-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「おさいど」に今年も行ってきました。

2016-02-24 21:31:19 | 古里

 かなりの空白期間がありました。前回の投稿から半月以上が経ってしまいました。久しぶりのなので、パソコンのキーボードを叩くのもぎごちない状態です。

 さて、今年の上畑沢のおさいども2月24日に行われました。

 山形から畑沢へ入ると、いきなり大型トラックが下ってきました。荷台には杉の大木が山積みされています。沼沢林道の奥から運ばれてきたもののようです。積雪が大量にある中での運搬は、珍しいものです。


 畑沢生涯学習推進センターです。屋根に積もった雪は、滑り降ちています。昔は滑り落ちないように雪止めが設置されていましたので、雪下ろしが大変だったのですが、今は楽になったものです。ところで、3月13日(日)の10時から、ここで私が畑沢について調べた調査内容を畑沢の人たちにお話をすることになりました。私が半年ぐらい前からお願いしていました。私が調べたものは、凡そ三年間でかなりの量になりましたので、1時間程度の中で何をお話すればよいか、懸命に考えているところです。そして、その後に畑沢の人たちからもっと膨大なお話を伺うことができそうです。このブログを御覧になっている方も、御興味をお持ちでしたら畑沢区長に御相談ください。

 おさいど会場の途中で、入り口に湧水を流しているお宅がありました。融雪のためです。きれいに雪がなくなっています。

 おさいどの準備は午後1時過ぎから始まりました。今年は人数が減っています。毎年、減ってきています。寂しい限りです。昨年は快晴でしたが、今年は寒い雪空です。

 午後5時半になると、おさいどに火がつけられました。まだみんなが集まる前です。火を点ける人はせっかちです。と言うよりも寒がりな様です。火で暖まりたいだけかもしれません。

 次第に人が集まりました。それでも全員ではありません。地蔵堂の中に座って、外に出てこない人もいます。

 

 

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「背中炙り峠の楯」調査結果の中間報告(1)

2016-02-02 17:48:02 | 歴史

 「沼沢の沼を探してみました」シリーズで次の投稿を約束していながら、滞っております。さればとて、改心していざ取り組もうとするのですが、まるで頭も手も動こうとしません。無い知恵は出ないことをあらためて認識させられています。私の場合は、知恵が出るまでに時間がかかるのです。

 そんな知恵のない私の頭でも、時間をかけたたために、それなりに形が表れたものがあります。それは三年目を迎えている背中炙り峠の楯です。そもそもの始まりは、保角里志氏が書いた「南出羽の城」です。その中で「峠を守る城」として背中炙り峠の楯が図面入りで説明されていました。私にとって、背炙り峠は思い出多い所ではありますが、あくまでも単なる「道」でしかありませんでした。ところが、その本にある峠は今から四百年以上も前に遡る歴史を秘め、野辺沢城にも繋がるロマンがありました。早速、村山市内で歴史に熱心な先輩とともに現地を確認したところ、驚きの地形がありました。ただの山の中と思えるような場所に、行く手を遮る崖や大きな溝が大規模に作られており、山頂部は平らに均されています。その片隅には櫓(やぐら)が建てられていた丸い土盛りもありました。ただのスビタレが一気に古城ファンになってしまった瞬間です。何も歴史を聞かされていなかった我がふるさと畑沢に、こんなものがあろうとは知りませんでした。

 眺めているうちに、保角氏の図面には出ていない位置にも、自然の地形とは思えない何かがありました。保角氏が書いた文献は、外にもありました。村山市立図書館で「峠を守ろ城『背炙り峠楯跡』」という山形考古第3号(通巻33号)別刷です。その図書の楯の図の西側に「」という文字がありました。それは、その図面にはまだ調査していない場所があることを意味しています。それではその「未」のところを調べてやろうと決心したわけです。ところが、考古学には興味なし、その他の人文系も苦手のままで長い月日を送ってきただけに、自力での調査は全く目途は立ちませんでした。保角氏にも相談しながら調査できる方を紹介してもらいましたが、その方は体調を崩して途中で諦めざるをなくなりました。結局、スビタレながら私が一人でやることになってしまいました。

 私は還暦を過ぎてから何年か経ちましたが、幸い「馬鹿は風邪ひかない」の例えどおりの体力を持っています。好奇心も持ち合わせています。保角氏の図面を基本として、その周囲を調べました。その結果が下図です。私は作図に一番、必要な測量技術を持っていません。途方にくれながら編み出したのが、Google earthの航空写真を使うことでした。航空写真をExcellにコピーして、色調を操作することによって杉の木を識別できるようになりました。現地を歩きながら、樹種を区別して航空写真に楯の絵を描いていきました。航空写真はかなりの歪みがあります。それでもしょうがありません。私にできる精一杯の方法ですから。慣れるにつれて、見えないものが見えてきました。恐ろしいものです。何とかなりました。

 

 

 この図はあくまでも、きちんと調査された保角氏の図面を基調にしています。上の図の右半分がそれに相当します。それでも保角氏の図面をそのままに写したものではなくて、私なりに航空写真に現地調査で確認したものですので、保角氏の図面とは随所で異なるものがあります。例えば、曲輪の形、虎口(こぐち)の位置、堀切(ほりきり)や切岸(きりぎし)の位置などです。何故、違った内容になったかは分かりませんでしたので、そのままで図面化しました。図面の書き方も分かりませんでした。見よう見真似で書いたので、考古学本来のルールに当てはまらないところだらけだと思いますが、何とか見てください。「切岸」と「帯曲輪(おびくるわ)」が沢山ありましたが、煩瑣になるので説明を入れていません。欠陥だらけの図面でしょうが、大方の形を分かっていただければ幸いです。

 この図にあげたものは主要部だけです。切り立った尾根が伸びている南の尾根には、危険極まりない堀切が三か所あり、西には街道(古道)と絡めた「切通し」、北側には役目が終わってから切り崩されたと見られる興味深い二段構えの堀切があります。個々の詳しい説明は次回以降とさせていただきます。図面化作業はかなり疲れました。次回はしばらくしてからになるでしょう。

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