-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「背中炙り峠の楯」調査結果の中間報告(4)

2016-03-25 20:57:36 | 歴史

 このシリーズも最終回になりました。今回は楯の主要部分から離れた場所です。主要部分から離れているということは、楯の範疇に入らないかもしれませんが、考古学の伝統にも格式にも従わない、言わば既成概念にとらわれないど素人流ですので、こういうやり方もあるでしょう。この背中炙り峠の楯は、天然の要害が特徴のだと思いますので、人為的な工作物だけでは、楯としての機能を語るうえで片手落ちになります。主要部分から離れていても、その地形が楯としての防御機能を果たしています。

 楯の周囲はどこもかしこも急斜面だらけです。尾根は「痩せ尾根」と言われるように両側が切り立った斜面になっています。そんな尾根で防御するには、小さな堀切を作るだけで間に合います。そのような堀切が、二の切の奥に二つ、三の切の奥に一つあります。

 次の写真は二の切の堀切で、堀切(5)です。手前の樹木が蛸の足のように伸びている場所が曲輪に近い方で、堀切の向こうよりも2.5mほど高い位置にあります。堀切の巾は5mほどで今回紹介する堀切のうち最も大きいものです。向かって左側が東(畑沢側)で、二の切の沢に向かって急斜面が落ち込んでいます。

 

 堀切(6)です。上の堀切から南へ16mほど離れて直ぐの堀切です。先の堀切とこの堀切の間には、巾8mほどの平場があります。この平場は何らかの目的があって作られた可能性があります。主郭の櫓の外にもう一つここに物見台を作るスペースがあります。

 

 堀切(7)ですが、笹が生い茂っていて写真ではどこに堀切があるか分かりにくい状態です。三の切の奥にあります。三の切の奥にある堀切は、ここだけです。

 写真の中央付近から向こう側は上り坂になっていて、その上り口のところに堀切が切ってあります。坂を利用していますので、堀切は小さいもので間に合っているということでしょう。

 

 次の写真は街道に設けられた切通しです。楯の主要部分から村山市側へ下って、街道の距離にして約900m西側にあります。単なる街道のための切通しにも見えますが、7、8mもの深さになっているところを見ると、自然発生的に出来たものではなくて、人為的であることが分かります。単なる街道の通行を改善することを目的とするとは見えません。この背中炙り峠越え街道と密接な関係にある太平洋側へ抜ける軽井沢街道(又は仙台街道)には、このような切通しはありませんでした。むしろ、鎌倉へ通じる峠道に切通しを設けて、防御を固めたやり方と似ています。この切通しも楯を作ったころに、それまでのルートを変えて、防御のために設けられたものと思われます。それではそれ以前の古道のルートとはどこだったのでしょう。いつの日か探してみたいと思います。

 これで楯の調査に係る中間報告を終わります。今度、報告するのは、等高線が入っている地形図に楯を組み込んだ時です。いつになることか、相変わらず自分でも予測不能です。

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「背中炙り峠の楯」調査結果の中間報告(3)

2016-03-24 09:29:25 | 歴史

 「背中炙り峠の楯」調査結果の中間報告(2)に続いて、主要部分の写真を掲載します。下の写真は主郭[曲輪(7)]の北側にある櫓台です。図面には「櫓」と記しましたが、正しくは「櫓台」です。このような間違いはしばしばありますが、御容赦ください。この楯では主郭が最も高い場所になり、その上の櫓台はさらに高く聳えていたことでしょう。櫓の形は分かりませんが、当然のこととして大名たちの城にあった建物の形をした櫓とは大きく異なります。ここの櫓は、三内丸山遺跡にあるような丸太を立てて、その上に物見台を設えた程度のものと思われます。物見台にせめて屋根があったのであれば、何となく様になるのですがどうだったでしょうか。櫓の上からは直線距離にして6.2㎞北にある野辺沢城の櫓と交信できたでしょう。交信方法は狼煙(のろし)だったでしょうね。また、この櫓は村山側から侵攻する敵に対する監視の目的がありました。

 

 次に「南出羽の城」に出ていなかった楯の工作物と言うのか施設と言うのか分かりませんが、楯の一部を紹介します。曲輪(2)です。乳母木地蔵堂のすぐ西側にありますので、普通ならば容易にその存在を知ることができるのでしょうが、杉が植林されていて地蔵堂側からは分かりにくくなっています。逆に杉林に入ってしまえば、平たんな地形が分かります。曲輪と言っても面積が小さく、さらに曲輪の中央部分から二分されています。その北側半分が西側に向かって低くなっています。一見、通路かな思ったりもしましたが、その先は危険な急斜面です。不思議な地形です。

 

  曲輪(2)の南側に隣接して、一段低い所に曲輪(4)があります。二つの曲輪の通路となる虎口は発見されませんでした。単なる節穴と言われる私の観察不足かもしれません。曲輪(4)は主郭[曲輪(7)]に匹敵する広さを持っています。写真左側には、街道が向こうに向かって下っています。この曲輪も曲輪(2)と同様に街道(古道)の西側に隣接しています。防御という面から考えると、街道よりも低い位置と言うのは理解しにくいところがあります。だとすれば、この曲輪(4)は普通の曲輪と違う別の目的があったとも考えられます。例えば、街道の関所的な役割などです。南端で街道とこの曲輪の高さが同じになっていますので、その場所を詳しく調べれば、街道と曲輪の関係も推察できるのですが、残念ながら杉の植林の際に周辺が破壊されてしまいました。もう一つの目的として考えれるのは、村山側へ兵を進めるときの一時的な駐屯地の役割も考えられます。野辺沢城から進軍するよりも、ここで待機していれば、村山側で一大事があれば、より早く平和進めることができます。


 さて、楯そのものではないのですが、楯と一心同体のように楯に組み込まれた街道(古道)にも言及しておく必要があります。ここの街道は楯がある場所を通過する区間は、明確な「複線」になっています。それがずの「B」と「C」です。歴史の長い他の街道の場合は、路面が浸食されると自然発生的にその脇に街道が別に並行してできる場合がかなりありますが、ここは楯を作るために強制的に尾根上のルートを西側の急斜面に移されたものです。自然発生的に複線となったものではありません。意図的に複線化されたものです。この街道は野辺沢銀山から産出した金銀を運び、逆に野辺沢銀山の採掘に必要な大量な物資を運ぶ交通の要衝でした。当然、交通量も多く、一つの荷物も大きく重かったはずです。にもかかわらず急斜面の狭い街道では不便極まりなくて、街道の機能が著しく損なわれてしまいます。そこで「複線化」されて、上りと下りがそれぞれ専用としたはずです。大変珍しい「複線化された街道(古道)」と言えます。

 先ず複線の街道のBの写真です。楯が作られる以前からの街道と見られ、緩いつづら折れの道が長い年月で中央部分がU字型に窪んでいます。楯が作られる前はそのまま尾根に達していたのでしょうが、楯の切岸によって途中からバッサリと断ち切られ、北側へ方向を変えられています。


 複線のもう一つのルートは、上記のルートの下を通っています。途中に弘法清水という湧水がありますので、県道ができた後も楯岡へ行くときなどに昭和30年ごろまで使われていました。つい5年ほど前までは、上畑沢の人たちによって刈り払いが行われていました。


 複線の街道(古道)は、秋に落葉すると村山市側の県道から見ることができます。ほぼ並行して見えます。オレンジ色の線が街道Cであり、水色の線が街道Bです。


 

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「背中炙り峠の楯」調査結果の中間報告(2)

2016-03-21 18:52:16 | 歴史

 「背中炙り峠の楯」調査結果の中間報告(1)を投稿してから何か月も経った気がします。投稿した自分でさえも(1)の中身を記憶していません。どこかの政治家がおっしゃる「記憶にありません」のつもりはないのですが、見事に忘れてしまっています。年のせいか、はたまた生まれつきのものなのでしょうか。

 さて、自分の記憶力のなさは今に始まったことではないので、気にしないで先を急ぎます。(1)で私なりに制作した下手な図面をお見せしていましたが、閲覧者も「記憶にありません」とおっしゃるでしょうから、再度、楯の主要部分を掲載します。それに図面も進化しています。堀切に番号が入りました。

 

 そして、全く新しい場所にも堀切がありました。二の切と三の切の奥にある尾根の上にあります。尾根は主郭から南へ伸びており、東西の両方向が断崖です。その狭く切り立った尾根を堀切が寸断しています。堀切としては小規模ですが、元々の地形が険しいので、さして造作を施す必要がないくらいです。堀切(5)と堀切(6)の間には不思議な平たん地があります。曲輪と言えるほどの広さはありませんが、ただ単に広くなっている感じではなくて、何らかの目的を持って作られた広場のようです。幅が8mぐらいありますから、ちょっとした見張り小屋程度の物を建てることができそうです。

 

 それでは、一部だけになりますが、楯の施設の写真をお見せします。

先ずは堀切(2)です。堀切の右が曲輪(5)です。左側が曲輪(7)で、曲輪(5)よりも高所になっています。堀切の東側から撮影したもので、堀切の中は長年の間に落ち葉などがうず高く積もってそこが浅くなっています。もしも文化財行政が大きく大きく改心して、落ち葉などの堆積物を除去するなどしたら、きっと鋭く掘られた堀切が姿を現すでしょう。

 

 次に堀切(3)です。左側が曲輪(7)の主郭です。堀切(2)よりもずっと大きく作られています。堀切の向こうに見えるのは、大平山(真木山)です。左の人が立っている所は曲輪(8)の北端です。堀切の上に作られた虎口は、堀切の中央付近ではなくて東端にあります。虎口の直ぐ向こう側には、一の切の絶壁が迫っています。堀切(2)の場合もそうですが、堀切の東側はかなりの急斜面がはるか下方に急角度で落ち込んでいますので、四百年以上も経った今でさえも木が生えていません。もちろん、今でも東側に転べば、無事に帰れません。足がすくみます

 

 今度は尾根から外れた場所にある堀切(4)です。峠から村山市側へ降りていく街道(古道)の上にあり、曲輪(8)への侵攻を塞ぐ働きをしています。これまで紹介した堀切は、どれも尾根を断ち切ったものでしたが、この堀切(4)は山の斜面を横に掘りこんだものです。元々、斜面だったわけですから片方は高く位置しています。それを掘りこんだので、高い側が益々、高い急斜面になっています。この形は堀切を作ったというよりも、高い切岸を作ったようなものです。私には切岸の定義が分かりませんが、単に防御用の人為的に作られた急斜面とすれば、これも立派な切岸と言えそうです。それにしても、切岸の定義が分からないものですね。築城用語にこだわらない学術用語があってもよいような気がします。私は理系人間ですので、考古学者の都合も考えずに勝手なことを言います。ところで、この堀切(4)も落ち葉などがいっぱい堆積していそうです。

 今夜もパソコン作業に疲れてきました。あと数か月で我が家となる場所のリフォーム作業で、最も大変なところは先日、専門業者によって終了したのですが、私が作業するところがまだいっぱい残っています。やればやるほどに修理したい場所が増えてきます。いつになったら終わるのでしょう。今日も寸法を間違えてコンパネとフローリング材を切ってしまいました。このごろ、やたらとミスが多くなってきました。もしかしたら変調をきたしているのかもしれません。そんな時は、寝るに限ります。お休みなさい。

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沼沢の「沼」を探してみました。(5 最終章 これが沼の跡)

2016-03-15 20:32:56 | 歴史

 いよいよこの「沼沢の「沼」を探してみました」のシリーズが最終の投稿となりました。今回を含めて6回の投稿でした。

 さて、小三郎から遡って、さらに平三郎を過ぎると、左岸だけでなく右岸も高い急斜面となってきました。高い両岸に挟まれて、圧迫される感じがしますし、深山に分け入っている冒険小説の主人公のような勇ましい気分にもなります。右岸が迫ってきたのは、立石山の尾根が千鳥川へ伸びている場所です。千鳥川で最も狭くなっている場所でしょうか。川底は依然として岩盤です。

 狭くなったところから急に右岸が開けて、平らな面が広がっています。杉が植林されています。川底も大きな変化が見られます。岩盤が見えなくなって、20cm程度の石が転がっています。

 一方、左岸は峠から急激に落ち込んできた急斜面が川岸まで届かず、一旦、平たんになり、その末端が千鳥川によって浸食されています。浸食面は3m程度の崖を形成しています。

 左岸の奥を見ると、25mほどの先で平たんな地面が浸食された崖が見えました。その崖も川によって浸食されたものと見えますが、浸食された時期は大分以前のことのようです。この崖は大きく半円を描いています。ん!、どこかで見たような地形です。そうです。規模こそ違え、この下流で見たばかりの地形です。峠の山の斜面が崩落した土砂が、千鳥川を堰き止めて半円形の平たん地を作ったあの地形です。

 半円形の平たん地の中に、現在の千鳥川の河道と別に「過去に流れた川の跡」がありました。この川の跡を発見したことにより、半円形の地形というものが、堰き止められた地形であることがはっきりしました。

 上記の内容を整理して、下手な図にまとめてみました。じっと眺めれば眺めるほど、「下手だなあ」と思いますが、そこは閲覧者の優れた理解力で私の言わんとしていることを汲み取って下さい。

 さらに縦断面図なるものも描いてみました。本当に性懲りもなく下手くそな図を皆さんの前に晒します。少しでもイメージしやすくなればという心づかいのつもりですが、お分かりいただけるでしょうか。

 この浸食された崖の上端が昔の水面だった可能性があります。もし、そうだとすれば現在の川面よりも約10m上までに堰き止められていたことになります。しかし、この半円形の地形は私が目で確認した範囲内のことです。実は現地調査後に航空写真を見たところ、私が確認した半円形の地形のさらに外周にも一回り大きい半円形の地形が見えます。もしかしたら、私が確認していないもっと大きく堰き止められた地形があるかもしれません。まだ雪が高く積もっていますので、雪が融けたらすぐにでも確認したいと思っています。

 

 この場所が堰き止められた地形であり、堰止湖(沼)があったことは間違いないと思いますが、どのように出来たか、又はどのように作られたのかが謎のままです。下の写真を見てください。浸食されている崖です。下層部には角がとれた丸い比較的小さい石が見えますが、その上にはより大きい角がある石があります。下層部の石は川の流れで流されてきた石が、流れのままに積み重なっていますので、自然に堆積したと思えます。しかし、その上の土砂は、川の流れで上に重なったものではありません。その原因は二つ考えられます。一つは峠の山の急斜面から何らかの理由で落ちてきたものです。その場合、これほどの土砂が斜面に存在していたかという問題があります。斜面がかなり高いのであれば可能性がありますが、さほどの高さがありません。もう一つの理由は人によって運ばれたものです。その場合も問題があります。それだけの土砂をどこから運んだかということです。楯の曲輪を作っているときに生じた土砂を運び込んだか、それとももっと遠くから運んだかです。大胆な発想ですが、三の切の南側に尾根の上部がなくなっている不思議な地形が二か所あります。一つはゴローという石切り場、もう一つは名前が分かりませんが見事に尾根が消えています。二か所とも堰き止められている場所からはかなりの距離がありますし、適当な運搬経路を探せません。結局、正直言いまして、堰止湖(沼)の成因は分かりません。

 

 いろいろと、自分でも分からなくなるようなことを呟いても仕方ありません。以下に簡潔にまとめます。

1 平三郎と一の切りの間に、高く堰き止められた跡があり、ここに堰止湖があった。ただし、いつごろにできた堰止湖であるかわからないので、「沼」と言われたものであったかは分からない。

2 堰止湖は自然現象によって斜面が崩落したことによるものか、それとも人為的に土砂が運び込まれたことによるものかは解明できていない。

3 もし、楯があったころに堰止湖があったとすれば、防御に最適であったと思われる。


 さて、ここで話を変えますが、もしもここに堰止湖(沼)があったときに水面になっていたはずの場所に小字名がありました。それは「カイホウ・平三朗」です。「朗」の字は「郎」と違いますが、発音は同じ「オン」です。この平三郎は千鳥川から西に入る沢の名前ですが、堰止湖に連続します。平三郎は沢と沼を担当していた野辺沢軍の侍だったかなと想像してみました。

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沼沢の「沼」を探してみました。(4の2 千鳥川が堰き止められた跡を発見)

2016-03-14 20:05:20 | 歴史

 沼沢の「沼」を探してみました。(4の1 大まかな地形の特徴)を投稿してから、早くも一月近くも経ってしまいました。ようやく、忙しかった様々なことがひと段落しましたので、久しぶりに投稿する気になりました。

 ところで、お話は全く別な方向に行ってしまいますが、御勘弁ください。実は3月13日(日曜日)に畑沢地区生涯学習推進センターで、私がブログで紹介してきたことの中から一部を報告してきました。お話しした内容は、背中炙り峠、峠の楯、峠の湯殿山、ユキツバキについてです。資料を35部、用意したのですが、全部が使われたようですので、少なくても35人はおられたようです。お話を聞いて下さったのは、畑沢の人たちの外に延沢、細野、尾花沢、袖崎、丹生、荒町の方々です。どの方も、私が畑沢について勉強していた時に御指導・御協力して下さいました。そして、今回もお話を聞いて下さったわけですから、何ともありがたいことです。やっぱり、ふるさとの人たちは最高です。私は定年退職をしてから、「終わりよければ全てよし」の考え方で、これからは信頼できる人たちとのつながりを大事にしたいと思ってきました。正に、そのような時間の使い方をさせていただいています。これからもお付き合いをお願いしたいと思っています。

 今回、畑沢でお話ししたことについて、皆さんはどのように感じていただいたことかとドキドキしています。少しでも畑沢の魅力を再認識して下されば大成功なのですが、私の早口による説明ではどんなものでしょう。

 さて、「沼」に戻ります。閲覧者は、私の先の投稿をほとんど忘れられていると思います。その時は「沼沢の「沼」を探してみました。」をキーワードにして検索していただくと、これまでのブログがヒットするはずです。

 さて、お話を進めます。いよいよ、「沼」の跡を求めて千鳥川を遡ります。背中炙り峠へ登る途中から小三郎へ入り、その沢を千鳥川まで降りました。千鳥川の川底は砂岩状の岩盤になっています。左岸は、峠のある山がそのまま川に落ちた急斜面となっています。右岸は、岸辺だけはそれなりに急な斜面ですが、直ぐに緩やかな斜面が続いて、やがて立石山へ至ります。

 一見、単調な右岸と思っていたのですが、途中で変わった地形に出会いました。岸辺が半円形の段状に低い場所があったのです。大きな地形ではありませんが、周囲とは明らかに異なります。半円形の中が平たんになっていますので、畑や田んぼなどの耕作地にも見えますが、何故、そこだけがこのようになっているかの理由にはなりません。城跡や楯跡を俄か勉強している私は、「曲輪」などと何とかの一つ覚え的に頭に浮かんだのですが、とんでもない発想であることは明らかです。

 絵も下手な私なのですが、断面図も書いてみました。下手な絵でも、方向を変えて色々と手を尽くすと、閲覧者も御理解して下さるでしょう。

 しかし、私も理系人間です。理系的に考えました。小さな天変地異を想定しました。峠側の斜面は急峻です。千鳥川が、絶えず立石山と大平山から峠の山の方へ押されていますので、何万年もの間に峠の山は削られて急斜面になっています。千鳥川による直接的な浸食は岸辺だけですが、長い年月の間に十分に岸辺が削られると、その上にある斜面を支え切れなくなります。その時、大雨、雪崩、地震などがきっかけとなって斜面が崩壊することになります。いくら急斜面とは言っても、さすがに頻繁に起きることではなくて何百年、何千年の割合でのことと思います。

 次の図に半円形のできる過程を考えてみました。

① 峠の山から土砂が崩落してきた図です。千鳥川は堰き止められてしまい、上流側に水が溜められます。

② 崩落した土砂の末端まで水が溜まると、その末端から水が溢れ出し、水の流れている所が浸食されます。

③ 水は崩落してきた土砂をも浸食して、元の河道へと戻っていきます。

 完全に川の流れが元の河道に戻ると、それまで水が溢れた場所は、半円形に窪んだ地形となって残ります。

 このような地形は、二か所見つけています。この地形ができた時期は、おそらく近年ではないでしょう。山の木々が盛んに伐採されて、斜面を支える力が乏しくなった時代と思われます。野辺沢銀山が盛んなころ、広範囲にわたって木炭作りが行われたと言われています。16世紀半ばから17世紀半ばが最も可能性があると思います。木の根は、伐採されてから15年ほどで朽ちてしまうそうです。根が朽ちれば土砂が崩落します。

 それでは、この半円形の地形が沼の跡でしょうか。大きく見積もっても、たかが水深は4m程度、幅7mです。とても、この地形で沼沢の「沼」を見つけたとは言えません。それに直ぐに上流から運ばれてきた土砂で、極浅い水面となってしまいます。「沼」は別な所にあるのかもしれません。千鳥川を遡って調査を続けました。

 ああ、久しぶりの投稿でかなり疲れてしまいました。続きは後日とさせていただきます。

 

 

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