-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

延沢の龍護寺と六沢の円照寺に行ってきました。

2019-09-30 18:32:32 | 歴史

 令和元年9月29日、北村山地域史研究会が主催した「延沢城周辺の古寺と石仏・石塔を歩く」に参加してきました。畑沢通信では、楯跡や石仏などを扱ってきましたので、私は全く歴史に興味がない訳ではないのですが、正直なことを打ち明けますと、私は「由緒ある」とか「権威ある」とかに対しては、関心がとても薄い傾向があります。典型的な理系人間だからでしょう。そのためでしょうか、常盤地区で生まれ育ちながらも、一度も由緒ある龍護寺と円照寺を訪ねたことがありません。そんな私ですから、今回は私にとって全く新しい世界を知る絶好の機会でした。ただし、今回は最初で最後の見学だと思いましたので、しっかりと撮影の準備をしていきました。説明もしっかりと聞きながら、しっかりと撮影するのは至難の業です。ましてや両方とも未熟な私です。結果は両方とも上手くできませんでした。

 常盤地区公民館に午後1時半に集合してから、直ぐに龍護寺に向かいました。龍護寺は野辺沢家の菩提寺だったそうです。菩提寺とは先祖が弔われている寺の事だそうです。

 先ず入り口です。龍護寺の山門があります。これは、今年の5月、「尾花沢市観光ボランティアガイド養成講座」で同じ人から教えて貰いましたので、今回で二回目です。贅沢な機会を得た訳ですから、絶対に説明内容を忘れてはなりません。できるかなあ、この頭ではねえ。でも「これが野辺沢城の大手門」だったことはしっかり頭に残っていました。


 鐘撞堂(つりがねどう)です。説明はなかったようですが、私には見るもの聞くものが全て初めてです。


 最上三十三観音の第二十二番の「延沢観音」のようです。説明はなかったと思います。何しろ、説明して下さる人から大分遅れて追っかけていましたので、説明があったのかなかったのかが分かりません。我ながら恥ずかしい限りです。二兎を追う者一兎をも得ず。

 

 これは大事な説明でしたが、最初の所を聞き漏らしました。野辺沢能登守(二代目野辺沢城主)とかの墓と言われているようです。しかし、今回の説明者は大したものです。この板碑型の墓碑の額にあたるところに二条の線が刻まれているので、石塔の形式がそれぞれ三人の墓と言われているものの中で、最も古い形式があることから、初代城主の野辺沢薩摩守の墓碑の可能性が高いとおっしゃっていました。このように、これまでの説を鵜呑みにするのではなくて、きちんと理論的に考えを述べられるのは、大変、面白いものです。


  次の説明でも大事なところを聞き漏らしました。後で調べたら、三代目城主の墓と言われているそうですが、これも円照寺にある墓や上記の最初の墓との関係から再考すべきことのようです。

 ところで、表面が黒いのは、どなたかが拓本を取ろうとしたが、石塔に貼り付けた紙に墨を塗るべきなのに、誤って石面に直接、墨汁のようなものを塗ってしまった結果のようです。いるんですね昔から、私のようなおっちょこちょいが。そのために、この先もずっと黒いままでしょう。


 古い五輪塔です。石塔に文字か刻まれています。空、風、水、地の文字が見えます。火の文字は見えませんが、風の下になっていて、地面に埋もれているそうです。本当はこれらが縦に一続きになります。それならば、そのように直してあげればいいと思うのですが、どうしてこのままにしておくのでしょう。分かりません。


  今度は野辺沢家の家臣に関わるものです。板碑型の供養塔が沢山ありましたが、私がミスしてしまい、そのことが分かる写真を撮影しませんでした。この龍護寺の墓地が単なる墓地ではないことが直ぐに分かる独特の景観です。先ほどの薩摩守の墓碑は、どっしりとした形の板碑型でしたが、家臣たちのそれは細長く、上部が三角になっています。しかも沢山ありますので、一見、円山応挙の幽霊を思わせる不気味がありました。これほどに家臣たちが大きな板碑型の供養塔を建てることができたというのは、野辺沢家滅亡と言えども、家臣たちは余程の余裕が残っていたことを示しているような気がします。有路但馬の子孫と言われている畑沢の有路家や最上町堺田の有路家だけに資産があった訳ではなさそうです。う~~ん、面白い野辺沢家臣団。

 下の写真は、土屋作之亟という家臣が建てたものです。土屋作之亟は野辺沢家がなくなってもこの地に残り、幕府から延沢銀山の採掘を請け負って大量の金銀を採掘した者です。熊本で死んだ三代目城主の弔いもこの人が面倒みたもののようです。尾花沢市史編纂委員会編集の「延沢軍記」の125、126ページを御覧ください。尾花沢市民図書館と村山市民図書館にあります。


  折角、説明しているのに、私は全く関係ないことに関心を持ちました。どなたかの墓石に下の家紋が刻まれていました。龍護寺には発見がいっぱいです。龍護寺に限らず、どこの墓地でも三つ柏の家紋が多いのですが、この家紋には全くお目にかかった事がありません。近くの方に聞いても御存知ないとの事でした。ネットで片っ端から3,20もの家紋を調べても、これとおなじものは見つかりませんでした。似ているのが「三つ割〇…〇」というもので、〇…〇の部分には、桜、片喰、桔梗、花菱と多彩です。この家紋は何らかの花を三つ輪に並べたようです。


 龍護寺の最後です。これも今回の説明には関係ありませんが、山形県内では珍しいようです。自然に生えているのは福島県までで、山形県には自生していません。つまりこの木は、庭木として植えられて大事に守り育てられて、このような大木になっています。正体はコウヤマキです。私はコウヤマキという名はどこかで聞いたような気がしますが、見たのは初めてです。確かに珍しいものでした。


  龍護寺をあとにして、三日町を過ぎてトンネルを抜けると、今度は六沢の円照寺です。下の写真は山門です。屋根についている家紋についても説明してくださいましたが、例の如く記憶に残っていません。何か興味深いことだったような気がします。


 正面の建物は円照寺の本堂です。左には鳥居が見えます。私はこのように神様と仏さまが仲が良いのが好きです。

 

  鳥居の奥にあるのは、六沢観音です。最上三十三観音の第二十三番です。


  さて、今回の主題である野辺沢家所縁(ゆかり)の墓碑を求めて、境内の最深部へ登って行きます。一番、高い位置です。

 

 これが野辺沢薩摩守(初代城主)の墓と言われているものです。ところが、説明者は「遠江守(三大城主)に因んだ各種の文字が多いことと、三代城主の正室であった松尾姫の墓の隣にある」ことから、薩摩守のものではなくて、遠江守の墓碑とすると辻褄(つじつま)が合うとのことでした。この説明にも感服しました。いいなあ、このような既成概念に囚われない研究者の態度には好感が持てます。

 

 遠江守の正室であった松尾姫の墓です。私には文字が全く見えません。どこを見ればそれと分かったのかが不思議です。ところで、「松尾」の文字は、山形市の南、上山市に近い所に蔵王から流れてくる川にもあります。松尾川です。川が先なのか姫がさきなのか、興味深い所です。

 

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荒町 八幡神社に寄って見ました。

2019-09-27 15:40:27 | 歴史

  タイトルを御覧になって、不審に思われた方もおられるでしょう。まして私を御存知ならばなおさらです。そもそも、由緒ある神社を訪ねるなどは、私の柄に合いません。そうなんです。私は元々、別の目的でここにやってきました。楯跡がないかと探しに行ったのです。畑沢に楯跡が4箇所見つかり、そのうち2箇所は延沢軍記にぴったり合致して、藤木久志氏の著書「雑兵たちの戦場」で言うところの「村の城」に相当するものと思われます。しかし、常盤地区では畑沢の外には鶴子にそれらしいものがありますが、その他の地区には見つかっていません。私の推論では、「野辺沢城から遠い位置にある細野、古殿そして荒町の住民は城に逃げ込むことは困難で、独自の避難所である「村の城」を持っていたであろう」となります。そこで、畑沢に一番近い荒町を調べてみようとと思い、位置的に可能性が高い八幡神社が建っている山に登りました。

 荒町と言えば、畑沢から常盤小学校への通学路の途中にあります。あれほどまでに、あっちの山こっちの川と道草をしていたのに、神社仏閣へは一度も行ったことがありません。中でも八幡神社は県道から直ぐの所です。理系人間には縁がなかったようです。

 さて、切岸や堀切などの楯跡に関わるものは見つかりませんでした。しかし、八幡神社の素晴らしさに初めて気づきましたので、紹介します。この神社は旧野辺沢領内では最も由緒があるので、様々な説明書があります。しかし、あえてその説明を無視して、畑沢の大先輩である徳専寺住職だった青井法善氏の著書「郷土史之研究」から抜き出して説明します。次の縦書きは、その著書から短く抜粋したものです。旧漢字、旧仮名、変体仮名が使われています。

 未熟者ですが、一応、上記の文章を説明します。

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 八幡神社

 八幡神社は(大字延沢)字荒町にあって、応神天皇を祀っています。(応神天皇とは、第15代天皇と言われており、西暦200年代ごろの人らしいのですが、詳しいことは分かりません。武勇の神として崇められています。)この神社は天喜五年(今から870年前、2019年からは962年前)に熊野修験の髙龍が諸国を修行しながら野辺沢に来て創立したと言われています。中世になって元亀三年(355年前、2019年からは447年前)の正親町帝(正親町天皇のこと)の時代に、山形城主の最上義光の家臣である野辺沢能登守満延が、武運長久のために山城の国の京都で桧の柾目材で祠を作って領地内に運び、相模の国の鎌倉八幡の分霊を勧請してもらい、(八幡神社へ野辺沢家の)祈願所として30石の給金を与えて野辺沢家の総鎮守としました。いろんな物品を神社に献上したものが今も宝物として残っていののが多くあります。(最上)義光の時代に、山形八幡宮へ八月十五に御礼参りするにあたっては、この神社でも八月十三日にお参りをしてたので、今でも八月十三日に祭の音楽をしていますが、太陽暦を用いるようになってから祭の日は九月十三日としました。明治六年には村社の格式を与えられました。明治八年二十日に村社とした方が良いかもしれない(意味が不明です。)。

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 大きな鳥居がでーんと、神社への入り口に立ちはだかっています。

 鳥居を潜ると、もう奥には社殿へ登る石段が延々と続いています。この石段、果たして何段あるでしょう。 鳥居へ登る7段も加えて、149段ありました。中途半端な数ですので、もしかしたら150段かもしれません。なにせ私は一回で正確に数えたことがありません。是非、皆さんが確認してください。石段の脇に立っている杉は、一本を除けばまだ細いものです。樹齢は50年に満たないと感じました。恐らく、神社を建て直すときに伐採された後に再び植林されたものでしょう。

 

  一本だけ太い杉が立っています。注連縄(しめなわ)が飾られていますので、神木として扱われているようです。樹齢は百年を超えているでしょうか。

 

  人の形をした四体の像が箱のようなものを担いでいます。何をするための物かはとうとう分かりませんでした。

 

 この箱状の物体の脇には「明治十有七申年 九月吉日」 とあります。この年は「庚申の年」に当たります。と言う事は、庚申講に関係したものと言えます。庚申講は、仏教でも神道でもありません。明治になって神仏分離されても、庚申講は対象外だったようです。

 

 階段を少し登ってから、振り返って下を見ると、登り口の広場が見えました。全面が綺麗な芝生に覆われています。雑草も生えていません。余程、上手で念入りな手入れがされているようです。

 

 杉木立の中には、各種の石仏があります。湯殿山と白山(大觀現)です。

 

 こちらは、右に山神社、左に天満宮で、江戸時代の天保年間に建てられました。真ん中の石祠は分かりませんでした。このころ荒町も激動の時代で、畑沢出身のある人物が活躍しました。

 

 石段を登り切ると、社殿が現れました。実に立派に手入れがされています。羨ましい限りです。

 

 神社名が入った額です。揮毫した者の名前らしき「陸鎮□」が入っています。篆刻まで刻んであります。

 

 狛犬(こまいぬ)でしょうか、象らしきものも神社を守っています。

 

 神社の西側奥にはブナ林が広がっています。心配なことがあります。楢枯れの時にブナの枝がダメージを受けたような感じがあります。ブナも楢も栗もブナ科です。

 

 

 

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天気は上々 稲穂は垂れる

2019-09-26 16:28:21 | 近況報告

 令和元年9月25日、背炙り峠を越えて畑沢へ到着しました。早生種の稲刈です。少し前から稲が黄金色に変わっていて、稲刈できるような状態でしたが、あいにくコンバインの都合がつかなかったので、この日の作業になりました。コンバインが入る前に、田んぼの四隅を手で刈り取っておく必要があります。大小二台のコンバインが動き回るので、忙しいかと思ったのですが、二台の役割を上手く分担していましたので、余裕ある刈り取りの手作業でした。

 コンバインでの刈り取りが原則でしたが、旧正月での「オサイド」に使う藁(わら)も必要との事で、「ハセ木」がけの稲もあります。しかし、脱穀だけはコンバインの機能を使います。

 コンバインには刈り取りと脱穀が終了した籾(もみ)が溜まり、満杯になるとトラックの荷台に積まれている大きな袋に移されます。

 

 以上が稲刈作業ですが、私はそれだけでは済みません。得意な「忙中閑あり」です。私の好きな魚を川面から覗いてみました。澄み切った水の中に、三匹の魚影がありました。廉価なカメラを望遠にして撮影したのですが、やはり限界があります。この程度にしか写りません。それでも岩魚らしき魚が見られます。でも正直、申上げると岩魚と断定できるものが分かりません。アブラハヤではない大きさで、ウグイの特徴が見られないことから、消去法で岩魚と言っているだけです。20cmぐらいありました。岩魚だとすれば、秋深くの産卵時期に向けて、さらに遡上するでしょう。

 道端にも目を引くものがありました。蓼(タデ)です。「蓼食う虫も好き好き」と言われるあれです。じっと見ると中々、味がある花です。

 

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マダ マンダ ってなんだ?

2019-09-16 21:42:51 | 民具

 投稿を一月以上もお休みしていました。理由は怠慢です。夏バテと言うか加齢と言うのか、いろんなものがあります。

 さて、私はいろんな物を捨てられずに大事にとっておく性格です。「もう少し時間に余裕ができれば、何かに使えるかもしれない」の理由です。特に貯めこんだのが木材です。バードカービング用の彫刻できる原木、DIY作業での端材などが主なものです。狭い住居のかなりのスペースを占めています。因みにバードカービングとは鳥の木彫りです。

 ところが還暦はとっくの昔に過ぎてしまいましたので、残されている時間的余裕が段々となくなり、「……すれば」の理由が成り立たなくなってきました。早い話、「……すれば」が、単なる空想であったことを自覚しました。そこで、畑沢の薪ストーブの燃料にしようと、直径15cmほどの原木をぶつ切りにしておいたところ、近くに来た人から質問を受けました。

「それは何か特別のものですか」

「いいや、ただ薪にするだけです。シナノキだが利用する当てがなくなった」

      すると、

「昔はその木をマンダヌギと言って、樹皮を蓑やハケゴの材料にした」

と言ったではないですか。とっさに今から40年ほど前に、畑沢の父が「マダ」とか「マダヌギ」と言っていたことを思い出しました。「ヌギ」は「〇〇の木」を意味しています。栗の木はクリヌギ、桃の木はモモヌギ、が同じですから「マダ」も「マンダ」も同じ物を意味しています。訛りでの発音だと違いが分かりません。畑沢でも山形でも「マダ」「マンダ」と言う特殊な呼び名が共通しています。

 もしやと思ってネットで調べたら、新潟北部、秋田県、宮城県、岩手県も共通で、東北で広く使われていた木の名前でした。利用の仕方も共通です。樹皮から繊維を取り出して、蓑などの農具や布に使ったそうです。

 私はさらに畑沢の小屋にあった物を思い出しました。繊維の束です。一つは糸車に巻かれたものです。もう一つは繊維だけが束ねられています。

 

 私の少年時代では、畑の植物から取る繊維は、青苧(あおそ)糸だけでしたからシナノキの繊維は知りませんでした。当然、畑沢に残っている繊維も青苧だと思っていました。ところが、畑沢にあった蓑には青苧や藁以外の材料が使われていたような気がしました。明らかに違う色と形です。やはり、青苧以外の物が蓑に使われています。


 もしやと思い、残されていた二つの繊維の束を拡大して撮影してみました。すると、細い繊維を一本ずつ繋いだ姿が見えました。

 

 これは鶴岡市と新潟県村上市のシナ織で行われている手法と同じです。シナノキの樹皮を使ったシナ織は北国で広く作られていたようですので、畑沢でも例外ではないはずです。私の家にあった繊維はシナノキの樹皮の可能性が高くなりました。でも、確認できる方がいません。

 今では鶴岡市や村上市などの数少ない所だけにシナ織が残っていますが、昔は畑沢も含めた広い地域でシナ織が作られていたものと思います。畑沢の実家にあった繊維も大事に保管しておくことにします。

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