-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

初めての拓本に挑戦 難しい(石橋供養塔)

2021-11-25 14:22:46 | 歴史

 畑沢には天明八年に建てた「石橋供養塔」があります。天明の大飢饉で窮民となった村人を救うために、畑沢の古瀬吉右衛門が畑沢から尾花沢までの道に橋を架け替えた時の供養塔です。吉右衛門の私財をなげうっての大事業でした。飢饉で飢えた人々に働き口を与えたのです。

 この供養塔には裏側に和歌か短歌のようなものが書かれています。吉右衛門が未来の村人へ伝えようとした文言が書かれているはずと思い、私は読み解こうとしてきたのですが、元々、素養のない私には荷が重い作業でした。それでも少しずつですが、太陽光の射す方向が幸いした時には、下の写真のようにかなり見えることもありました。

 

 令和2年2月8日、寒い日でしたが、百年に一度とも思える無積雪でした。普通の冬なら供養塔はすっぽりと雪に埋もれているのに、この時は供養塔の全体が姿を現していました。ふと、粉雪をかけたらどうだろうと思い、かけてみると文字が白く現れました。粉雪でなく綿雪やザラメ雪なら駄目だったでしょう。偶然が重なった幸運でした。これで一気に解読できる文字が増えました。しかし、それでも供養塔の下部は前日に少しの水分があったらしくて、凍って粉雪が文字の溝に入りません。1行目と2行目の下部は解読不能と諦めました。3行目の下部は、以前に斜めから入った光が文字を浮き上がらせたので、解読済みです。

 

 昨冬も粉雪での拓本に挑戦したくチャンスを待っていましたが、供養塔は雪の中の何所にあるかさえ分からない状態でした。やはり、普通の冬には不可能です。百年間待たなければならない様です。

 そこで、絶対にやりたくないと思っていた「正式な拓本」に挑戦することになれました。そもそも拓本に興味はなく、当然、知識・技術はありません。仕方なくYouTubeで勉強しました。動画の中では手慣れた動きで拓本が出来上がりました。私も出来るような気になって、画材店で拓本用の和紙を取り寄せて準備を整えました。畑沢の区長から拓本作業の許可も頂戴しました。そしてやってみたのが、下の「黒く汚れた紙」です。正直、大失敗です。この供養塔は凝灰岩で、233年の間に風化が著しく表面がザラザラです。初心者の手に負えるものではありません。まだ粉雪の拓本の方がはっきり見えます。それでも1行目の下に「延沢」の文字が解読できました。延沢村の石工がこの供養塔を刻んだことになります。また、その当時も「澤」だけでなく「沢」の文字も使われていたことが分かりました。上手く拓本は採れませんでしたが、それでも大きな収穫です。

 

 これまでの努力で下のように解読できました。石工の名前など読み取れない文字がまだかなりありますが、これが私の限界の様です。吉右衛門の言いたいことは、これで十分に伝わるような気がします。

 ここで拓本初心者のために、私の失敗の原因を挙げます。少しは参考になるのではないかと思います。私のような過ちは絶対なさらないようしてください。

① 和紙を対象物にあてる前に対象物の表面を濡らさなかったこと。対象物に和紙をあててから和紙に霧吹きで水をかけてしまいました。そのために対象物と和紙の間に空気が大量に残り、空気を出し切れない文字もありました。

② 対象物全体の姿も写し採ろうと、供養塔からはみ出る広さの和紙を用いました。はみ出た部分に風があたり、その部分から剥がれて来ました。

③ 墨汁はそれほど必要ないと思って、子どもたちが小学生時代に使った習字道具の墨をすりました。ところが新しく作ったタンポが思いのほかに墨汁を吸って、不足気味になりました。市販の墨汁を十分に準備すべきでした。

 

 なお、拓本専用の物を用いたのは、和紙のみで他は次の自作又は代用品で間に合わせました。

① タンポ 肌理の細かい木綿の布の中に古いタオルを入れました。インターネットで参考となるタンポを探しました。

② ブラシ 和紙の表面を叩く道具です。洗車用の天然毛ブラシ(貰い物)を代用しました。ブラシの先に広がりがなく、ある程度の密の状態が良かったようです。

③ 墨汁 先述のとおり硯の上で墨をすりました。まとまった量を確保できずに失敗の原因となりました。

 

 ところで片栗粉で拓本する方法があるようですが、私は反対です。火山岩で出来ていて、比較的時代の新しい場合は、問題は少ないでしょうが、凝灰岩などの風化が進んで表面がざらざらしている場合は、いくら片栗粉を水で洗い落とそうとしても、微細な窪み嵌ってしまう危険性があります。それを無理してブラシがけなどすると、石仏を傷つける心配があります。和紙の拓本が嫌なら、私と一緒に百年待って粉雪拓本にしましょう。

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更けゆく秋

2021-11-12 20:27:44 | 近況報告

 令和3年11月11日(木)、前回、畑沢に行ったのは10月24日なので、半月以上も経っています。背炙り峠へ向かう途中の村山市中沢のビューポイントから眺める景色は、一段と深まる秋を感じさせました。広葉樹の葉がかなり落ちて、とても紅葉を楽しめる季節ではなくなっていました。空が暗いだけに私の心まで暗ーくなります。

 特に11日前の衆議院総選挙結果を見て将来が暗ーく見えていましたので、特に感じたのかもしれません。いくら空が暗くても、将来に希望を持てれば何とか頑張れるのですが、余りにも納得できない政治体制が続いています。政治の世界だけではありません。先んじて将来のあるべき姿を私たちに指し示す役割を果たすべき学問の府でもみっともない姿をさらけ出しています。日大の度重なる問題が筆頭で、旭川医科大学学長の長期居座りでの専横ぶり、外の有名大学の代表格の方々に関わる問題もありました。我が故郷の山形大学でもハラスメント問題が何度も生じています。世の中が全体的に「力のある者による専横」が目立っています。その専横を事前に咎めるチェックができなくなっているようです。「公正」や「正義」よりも、「保身」「出世」が優先されるほどに「生きにくく」なっているのでしょうか。私は多くを望んではいません。世の中、常に納得できるものではないのですが、少しでも「より良い」世界へ向かっていると感じるところがあればそれだけでいいのです。おっと、久しぶりに脇道に反れました。

 

 ビューポイントから少しだけ登ると、山側の素掘り側溝が落ち葉に隠れていました。道路に大量に積もった落ち葉が雨水で流され、暗渠の入り口に詰まってしまいました。山岳道路では、広大な山側から流れ下る水と山側に傾斜した路面の水は全て山側の側溝に集まります。「街にある側溝」の感覚を山の中に持ってきても通用しません。その点は山岳観光道路や林道での技術は、山特有の状況を的確に捉えています。それらから教えて貰えばいいと思います。

 

 暗ーい心には、甑岳の中腹に屹立する険しい尾根が響きます。落葉により尾根の稜線が浮き出ています。木々のシルエットが寂しさと静けさを醸し出しています。この山、昔、修験の山でもありました。この姿を見ると、納得します。

 

 県道と古道が交叉している場所に、おどろおどろしい木が立っています。幹や枝に白っぽい剛毛が見えます。

 剛毛の正体は、蔦の葉柄です。葉身が葉柄を残して先に落ちてしまい、葉柄だけが幹や枝に残っています。やがて葉柄も落ちます。

 

 峠を越えて畑沢側へ下ると、たった一つのヘアピンカーブがあります。そこには私が小学生の時代から変わらぬ風景があります。小学校の夏休みが終わりに近づくと、7人ほどの良い子が宿題の絵を描くために、峠に登っていました。峠から村山市側の景色を画用紙に描き留めました。これを毎年、繰り替えしました。お陰で小学校時代は、絵の宿題を必ず休み明けに学校へ持っていくことができました。

 この風景の石垣と3本のカラマツが忘れられません。カラマツは当時から見たらかなり成長しているはずですが、昔は小さな体でしたから見上げるほどに大きかったような思い出があります。

 

 これまで、石垣を特に念入りに見ていなかったのですが、あらためて正面から見ると、石の方向と組合せにしっかりとした技術に基づいた工事が行われていたことが分かります。少なく推察してても、90年以上も前に積まれたと思われます。この石材は畑沢にはないので、朧気川か丹生川の安山岩だろうと思います。

 

 

 畑沢で葛などを刈り取って、帰路、再び峠を越えました。稜線が見えると、つい稜線の形が気になります。村山市の中沢地区と新山地区の間に楯跡があるとの話は全くないのですが、下の写真の山の形に「堀切」があるのではないかと疑いました。「怪しい」という気持ちは現場で確かめるしかありません。果たして何時、確かめることができるでしょうか。あちらもこちらも怪しい所だらけです。

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慶長出羽合戦を勉強しにウィークデ―ハイキングへ

2021-11-08 19:18:24 | 歴史

 畑沢には「背中炙り峠の楯跡」が残っていますが、幾つもの謎があります。普通の楯跡と違い、理解し難いものがあるのです。

① 真ん中に道があって、敵が簡単に渡れる堀切(2か所)

② 猫や犬でも跨げるほどに小規模な堀切(3か所)

③ 緩斜面の登り坂が作られて敵が登りやすくしてある切岸(1か所)

④ 作るべきところに作られていない堀切(2か所)、曲輪(2か所)と切岸(2か所)

 この不思議な楯跡については、私が2年前に見学した山形市内の長谷堂城跡と最上義光歴史記念館のお陰で時代的な背景を理解することができました。そして、背中炙り峠の楯の造成が慶長出羽合戦の準備のために行われ、同時期に中止されたことがほぼ間違いないことも分かりました。歴史に詳しい方なら直ぐに分かったのでしょうが、歴史音痴の私にとっては「とんでもない」くらいの脳の働きでした。その頃しばしば頭の中がオーバーヒートして、湯気を立てていました。 

 秀吉の死後、家康が勢力を強めていましたが、上杉景勝が家康に対して反抗的な書状を送ったことを理由に家康は軍を北へ進めました。さらに上杉領の北側からも上杉の侵攻に抗するために、山形へ次表の奥州の武将たちを集めました。総勢1万1千を優に超える軍勢です。それもそのはずで、これらの武将たちの領土の合計は、軽く最上義光のそれを凌(しの)いでいます。この時、義光軍の軍勢の詳しいことは分かっていないそうですが、7千人とも言われています。近隣武将の勢力が如何に大事なものかが分かります。

片桐繁雄/訳編の「最上記」から兵力を拾い説明を加えました。

 山形へ集められた近隣の武将たち

 武将名     軍勢(人)     説  明
南部信濃守利直  5,000   現在の岩手県と青森県の一部を領していた。
秋田藤太郎    2,650   現在の秋田県北半分を領していた。
戸沢九郎五郎   2,200   当時は現在の秋田県の中央部を領していたが、最上家改易後に新庄藩を領した。
本堂孫七郎    400   現在の秋田県の旧由利郡一帯の主要な豪族たち。
六郷兵庫       300     〃
赤尾津孫次郎   200     〃
仁加保兵庫    185     〃
滝沢刑部     110     〃
内越孫太郎    60余    〃
岩谷右兵衛      40

 ところが石田三成が挙兵したと聞くと、家康は会津への進行を停止して引き返してしまいました。すると伊達政宗軍も既に上杉領の二つの城を攻め落とすなどして勝ち戦を進めていましたが、すぐさま上杉と和睦を結んでしまいました。さらに家康の求めで最上義光の下に集結していた近隣の武将たちも自国領へ引き上げたので、義光軍勢は兵力が半分以下になったはずです。上杉領は120万石、対する最上領は20万石で、しかも最上領は西の庄内地区と南の会津・置賜地区の上杉領から挟まれています。上杉軍と言えば戦国時代最強と言われている強敵で、尋常な戦法では太刀打ちできません。山形に集められていた近隣の武将がいなくなって、山形はかなり手薄となってしまいました。義光は一部の城を除いて大部分を山形へ集結する戦略を選びました。かなり慌てて集められたものと思います。背中炙り峠の楯では工事を途中で放棄してまでも、野邊沢軍は山形へ馳せ参じました。それが楯跡に現われています。

 実は最上軍が何時、山形へ集結したのかが分かりませんでした。史料を見付つけることができなかったのです。しかし、畑沢を再発見(改訂版)を執筆している中で、近隣の武将たちの動向と軍勢を調べて、上述の結論を得ました。奥州の武将が集結していたころは、山形に野邊沢軍などが集結する余裕もなかったでしょうし、必要もなかったでしょう。また、最上領内各地の城で上杉軍を待ち受けて、領民を守ることは領主としての大きな役割があったはずです。そのために、野邊沢又五郎光昌も率先して背中炙り峠の楯を造成して備(そな)えていたのでしょう。楯跡の近くに残っている畑沢の沼沢に残る「又五郎」の地名も楯造成中に光昌が駐屯していた場所かもしれません。

 ところが奥州の武将がそれぞれの領土へ引き返したために、領民のことを思うと後ろ髪惹かれる思いながらも光昌は山形へ向かいました。やがて上杉軍が最上領内に侵攻し、戦いの火蓋が切られました。

 慶長出羽合戦で激しい戦いがあった畑谷城跡と長谷堂城跡は、友達の案内で見せてもらいましたので貧弱ながらも私なりの想像をしました。ところが上杉軍が撤退した時の経路を見せてもらったことがありませんでした。戦いと言うものは何時でも悲惨です。ましてや撤退戦となると、一層の悲惨さが想像されます。9月15日に関ヶ原の戦いで石田三成が率いる西軍が敗れ、その知らせが約半月後の10月1日に上杉軍を率いていた直江兼続に届くと、すぐさま撤退が開始されました。

 今年、11月5日にこの撤退経路沿いを「ウィークデ―ハイキング」するイベントが山形市主催で行われました。山形市長谷堂から山辺町にある県民の森までの約10㎞の行程です。

 下の写真は最上軍に討たれた上杉軍の上泉主水の供養塔です。主水塚(もんどづか)と書かれています。この人物は剣豪として有名だそうですが、「上泉泰綱書状」を書いたことでも有名です。

 写真の中の人物については、プライバシー保護のためにすべて顔を隠しました。

 

 主水塚は二つあります。下の写真は、より上杉軍陣地に近い場所にある塚です。

 

 上杉軍の直江兼続の本陣跡です。今は東南部が墓地になっています。

 

 撤退中に最も激しい戦いがあった場所だそうです。下の写真の奥に見えている右の山がオカクラ山(お神楽山の意味)とその左の女子林(めごばやし)がそうでした。今は高い木々に覆われていますが、恐らく当時は薪炭材として刈り込まれていたことでしょう。オカクラ山には、獅子頭に似た大岩があるそうです。畑沢の大平山(真木山と桂葉の間)の頂上に近い所にも獅子岩があります。オカクラ岩も獅子岩も似たような意味です。

 写真の手前にある集落は、七ツ松です。興味深い地名です。

 

 この周辺には、高度を上げながらぽつぽつと平坦な地形があってそこに集落があります。ここは上平です。斜面に建っている家の周囲は見事な石垣が組まれていて、まるで城の石垣のように本格的なものです。この一帯は白鷹山火山で噴出した火山岩で覆われていますので、固い石垣の石材に恵まれています。石材は石垣だけでなく、石仏にも使われています。下の写真は地元産の石材に素人の手によって刻まれたと思われる「南無阿弥陀仏」です。私はこの素朴な石仏が好きです。

 約10㎞の大歩行を終えて、再び出発点に戻りました。さすがに帰りはマイクロバスに載せて貰いました。閉会式が長谷堂城跡公園で行われました。参加者は35人で、ボランティアガイドは7人見えます。外に山形市職員と県職員がいます。ガイドさんが多いことに感心しました。参加者も結構な知識をお持ちの方がおられて、その方からも教えて貰いました。「参加者を知る」のもイベントへ参加の大きな目的です。

 畑沢でもこのような催しができればと思っています。背中炙峠の楯跡、上畑沢の楯跡、山楯、おしぇど山の楯跡などを見てほしいと思うものが沢山あるのですが、盛り上がりがありません。

 さて、私がイベントでどれだけ認識を改めることができたかが問題です。しかし私は「脳内があらたまる]には時間がかかります。そのうちに「ジワッ」と効果があるかもしれません。

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目的のない帰省のつもりでした。

2021-11-01 19:22:02 | 近況報告

 令和3年10月24日(日)、特に用もないままに、久しぶりに畑沢へ向かいました。いつも畑沢でやりたいと思う事やそれなりの用事があるのですが、この時は全く目的がありません。強いて言うならば、「故郷を見たい」ことが目的でした。

 今年は全く心を迷わすことなく背炙り峠へ向かうことができます。新型コロナの関係と思われます。ここ7年以上も無雪期に工事で通行できなくなっていたのですが、今年はありません。ありがたいものです。当たり前の話ですが、「通行できる道路」になっています。「決して工事のための道路」ではなくなっています。来年以降も「通行できる道路」であってほしいものです。

 林崎から県道を外れて「農免道路」の標示がある道に入りました。数十年前までは、ここが県道でした。少しルート変更がありました。この日は天気が良くて葉山が見えましたので、停車してパチリ。山頂付近に雪が斑上状に見えました。月山や蔵王が初冠雪した10月19日ごろに葉山も初冠雪だったのでしょう。画面の左にセイダカアワダチソウが彩(いろどり)を添えていました。今では極、当たり前の外来種です。そして画面下の中央にはイノシシ様がミミズを求めて地面を掻きまわしたのが写っています。これも当たり前の風景になってしまいました。

 180度回転して東には、左から大平山、次とその次が分からなくて、右端の大きい山は甑岳です。左下の真っすぐに伸びている道路が農免道路で、背炙り峠に向かっています。

 中沢地区を俯瞰するビューポイントから中沢地区を含めた林崎地区です。さすがに田んぼは完全に稲刈が終わっています。

 ここでも撮影角度を90度回転して、甑岳です。その北裾を田んぼが曲がりくねりながら伸びていますが、稲を作ったた形跡は消えています。耕作放棄地です。結構な面積です。耕作者が体力的に困難になったのでしょうか。

 峠から岩神山越えに遠く見ると、朝日山系が見えました。葉山よりは大分、白くなっています。でも真っ白な美しい山並みを見ることができるのは、もう少し先の様です。

 畑沢に入って、初めて真正面からに延命地蔵堂を見ました。いつもは少し斜めから構えて大杉と一緒に撮っていたのですが、真正面も中々、可愛い感じです。

 集落の中央付近から北の方角です。紅葉が見やすい場所ですが、少しだけイタヤカエデが黄色くなり始めただけでした。

 畑沢へ目的なしに行っても、実家の周りを歩き回るだけで、「やること」が一杯、出てきます。この日はイノシシが池の周囲を荒らしていました。写真を撮る暇もないほどに忙しく、修理とイノシシ防止の作業をやることになりました。

 帰りも背炙り峠です。途中、赤く色づいたオオカメノキが見えました。「オオ(大)」が名前に付いていますが、この木の葉は小ぶりでした。イタヤカエデとこの木は紅葉の期待を裏切りません。

 今度も180度回転。森の風景です。秋になると余計な葉が落ちて、森の中が明るくなります。私は春の森と秋の森が好きです。

 再び村山市側のビューポイントです。同じ場所なのに午前中とは全く雰囲気が異なります。当たり前の話ですね。逆光が面白くて写して見ました。

 

 

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