-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

今冬2回目の雪降ろし

2018-01-29 10:20:07 | 近況報告

 1月22日ごろに始まった寒気がようやく止み、28日に妻と一緒に畑沢へ雪降ろしに行きました。

 山形からの途中で、「道の駅むらやま」に立ち寄りました。楯岡も新雪の輝く白に覆われていました。下の写真の高い山は、甑岳(こしきだけ)です。昔は山岳信仰で賑やかだったようで、畑沢方面からも大勢が登ったそうです。

 その手前に見える少し黒っぽい低い山は、楯山と呼ばれている山で、最上家が改易されるまで楯岡城があった場所です。さらに手前の白壁の大きな建物は、楯岡中学校です。「楯岡」の名前ですが、少子化が進んでしまい楯岡以外の地域からも登校しているようです。どこでも同じような社会状況です。

 この日の積雪状況をNHKテレビのデータで確認したところ、尾花沢市は185cmと出ていました。急に積雪が増えたようです。尾花沢の町に入ったら、どこもかしこも雪降ろしをしていました。畑沢と違って尾花沢の町中は家屋が密集していますので、屋根から自然に落下させることができません。そのために屋根の表面に雪崩止めと言う金具を取り付けています。屋根に降った雪は、そのまま屋根に積もり続けますので、隣家に迷惑をかけないように気を付けながらスコップで雪をおろさなければなりません。その作業は危険で重労働です。

 尾花沢でさえも大変な積雪量でしたので、いつもそれよりも多く積もる畑沢はさぞかし大変なことになっているのではないかと心配でした。ところが、畑沢は尾花沢の町中よりもかなり少ない積雪でした。嬉しいことなんでしょうが、拍子抜けの感じもありました。下の写真は下畑沢の状況です。道路の両脇に雪の壁ができていますが、まだ例年の高さになっていません。高さは2m弱です。

 実家には姉夫婦が一足、早く到着していました。屋根に登ってからも、嬉しいことがありました。雪が軽くて、それでいながらさらさらと崩れることなくブロックに纏まりやすい雪質でした。これは雪降ろしし易い絶好の雪質です。やはり作業は順調に進み、昼間には完了してしまいました。

 昼食を食べて帰る途中、この降し易い雪質は、「降ろさなくても勝手に落ちやすい」性質も見せていました。所々の家の屋根から大きな雪の塊が道路に落ちた跡が見えました。落ちてくる雪の塊に人や車が下敷きになったりすると、大変な惨事になってしまいます。幸いにも、そのようなことはならなかったし、これまでもそのような事故を聞いたことがありません。我が地元の人は「感がいい」のでしょうか、暮らしの知恵でしょうか。私も危険なことには敏感ですし、危険な人にも敏感です。一番、危険な人が私ですから。

 

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畑沢で「お家再興」を俟ったのか

2018-01-26 18:17:20 | 歴史

 元和八年(西暦1622年)に最上家が改易され、最上家配下の野辺沢家もその幕を閉じましたが、果たしてそれだけだったのでしようか。

 畑沢に残る古文書や伝説等々から数々の疑問を持ちました。誰にも語られない歴史の裏で、畑沢の有路A家を中心とした野辺沢家再興の企てが隠されているような疑問を持ちました。かなり興味本位的な内容で恐縮ですが、素人だからこそできる妄想に近い想像をしてみました。

 なお、この文章の中に登場する有路家の子孫は180~310年以上も前の故人で、かつ出版された書籍にも登場する人物たちですが、多数の人物を一緒にブログで紹介するので、何となく実名で紹介することが憚られます。そこで、今回は子孫の名前を初代から六代までを順にB1~B6にいたします。

 

1 「有路家系譜」の謎

 (1)  有路B1を有路但馬の息子とするには無理がある

 野辺沢家中の拾勇士の中に有路但馬と笹原石見がいて、野辺沢能登守や遠江守とともに、各戦場で活躍したと延沢軍記などに書かれています。郷土史家の方々の研究によると、最上家の改易後、笹原石見の子孫は仙台藩に仕官しましたが、有路但馬の子孫は畑沢に帰農したことになっています。その有路家には「有路家系譜」が残されていて、有路家の由来や子孫のことが書かれています。有路家系譜は、楯岡高校社会部が昭和46年に発行した「郷土Ⅱ」に掲載されています。

 有路家系譜では初代の有路B1の父親が有路但馬であることになっています。しかし、この事にはかなりの無理が感じられます。

 次の表に有路但馬の仮定の年齢を入れてみました。

 

 

 この表の中で、西暦1577年での天童城での戦いとは、最上義光が天童城を攻めた時のことです。野辺沢家は最上八楯の一員として、天童城を守るために、最上義光軍と敵対しました。その戦いの中で、野辺沢家の家臣である有路と笹原の活躍が延沢軍記に記載されています。その時の有路但馬の年齢をぎりぎり若く仮定して、それを基準にその後の有路但馬の年齢を計算してみました。それでもB1が生まれる時の有路但馬はかなりの高齢です。71~76歳になってしまいます。ましてや最上家が改易されてからは、有路但馬は帰農していますので、かつての権勢はなくなっているはずなので、この年齢で子を設けるなどは到底考えられません。この年齢ならば、既にりっぱに成長している世継ぎとなる子がいるはずです。B1を但馬の子とする何か特別のことが隠されているような気がします。B1は、誰の子でしょう。また、既に立派に成長しているはずの有路但馬の子どもは何処へ行ったのでしょう。

 

(2)  長寿の謎と大資産の謎

 有路家系譜の系図によると、B1を含めて続く第六代までが70歳以上で90歳近くの子孫もいて、当時では途轍もないほどの長寿でした。長寿はただ身体が頑健だけではなく、裕福な生活ができる資産があったことを物語っています。また、大規模な熊野神社や畑沢地蔵庵などを建立しており、資産が豊かであったことを裏付けます。

 有路A家が畑沢へ定着する前に、既に畑沢の荒屋敷と上畑沢に集落が形成されていましたので、有路A家が最初から広い田畑を所有しているとは考えられませんし、たとえ有路A家が次第に大きな耕地面積を所有することになったとしても、元々、畑沢の耕地面積が狭いので、田畑から大きな収入を得られることは考えられません。峠越え街道の荷駄運びでの収入が唯一、考えられますが、それも定かではありません。有路A家は畑沢へ定着する時には、後世の子孫をも潤す莫大な資産を持っていたと考えた方がいいのではないでしょうか。

 そもそも有路但馬の主君である野辺沢家は、銀山を有して裕福だったはずです。それが、最上家が改易されて野辺沢遠江守が熊本へ預かりの身となった時に、その資産が直ぐになくなってしまうとは到底、考えられません。改易は突然、訪れたものではなくて、後述のように賢明な家臣たちは、最上家内部の乱れを見て改易を予想していました。最上家の側近である野辺沢遠江守も、改易を覚悟してその対策を準備していたことでしょう。特に資産を何処かに保管していたはずで、筆頭家老の有路但馬がその役を任されていたことが想像され、それが有路A家の資産となって引き継がれたとも考えられます。

 

(3)  B1が養子になった謎

 有路家系譜によると、B1の身元が転々と移っています。数え二歳の時に父親が亡くなって外戚の里見家で育てられ、その後ある程度に成長してから他家へ養子となり、さらに20~24歳ごろに畑沢へ独立したとされています。B1を有路但馬の嫡男として説明しているある郷土史家の書籍もありますが、有路家系譜からそのことを読み取ることができません。それでも、上記のようにかなりの資産を引き継いでいることから見ると、「ただ者でない」ことは確かなようです。それでは有路但馬の大事な息子が、どうして他家の養子になるのかが謎ですし、養子を止めても引き継ぐ大きな資産があるというのも謎です。

 身元が転々と変わるのは、B1の素性を隠すための方策とは考えられないでしょうか。ここで、参考までに四国の長曾我部家の例を挙げます。長曾我部盛親は関ケ原の戦いと大坂の陣で敗北して、その子孫を残すことはありませんでしたが、盛親の叔父の家が島家を名乗って土佐藩に下級武士として仕え、明治になってから長曾我部を名乗ったということです。長曾我部家家臣の子孫も、江戸時代を通じて島家を長曾我部家の末裔として扱っていたようです。即ち、一族がまとまるには、苗字は隠れていてもその血を何らかの形で引き継ぐ存在が必要だったようです。別な言い方をすれば、何らかの形で地を引き継ぐ存在があれば、一族はまとまることができることになります。B1がその「血を引き継ぐ存在」であったとしても、そのまま普通の身元を明かしながらの生活が憚られる何らかの理由があったと考えることもできます。

 

2 最上家が改易される少し前の家臣たちの様々な動き

 義光の死後、最上家の内部では、何度も混乱がありました。義光の長男である義康が暗殺、三男の清水義親は謀反の疑いで次男の家親に打たれ、義光の跡を継いだ家親は享年36歳で変死、そして若干13歳で藩主を継いだ義俊の愚行を見た家臣たちの中には、「藩主を叔父の山野辺義忠に替えるべき」との動きまで出てしまいました。義俊の方は山野辺義忠が父の家親を毒殺した犯人であると幕府へ訴え出ました。このような最上家内部の混乱ぶりを見ていた次の(1)と(2)で後述する有能な家臣たちは、事の重大さを正確に認識し、やがて訪れる最上家の崩壊を見抜いていました。当然、最上義光の娘婿である野辺沢遠江守も、最上家の側近として仕えていましたので、最上家の実情をよく知っていたと思われます。

 

(1)  東根城主「東根(里見)薩摩守影佐」の遺言

「東根市史」に影佐から息子である源右衛門への遺言と解説が載っています。

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遺言状は、‥‥‥。末尾に

もかミの御国三年と此分ニあるましく候、せめて御国かへニも候へハ

と書き、最上家が三年と持たない、せめて国替えで済めば、と最上家の将来を案じている。

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 まだ最上家が改易される2年も前に、東根城主は最上家の内紛がこのままでは済まないことを感じていました。東根(里見)Aは、最上家改易により蜂須賀家に預かりの身となりましたが、蜂須賀家からの要請によってその家臣になりました。有能な人物だったのでしょう。

 さて、「A」という名は、畑沢の有路Aの「A」と同じですし、畑沢の初代のA(B1)が幼少の時に里見蔵人に養育されていたことなどを見ると、有路B1と東根(里見)家との関係を匂わせるものを感じます。ただ、Aという名前は珍しいものではありません。

 

(2)  成沢道忠が最上家を離れて伊達家へ

 成沢道忠は最上義光の家臣で、成沢城(山形市成沢)主として伊達軍を食い止め、長谷堂(山形市長谷堂)城の合戦では上杉軍との激戦を交えた大功労者で、義光から五千石の領地をもらいました。それほどに重要な家臣でしたが、最上家の混乱ぶりを見て、最上家改易の前に最上家を離れて伊達家に仕えました。言わば、最上家に愛想が尽きたということです。このような気分が最上家の家臣たちに充満していたと思われ、野辺沢家でもそのことを十分に認識して、何らかの準備をしないはずはありません。

 

3 小三郎さん 貴方は何者

 最上町堺田には、松尾芭蕉が二泊三日滞在したと伝わる封人の家があります。そこで、芭蕉は有名な「蚤虱 馬の尿する枕もと」の俳句を詠みました。封人の家の先祖は有路小三郎という野辺沢家の家老の息子で、最上家が改易される前にここに移ったと伝えられています。それが事実なら小三郎は有路但馬の息子ということになります。有路但馬の推定される年齢、小三郎の子孫が堺田の名主であったことなどの客観的な状況を考えると、小三郎が但馬の息子であったであることは辻褄が合うような気がします。

 それでは何故、改易前に堺田に移り住むことになったのでしょうか。これは上述の東根(里見)家や成沢家のように、最上家の危機に対して備えていたと考えられます。改易になってからでは財産を没収されるなどしてしまいますので、その前にかなりの資産を持って小三郎は堺田に移り住んだのでしょう。しかし、これは普通ならば小三郎の野辺沢家に対する裏切り行為となり、追っ手を差し向けられかねません。但馬もその責任は重大で、切腹を免れません。しかし、野辺沢家中が同意の上の行動だったのでしょう。山形城にいる野辺沢遠江守に代わって、地元に残っている筆頭家老の有路但馬がやがて訪れる大危機のために策を考え、但馬の指令に基づいて小三郎が最上領の最北端で何らかの備えをしていたとも思えます。堺田村は新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展したそうですが、新庄領となる前の最上領だった時も馬の産地であったかどうかは確認しておりません。しかし、もしも小三郎が堺田に移った時にも馬の産地であったとすれば、お家再興の旗を揚げる時には、軍馬を整えることができます。野辺沢家の重臣であった笹原石見は仙台藩へ仕官したようですが、有路但馬の子孫は他家へ仕官したような記録が何処にもありません。

 

 小三郎の名は、畑沢にも残っています。背中炙り峠の楯跡の一角に「小三郎」と呼ばれている小さな沢があります。畑沢側からの楯への入り口に当たります。背中炙り峠の楯は野辺沢領の最南端を守り、かつ南へ軍勢を繰り出す前線基地的な機能を有した重要な施設だったと考えられ、小三郎はその場所で楯の何らかの重要な役割があったのではないかと考えました。また、隣の沢には「平三朗」の地名があり、さらに楯から少し離れた奥まった沢のかなり広い平坦地には「又五郎」の地名が残っています。平三朗の名前の手がかりは見つかりませんでしたが、「又五郎」は野辺沢遠江守の幼名です。又五郎、小三郎、平三朗とまだ若い主従が南へ進軍する時の駐屯場所を意味していたとも考えられ、小三郎が野辺沢家の重臣であることを証明する地名であり、封人の家に伝わる小三郎の存在を証明する地名でもあると考えました。そして、小三郎が最上家改易の前に堺田村に移ったということは、背中炙り峠の楯が改易前には不要になっていたと思われます。

 

4 蚊取り線香じゃないけど 「金の鳥伝説

 尾花沢高校郷土研究部が昭和41年に発行した「尾花沢伝説集」に畑沢の次の伝説が書かれています。

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-金鳥- (以下は原文のままです。)

 岡田沢には金鳥二羽と朱漆一樽埋められてある。昔、岡田沢に大長者が住んでいて、そのころに埋めたのである。その場所は一番早く朝日が当たり、また一番遅く迄夕日が映え、三ツ葉木を目じるしに植えてある。夜になるとその金の小鳥が出たい出たいと啼くそうである。

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 単なる埋蔵金などの伝説と比べて、この伝説はかなり変わった内容です。特に「金鳥」は面白いと思いますが、それだけに特別な意味があるだろうと考えました。戦国時代には、絶えず敵方から侵略される恐れがありましたので、村人でさえも家財道具などを土中などに隠していたようです。ましてや野辺沢家は銀山で蓄えた沢山の財宝を、近い将来の危機管理の一環として隠していたはずです。

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(1)

 金鳥の「金」は軍資金となる財宝、「朱漆一樽」は武具の材料となります。


(2)

 「鳥二羽」は雌雄の番(つがい)で代を重ねる覚悟を意味し、「出たい出たいと啼く」のは、お家再興に立ち上がる時を心待ちにしている気持ちに見えます。


(3)

 「一番早く朝日が当たり、また一番遅く迄夕日が映え」る場所は、低地ではなくて丘の上に相当します。


(4)

 埋められている場所が「岡田沢」となっていますが、当初はそうだったかもしれませんが、後で移し替えた可能性が高いでしょう。

 

5 有路A家がある集落、熊野神社及び三峰神社の意味深長な位置関係

 有路B1が畑沢に定着する時に、普通にならば既に集落が形成されていた荒屋敷に近い街道沿いに家を建てるものと思うのですが、あろうことか街道からは約200mも離れ、さらに荒屋敷の集落と対面するように、田南坊沢の入り口に家を建てました。荒屋敷の向かい側なので、「向かい」と呼ばれています。

 

 この位置関係は荒屋敷とは一線を画して、独立した集落を構えたことを意味しています。荒屋敷の拠点が山楯などで、有路A家の拠点は熊野神社が建てられた山です。この山には熊野神社の外にも、地蔵庵と三峰神社(万年堂)も有路A家によって建てられました。三峰神社から続く切立った尾根には、高所へ導く道が作られています。この道は獣道や杣道のように踏圧で形成されたものではなくて、人によって削られた形跡が残っています。この尾根全体が特別な意味を持っているようです。

 墓地も有路一族だけのために田南坊沢の奥に造られていました。入り口には珍しいほどに立派な六体の六地蔵が立って、墓地を守っています。

 有路B1たちは、言わばある目的を持った集団を組織しようとしていたように見えます。

 以上のように有路A家には何らかの大きな謎が隠されているようです。極端な話になりますが、私は次のような野辺沢家のお家再興の企てが潜んでいると考えてみました。

 

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 関ケ原の戦いが終わっても、豊臣と徳川の対立は完全に終結しておらず、最上家の内部にもその影を落として、義光の後継者問題に絡んだ形で燻ぶっていました。義光の存命中にも、長男の義康が家臣に暗殺され、義光の跡を継いだ次男の義親が享年36歳で変死し、若干13歳で藩主に就いた義俊の時代には、本格的な混乱に陥ってしまいました。家臣たちも動揺し、成沢道忠のように最上家を離れる重臣も出てきました。

 

 野辺沢遠江守は、最上家の側近として混乱の収拾に当たっていましたが、国元では有路但馬が最上家の崩壊への対策も進めました。但馬は野辺沢家の資産を守りながら、息子の小三郎を北の堺田に潜ませて挙兵の時の拠点とすることを企てていました。

 とうとう最上家は改易され、野辺沢家の家臣たちも城を離れることとなり、他家へ仕官する者もいましたが、有路但馬はお家再興という大事な使命を遂行するために、地元に残って農事に勤しむことにしました。勿論、他家へ仕官した者たちも、いざ挙兵する時には有路の元へ馳せ参じる覚悟を持っていました。

 

 但馬は野辺沢家の血筋を守るための方策の一環として、野辺沢家の血筋を引くB1を守ることにしました。しかし但馬はとうとう寿命が尽き、B1の運命は他の家臣たちに委ねられました。家臣たちはB1を但馬の息子と偽ることにしましたが、そのままでは但馬の息子でないことがばれてしまいますので身元を転々と移し、幼児期には母親の実家で育て、ある程度に成長してからは養子に出したふりをしながら育て上げ、十分に成長してから畑沢村に独り立ちさせました。B1には野辺沢家に残された十分な資産が受け継がれ、その後も何代にもわたって裕福に生活することができました。

 

 例え有路但馬の子孫と言う名で畑沢村に隠れ住んでいたとしても、お家再興のためには、もう一度、世の中が戦乱の世に逆戻りしないと挙兵は出来ません。しかし、徳川幕府は代を重ねるごとに体制を強化し、平和な時代が続きました。いつしか、お家再興の機会は完全に失われ、財宝も使い果たされてしまいました。

 

 一方、堺田でお家再興の備えをしていた小三郎の子孫たちも、同じように平和な時代の中で、堺田村の名主としての道を歩むことになっていました。

 

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「背中炙り峠の楯」によって街道(古道)は付け替えられた。

2018-01-06 14:22:46 | 歴史

 とうとう、今度こそ背中炙り峠の楯跡シリーズが一段落します。文字数が多くて恐縮ですが、ここを我慢すれば明日からはゆっくりできます。頑張りましょう。と言うのは、年末から今日までの内容は、私が本にするべく、まとめておいた文章をブログ用に調整したものです。その在庫がなくなりましたので、しばらくの間はこのシリーズがないということです。

 さて、昔の山越えの街道は、尾根に作られていました。しかし、その原則に照らし合わせて考えると、背中炙り越えの古道のルートでは、大きく原則から逸脱して、尾根でない所を道にしている場所が二か所あります。しかし、その二か所とも尾根筋とすることができるはずだった場所です。

 

 先ずは、姥地蔵堂(峠)から村山へ向かう道筋で、尾根を外れて急な斜面の側面を進んでいます。ところが、その急な斜面の上には、なだらかな尾根が続いていますので、そこに道があれば、あえて急斜面をトラバースする必要ないはずです。上の図の太いピンクの破線にそのルートを示しています。昔の街道が獣道(けものみち)や杣人(そまびと)の作業道から自然発生的に生じたものであるとすれば、歩行が楽で安全な尾根を避けるはずがありません。現在、残っている急斜面をトラバースしている道は、自然発生的なものではなくて、無理やり急斜面を削って造られた道です。尾根上にあった道を斜面に移動させて尾根に楯の主要部を造り、さらに街道を楯の一画に組み込んで防衛を強化したものと思われます。楯そのものも大掛かりな工事を要したものと思われますが、道の付け替えもかなりの労力を要したことでしょう。付け替え後の街道は峠から二筋造られました。背中炙り峠の楯跡(主要部)の図中古道(上段)と古道(下段)と書かれているルートです。付け替えられた街道の谷側は、足を誤ると標高差50m下に滑り落ちます。この街道は野辺沢銀山からの金銀を搬出する産業道路、野辺沢軍が南へ進軍する軍道の幹線ですので、交通量も多かったことでしょう。しかし、急斜面ですので十分な幅に拡げることは困難です。そこで、下りと上りの専用に二本のルートを確保したものと思われます。尾根筋にある街道では考えられない発想です。付け替えた街道の中ほどには、「弘法清水」が湧出しました。湧水は楯の兵にとっても街道を通る旅人にもありがたいものです。

 楯と街道付け替えの工事の年代について、S.H氏は、楯の構築された年代を関ヶ原の戦いに備えたころと推察されています。その説に沿った考え方をしますと、西暦1600年の少し前あたりになります。背中炙り越え街道は関ヶ原の戦いのずっと以前から、銀山の金銀を運ばせた道であることはもちろんのこと、その千年ぐらい前ごろからも使われていたであろうことを考えると、「急斜面に付け替えさせられるよりも前の道」が残されていることが想像されました。そこで姥地蔵堂から南へ尾根を調べてみましたが、楯の跡である曲輪や堀切ばかりで道の跡は一切残されていません。「楯」自体が尾根を中心に作られていますので、道の跡が残されていないのは無理からぬことです。しかし、切岸Aの南端の外側に道の跡が二筋、現われました。上図で「より古い古道跡」と書いてある所です。楯の主要部がある尾根へ登る方向を向いています。元々はこの古道の跡が尾根筋へ向かう道だったのでしょうが、楯を造るために閉鎖されて、切岸の下を北上するルートに付け替えられました。その証拠が切岸Aへ向かう楯跡(主要部)の上図中⑧の道です。図ではまるで百足が身を捩(ねじ)っているかのような姿になりましたが、沢山の足を出しているような描き方は土地の起伏を表わしたもので、それなりの労作です。

 この道の断面は、上の図Bのとおりです。普通、古道は旅人、牛馬による踏圧を受けた路面は裸地にされて、降水によって浸食されます。長い年月の間に、図Aのように路面だけがU字型に凹んでしまいます。しかし、この古道の両側は周囲の地面よりも盛り上がっています。これは道を造る時に路面となる地面の土を掘り、土を両側に積み上げたことを意味します。この盛り上がった部分については、楯の土塁かとも疑いましたが、土塁にしては低過ぎますし、ここに土塁を造る意味がありません。これは峠へ登るそれまでの道を強引に切岸Aの下へ持っていくために、地面を掘り下げた結果であることが分かりました。

 もう一か所、古道が尾根に作られる原則から逸脱する場所があります。ここも村山市側です。「背中炙り峠の楯跡(位置図)」を御覧ください。道は楯の主要部を過ぎると、普通の古道らしく緩やかな尾根の上を西にほぼ一直線に下りますが、切通しを過ぎると、大きくカーブしながら急な斜面をつづら折りしながら南下します。切通しは自然に生じたものではなくて、尾根をV字型に鋭く人手によって切られたものです。切通しによる敵軍の侵入を防ぐ方法は、鎌倉七口(かまくらななくち)が有名です。しかし鎌倉の場合は、外部からに入る時に山を越える必要があったので、通路の利便性を考えると切通しが必要ですが、この背中炙り峠から降りてくるこの場所は、尾根から単に下るだけなので、どうしても切通しが必要な場所ではありません。あくまでも軍事上の目的と考えられます。私の推察どおり軍事上の目的で切通しが作られ、元の街道を変更させられたものだとした場合は、「切通しを通らない元の道」が存在しなければなりません。残念ながら、その確認は行っておりません。ここは村山市側になっていますので、正直なところ手を抜きました。今後、それを確認する必要があります。

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「背中炙り峠の楯」にまつわる地名

2018-01-05 10:44:18 | 歴史

 このテーマは既に何度か投稿しましたが、年末から続く一連のお話として再度、取り上げます。また、背中炙り峠の楯のテーマは、前回で最終とも宣言しましたが、これも簡単に撤回することになります。いい加減な私の性格は、新年になっても治らないようです。それが私らしさとも言えるのでしょうか。とかなんとか、下らないことばかり書いていますと、益々、信用がなくなりますので、本題に移ります。


 説明のために、位置図を掲載します。

 楯跡の東側(畑沢側)の沢には、「小三郎」「平三朗」「一の切」「二の切」「三の切」などの楯に由来すると思われる地名の伝説があります。畑沢の古瀬K氏によると、「一の切、二の切、三の切の奥にはホッキリがあると言われている」ということでした。ホッキリとは、堀切(ほりきり)のことに間違いありません。堀切などという言葉は日常生活で使われないなり専門的な言葉です。地域の御先祖が四百年も前に深楯に関係していたであろうことが推察されます。

 小三郎の名前は、最上町堺田にある「封人の家」の先祖である有路小三郎と一致します。境田の小三郎については、元々、野辺沢家の家老の家から出たとの伝説があるようです。有路小三郎と楯跡の時代も一致しています。楯跡の小三郎は有路小三郎に因んだものである可能性が高いと思われます。有路家については謎が多いので、別のところで考察しています。

 小三郎と平三朗は小さな沢の名前ですが、どちらも正式な沢の小字名になっていません。しかし、平三朗の近くにある千鳥川の川筋に、平三朗の小字名があります。その場所は、私が「防御施設として溜池があったであろう」と推測している場所と一致しています。平三朗は溜池を使った防御防設の責任者で、その拠点を平三朗の沢に置かれたのではないかと考えてみました。残念ながらそれを証明する手がかりはありません。

 楯跡から少し離れた宝沢には、また、古瀬K氏によると、宝沢の奥の簡易水道水源地の近くの平場が、「又五郎」という地名が付けられているそうです。「又五郎」とは、野辺沢能登守の息子の幼名でした。これも時代が完全に一致します。

 

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「背中炙り峠の楯」跡の主要部Ⅲ(切岸・その他)

2018-01-04 15:51:54 | 歴史

 年末・年始の背中炙り峠の楯跡特集が最終日になりましたので、今回も大サービスをいたします。何のことはありません。楯跡主要部の縄張り図を掲載するだけです。

 この特集ではこれまで曲輪と堀切と堀切を取り上げてきました。最終回は切岸などです。

                  「背中炙り峠の楯」跡の主要部縄張り図

 切岸Aは上段の街道(古道)の山側に沿って造られていて、全長100mにも及び、南から北へ向かって標高が高くなっています。私は曲輪、堀切、切岸の正確な定義を理解しておらず、それぞれの区別もままならないところがありますので、切岸と呼べるものが外にもあるのかもしれませんが、はっきりと切岸と呼べるのはこの切岸だけです。下の写真の右側が切岸で、中央部分に切岸を造る時に削り残した土塁状のものがあります。しかし、小さ過ぎて土塁としては全く役に立ちません。切岸と土塁状のものの間にある残雪の下には、楯の西側を走る二本の街道のうちの上段のルートです。街道は切岸に沿って真下を通っています。

 この形を御覧になって、堀切Dが似ていると思いませんか。私も堀切Dが切岸とすべきなのではと悩んだものです。ただ、堀切Dは土塁がはっきりしていましたので、切岸ではなく堀切としました。でも、それは分類上のことであって、私のような素人にはどちらでもよいようです。


 楯の中を通る街道(古道)も楯の機能を有していると考えられます。西へ向いた急斜面を削って造られた街道は、道の両側が絶壁になっているところが多く、容易に人を寄せ付けません。路面は腰曲輪の役を果たしています。


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