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-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背炙り峠(5) えっ弘法大師も来たの ?

2013-04-28 21:14:15 | 歴史

 やっと探していた背炙り峠の湧き水が見つかりました。私は父親から「不思議なことには峠に水が湧く。弘法水と言う」と教えられたことがあり、一度だけ連れていってもらったような気がしていたのですが、ずっと確認できないままでした。ようやく、この間、雪が融けた斜面から湧きだしている水を見つけました。

 水が湧きだしているところは、峠の地蔵からほんの少しだけ村山市側に降りたところで、岩の崖下でした。手を浸すと刺すように冷たくて、直ぐに手を引いてしまいました。水の味は、何の癖もなく、飲みやすいものでした。山の水は、しばしば腐葉土のにおいがする場合がありますが、この湧き水は、一切そういう臭いがありません。完全に地下を通ってきたものであることが分かります。今は塩ビ管から流れ出していましたが、崖下に崩れ落ちている土砂を払いのければ、岩から湧いている姿を見ることができるでしょう。しかし、毎年土砂に埋まるので、峠の管理行為をしてきた畑沢の人達により、塩ビ管を工夫されたものと思います。水の脇には「水神」と彫られた石が立てられていました。文字の彫りがあまり風化していないので、比較的新しい時代に造られたものと思われます。この峠とこの水を大切にしようとする畑沢の人達の気持ちが伝わってきます。それも自動車道ができて、背炙り古道の役割がなくなってきた今までずっと続いているのです。今後もそうありたいです。

 さて、この湧き水は、尾根からあまり高低差がありません。普通、湧水があるところは、水源となる大きな山塊を背負っているのが普通ですが、この湧き水は水源と考えられる場所があまりにも小さい気がします。そのように不思議な湧水だけに、「弘法大師が杖を地面に突き刺して水を湧かせた」と伝えられ、「弘法水」と言われているのでしょう。全国に伝わる「弘法水」伝説の一つで、残念ながら弘法大師は来ていないでしょう。

 ところで、地形図を見ていると、背炙り峠を含むこの山一帯は、甑岳まで尾根が続いています。甑岳までの途中には、何故か尾根が窪んでいる場所も見られます。「尾根が窪む」というのは中々、普通は考えられません。これも湧き水の不思議さと関係があるのでしょうか。どう思いますか。

 なお、背炙り峠の近くには、外にもいくつかの湧水があります。その一つは、地蔵堂西側の急斜面山腹にあります。岩の間から湧き出していますが、そこへ行くには、野生児の体力が必要です。私はまだ野生児でした。

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背炙り峠(4) 乳母木地蔵

2013-04-26 15:52:02 | 歴史

 

 背炙り古道の峠には、地蔵堂が建っています。畑沢では「背炙り峠のズンド様」又は単に「峠のズンド様」と呼ばれています。この地蔵堂についての文献は、袖崎郷土史研究会が発行した「袖崎の郷土誌(昭和55年発行)」が唯一でした。そこに書かれている内容は、次のとおりです。

1 地蔵堂が建っている地域一帯を「乳母木」といい、「乳母木地蔵」は、これ

 に因んでいること。

2 猿羽根(サバネ)峠、山刀切(ナタギリ)峠の地蔵と並んで「峠の三地蔵」

 と呼ばれていたこと。

3 地蔵堂の別当は、畑沢在住の人だったこと。

4 春の山開きのころは、畑沢から縁結び、安産、子育ての地蔵として

 参拝者が押しかけていたこと。

5 現在のお堂は、昭和42年に建て替えられたもので、それ以前はもっと大き

 な建物だったらしいこと。

 

 以上が文献の内容ですが、地元、畑沢で次のことを聞きました。

1 別当は、大戸○○さんであったが、今は畑沢から転居されたこと。

2 別当は、村山市新山(にやま)の斎藤家も務めており、大戸家と斎藤家は

 1年ごとの交代だったらしいとのこと。

3 地蔵堂一帯は、毎年、スズバタの3軒を中心とした上畑沢の人達によって、

 下刈り、清掃等が行われていたこと。

4 しかし、3年ほど前の作業を最後に、管理作業が困難になって中止してお

 り、再開の目途が立っていないこと。

5 畑沢の前々区長(故人)が、この看板を自費で製作し設置を楽しみにして

 いたこと。

 

 これらのお話をお聞きして、私でもできることを何かしたいと思っています。また、同じようなお気持ちの方がおられます。

 

 ところで、「背炙り峠を訪ねる会」を行います。是非、御参加ください。予約は必要ありません。詳細は後日お知らせしますが、現時点での予定概要は次のとおりです。

 1 実 施 日 平成25年5月12日(日)時刻はこれから調整

 2 集合場所 元の畑沢分校

 3 行動範囲 

   集合場所→背炙り峠(現車道)→林道→背炙り古道→地蔵堂→弘法水(湧水)

 4 呼びかける範囲

   ブログ閲覧者 畑沢に所縁の人 尾花沢市及び村山市の背炙り古道愛好者

   その他興味のある人

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幻になった二枚貝

2013-04-24 15:09:10 | 自然

 

 畑沢祭りがあった4月15日、熊野神社で聞いてみました。

 「この貝 見だごどあっべが」と言って、ある地域で拾ったマツカサガイの貝殻を差し出しました。

すぐさま、「スズラガイだな。んだげど、今は見だごどなえな」

しかも、「ドブガイなどと比べて泥臭くなくて、食べやすかった」そうです。

その人は私よりも若い方です。むむ、「畑沢を遊び切っていない」ことを後悔しました。私は、学校帰りの道草王・野生児としてはまだまだ、未熟だったようです。

 昨日、九日町の出身者とお話しする機会があり、このことが話題になりました。その方も知っていました。三日町と九日町を流れる川に生息していたそうです。スズラガイの「スズ」は、清水または湧水を意味し、スズラガイとは、そのような綺麗な川の小さな砂利混じりの砂地に棲んでいる貝だというのだそうです。きれいな水に棲んでいるので、泥臭くないのです。どうも常盤地区には広く生息していたものかもしれません。今は、尾花沢市内でも珍しく、ある地域にだけ生息しています。

 実は、もう一つ幻になった二枚貝があります。このことは熊野神社に集まった方々も御存じないようでした。かなり稀にしか見つからなかったようです。私の父が生存中に話してくれたことがあります。「昔は、田んぼで、こだな貝へ見だごどあっけ」というのです。手は約30cmを表現していました。また、上畑沢の人から、「小っちゃい時に、荒町の人が、『畑沢にはおっきいカラスガイいるんだどなあ』と言ってだけ」との話を聞いていましたので、常盤地区の中では畑沢に特産していたのかもしれません。この貝は全国的に絶滅しかけており、県内では10年ほど前に村山市内からの報告があっただけです。しかし、県内内陸部にまだ密かに生息していて、その地域の人達によって大事に守られています。畑沢でも守ってやれれば良かったのですが、残念です。

 これらの貝がいなくなったのは、1960年代からの大量な農薬使用、水路のコンクリート化、機械による耕運、水質の悪化等々が原因なのでしょうか。また、貝の幼生期に寄生すべき魚もいなくなったこともあります。幸い、農薬使用が変化し、生き物が少しずつ戻っていますので、この幻の二枚貝も復活させたいですね。皆さんのお力をお貸しください。

 上のスケッチは、海辺の沼で40年以上も前に採集したときのもので、写真は尾花沢市内のある小川で撮影したものです。

 

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背炙り峠(3) -巨大な湯殿山碑 続編-

2013-04-22 20:34:07 | 歴史

 巨大な湯殿山碑について、畑沢には語り継がれたものがありました。上畑沢の古瀬T氏が面白い話をして下さいました。話された内容を大まかにまとめると、次のようになるかと思います。

 ---以下は、古瀬氏のお話です。----

 ヌマサには奥に行くに従って、順に小さな沢に名前が付いている。「小平三郎(こへいざぶろう)」「平三郎」「一の切」「二の切」「三の切」「深沢」、その向かいは「向い」と言う。一番の奥が「ローデン」で、そこから石材が切り出された。今でも切り残した石がある。ゴロウ山のゴロウ石である。石材は、雪の上を橇で運んだ。橇は特別製で、厚さが3寸、長さ7尺の楢材でできている。つい最近まで、畑沢のポンプ小屋に保存されていたはずだ。橇を畑沢の50人で引いた。

 橇で運んでいく途中、立石山(畑沢語でタデスヤマ)の下を通っている時に、斜面から雪崩が落ちてきた。ところが雪崩は橇を避けて、川の方に落ちて行った。雪崩の雪が川に橋を架けたので、橇はその上を通ることができた。

 以上がお話の全容ですが、何分にも現地確認などもしていない聞きかじりのまとめ方ですので、古瀬氏の真意どおりかどうかは自信がありません。しかし、中々、面白いお話をお聞きしました。橇で運搬中に神仏の御加護があったようです。そして、何よりうれしいのは、畑沢には、私たちの世代が知らない「貴重な言い伝えが沢山ありそうだ」ということです。今回は湯殿山碑のことですが、他にもたくさんの言い伝えがありそうです。例えば、畑沢にある「姓」の言い伝えと歴史、地名、今はいなくなった魚や貝類などの生き物、行事、風習等々です。

 本題に戻ります。湯殿山碑の石質は、凝灰岩ではないかと思います。火山灰が固まったものです。楯岡石も凝灰岩ですが、それとは少し違うようです。凝灰岩の中に、頁岩のような大き目の礫が混じっているようです。墓石に使われている堅い花崗岩と比べて、凝灰岩の石碑は劣化が激しく、文字の判読がかなり難しくなっています。設置した年代も分かりませんでした。どなたか早く読んで下さると助かります。ところで、橇を引いた畑沢の50人は、ほぼ全戸に相当します。文献では、江戸時代の畑沢の戸数は、50戸だったようです。

 石材を切り出した場所にも実際に行って見て、確認してみませんか。地図で見ると大きな窪地になっているようで、何とも不思議な場所のようです。

追記

 その後、石碑の設立時期に関する文献が見つかりました。「袖崎の郷土史」によりますと嘉永5年だそうです。西暦1852年です。   

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背炙り峠(2) -巨大な石仏「湯殿山」-

2013-04-21 11:12:22 | 歴史

 背中炙り峠には、巨大な「湯殿山」の石仏があります。

 

 一般に湯殿山は、主に江戸時代に湯殿山参りをするために通る街道に、

道標として各地に建てられたものと思っていましたが、そうではなくて、

湯殿山を信仰の対象として拝むための石仏でした。畑沢だけでなく、銀

山、六沢、延沢、細野等でも見たことがあります。常盤地域では珍しい

ものではないようです。かつて、湯殿山参りは、太平洋側からも続々と

押し寄せ、茨城県辺りからも来ていたようです。宮城県から入る場合に

最も使用したのが、宮城県の軽井沢から上の畑(銀山温泉の奥)に入る街

道で、さらに背中炙り古道に繋がっていたようです。背中炙り古道は、

湯殿山参りの主要道の一つだったそうです。畑沢を大勢の人が通ってい

たことでしょう。畑沢からの古道入口には、茶店があったほどです。

 

 しかし、いくらなんでも巨大な石仏を標高差約200mもある峠まで、ど

ようにして運んだのでしょうか。石仏は、三段の石材で造られていま

すが、その中で最も大きいものは、高さ1.8m、縦横0.7mぐらいはありそ

うです。重量は、2トンはあるでしょうか。とんでもないものをどのよ

うにして運んだのでしょう。

 

 このことに関する文献を探したのですが、全く見つかりませんでした。

ところが、思いがけないところで、その秘密が分かりました。しかも、

面白い話とともに……

 話が長くなりましたので、続きは次回といたします。

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