41年に尾花沢高等学校郷土研究部が発行した「尾花沢伝説集」や、昭和46年に楯岡高等学校が発行した「郷土 第二」の主要な資料になりました。

 「郷土史之研究」については、これまで何回かブログで取り上げて紹介してきましたので、今回は「畑沢の記録」から一つ地名のことを取り上げます。

 畑沢の南端にある「背中炙り峠の楯」に因んだ地名の伝説が残されています。「一の切」「二の切」「三の切」「小三郎」「平三朗」「又五郎」です。このうち、「一の切」「二の切」「三の切」は、楯跡の中にある堀切(ほりきり)がある沢(谷)のですが、「畑沢の記録」に引用されている古文書を見ると、昔は別の名前になっていたようです。


 先ず、その一つは延享四年(西暦1747年)の「質物に相渡申由地之事」に次の内容がありました。


一、新田 有所 二の堀切 稲百拾束苅

 

 二つ目の古文書は慶応元年(西暦1865年)の「乍恐以書付願書ニ而奏願上候」の次の部分です。


‥年之示談ニ基キ字上論田、中論田、下論田、深沢向、三ノ堀切、二ノ堀切、平三郎、背中炙上、立石山

 

 つまり、幕末ごろまでは明らかに、「一ノ堀切」二ノ堀切」「三ノ堀切」のように「切」だけでなく「堀切」という文字が入っていました。これだと堀切に因んだ地名であることが直ぐに分かります。江戸時代はずっと「堀切」の文字が入った地名でしたので、村人は楯跡の「堀切」の存在も知っていたことになります。

 しかし、昭和33年の「畑沢の記録」では有路慶次郎氏は「二ノ切」の表現を使っていますし、私も父親から「一の切」「二の切」「三の切」と教わりました。地名から「堀切」の文字が消えるとともに、楯跡の存在を知っている人は極、限られるようになりました。

 

【現在の二の切】 

地形を見ると昔は水田だったことが分かりますが、今は耕作放棄され萱に覆われています。


【二の切】から楯の主郭跡方向を仰いだ写真です。

 

 【三の切】 昭和25年に沢の奥深くまで林道が切られました。

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積もった。登った。滑った。落ちた。終わった。

2019-01-05 17:30:21 | 近況報告

 年が明ける前に、一度、大量に積もった後で、降雪がなく次第に雪が萎んだのですが、年が改まってから再び積もり出しました。年末に姉夫婦が雪降ろしをしてから暫く経って、平成31年1月5日に今度は私も一緒に雪降ろしをしました。私にとっては今冬はじめての雪降ろしです。積もった雪は、例年どおりです。

 雪降ろしをするのは二階の屋根です。平屋建ての場合の屋根なら大した高さではないのですが、二階の屋根に地面から梯子を架けると、高所恐怖症の私には正に「恐怖」です。それでも、中学校時代からこの屋根の雪降ろしの主役は私でした。「すびたれ野郎」とか「へやみ」などと親は口では言っていながらも、いろんな面で頼りにしていたようです。私は本当は「褒められると伸びる」タイプなのですが、当時、何処の家でも家庭教育は「叱る」ことでした。

 いくら雪が積もったと言っても、今年は例年よりもずっと少ないので、梯子の高さが尋常ではありません。慎重に慎重に梯子を這うように登り、さらに梯子から屋根に乗り移る時もより慎重さが要求されます。屋根程度の高さですが、地面よりは遥かに良い眺望です。秋に二頭の猪を目撃した場所を眺めてみました。しかし、簡単に現れるものではありません。猪は今年だけ特別に正月を祝っているのでしょう。

 

 幸いにも今回の雪はまとまりやすくて、しかも凍り付いていませんので、比較的楽な作業でした。しかし、一つだけアクシデントがありました。何年振りかに屋根から滑り落ちたのです。昨秋、丁寧に屋根のペンキを塗りました。私にしては珍しく丁寧です。お陰で屋根の滑りが格段に向上していました。さらに零度以上の気温のせいで、雪そのものも滑りやすくなっていました。気を付けて作業をしていたのですが、あっという間に足を取られました。直ぐに長尺トタンの上下に伸びている凸部を掴んだのですが手も滑り、落下を覚悟しました。落下はほんの2秒にも満たない瞬間ですが、その瞬間でも結構な量の判断をしています。手に持っているスコップを落下地点から遠ざけるために、スコップを投げようとしましたが、既に手から離れていたので諦め、スコップの落下地点を確認して自分の安全を確認しました。いよいよ体が地面(正しくは「雪面」)に触れようとした時も、スコップとの位置関係を確認していまた。どうですか、大したものでしょう。何十年も雪降ろしをしていると、この域に達することが出来ます。そこで、再び屋根に登り直して、雪の記念写真を撮りました。下の写真です。

 

 雪降ろしは作業を始めてから1時間とちょっとで終了しました。簡単なものです。昼飯は正月で残った餅を即席ラーメンに入れて食べました。薪ストーブで餅焼きです。私の即席ラーメンにはこだわりがあり、サッポロ一番味噌ラーメンを食べます。

 

 

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