-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

江戸時代の中ごろから終わりまでの畑沢の死亡者数

2014-03-31 22:22:45 | 歴史

 畑沢村における、江戸時代の中ごろから江戸時代の終わりまでの死亡者数に関する調査結果があります。昭和45年に山形県立楯岡高等学校の社会部が畑沢で合宿しながら調べ「郷土 Ⅱ」としてまとめたものの中にあります。

 同書には、「畑沢年次別死亡者表」として、時系列を横軸にした折れ線グラフで掲載されています。残念ながら、横長のグラフはこのブログに掲載することができません。やむなく、グラフから実数を読み取った数字をパソコンに打ち込んで、縦長の棒グラフに作り替えました。

 楯岡高校社会部は、延沢の竜護寺と畑沢にあった徳専寺という二つの菩提寺に残されていた記録を調べました。西暦1723年から1868年までです。単純に計算すると、156年分にになります。しかし、享和二十年(1735年)が欠落していましたので、正しくは155年分になります。それにしても、当時の高校生の頑張りには脱帽します。よくぞ、ここまでやってくれました。

 死亡者数を見ていると、大幅に増加しているところが随所に見られます。これは、天候不順などによって農作物の成長が悪くて村人の食糧が不足してしまった結果によると見られます。江戸時代には何回も大飢饉がありました。全国的には四大飢饉と言われているのは、寛永の大飢饉(1642、1643年)、享保の大飢饉(1732年)、天明の大飢饉(1782~1787年)、天保の大飢饉1833~1839年)だそうですが、東北地方では、少し違いまして寛永と享保の替りに天保の大飢饉(1833~1839年)があげられています。

 さて、畑沢の場合を見てみますと、宝暦、天明及び天保の大飢饉では、通常一けた台の死亡者数が15、16人に跳ね上がっています。当時の村の戸数は45、46戸と思われますので、1年間のうちに3軒に1軒の割合で亡くなっことになります。1か月に1回以上葬式があったようです。やはり大飢饉は村人を地獄のような苦しみを与えました。

 ここで天明の大飢饉をもう一度見てみます。天明の四年に12人が死亡しましたが、宝暦六年及び天保八年の一六人の死亡者数よりは、大分、少ない感じがします。天明の大飢饉の時に畑沢の死亡者数が少ないのは、何故かと考えてみました。実は思い当たることがあります。当時、村の大金持ちが「窮民対策」をしていました。以前に古瀬吉右衛門という大金持ちが、畑沢村民の窮状を救うために、一大事業を実施しました。畑沢から尾花沢までの街道の橋を全部、石造りにしました。畑沢の奥には「ローデン」とちいう石切り場がありますので、ここからも石が切り出されたと思いますが、不要となった墓石も多数使われたとの伝説が残っています。石橋を造成する作業には、畑沢の村人が人足として働いたお蔭で、飢えから免れた村人が大勢いたものと思われます。

 大飢饉に限らず、宝暦元年、享和二年、文政十一年、嘉永五年でも二けた代の死亡者数です。大飢饉以外にも、度々、天候不順があり凶作となりました。江戸時代は全体的に地球全体が寒冷化しており、小氷河期の中だったとも言われています。

 

 ところで、今年も畑沢祭が近づきました。4月15日(火)です。下畑沢の熊野神社でお祓いが行われます。私は去年からお邪魔しています。畑沢流に言いますと「まじぇでもらってます」。私のように長い間、畑沢を離れていた者も温かく迎えてくれました。いろんなお話も聞くことができます。皆さんもどうかいらしてください。

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畑沢の朝日は、もう春の兆し

2014-03-25 20:32:16 | 近況報告

 今年になってから、大平山へ登る企てを三度も立てました。今日は朝の五時半から清水畑から大平山に向って、第一歩を繰り出しました。ところが、最初からズボッと靴が雪にめり込んでしまいました。前日に天気予報を確かめたところ、明日は最低気温がマイナス4度Cになり、その後は快晴とのことでした。早速、前日の夜九時にご飯を炊いて、握り飯と朝の弁当を作っておきました。十分な準備をして臨んだ大平山登山でしたが、残念ながら現場へ到着して、雪がまだ「かた(固)雪」になっていないことが判明しました。上畑沢であ会った早起きの古瀬I氏によると、「21日に大分、雪が降ったのが固まらない」のだそうです。しょうがありません。そのまま、すごすごと引き返しました。

 早朝に畑沢にいることは滅多にありませんので、朝の風景を撮影しました。まだ家々には朝日が当たっていませんが、右上の山の上には日が当たっています。完全に春先の日の色です。

 

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千鳥川の下流

2014-03-21 18:39:38 | 自然

 千鳥川は大平山を源流として、荒町で朧気川へ合流します。ほとんどの畑沢地内での千鳥川の両岸は、大人の背丈よりも高くなっていて、岸から川に降りることすら困難で、近づくことさえ怖い感じを与えます。昔はこんな状態ではなかったのですが、河川工事の仕方によるものです。しかし、下流に行くと、岸の高さは次第に低くなります。写真は松が沢付近です。と言っても場所が分かりにくいと思いますので、別な言い方をすると、「松母(マツボ)」の西側です。朧気川との合流点には、まだ距離がありますが、ほぼ畑沢の終わりになります。

 岸はだいぶ低くなっていて、大人の背丈ほどにはありません。これぐらいですと、もう怖さはありません。川へ降りて、水遊びをしたい気持ちになります。

 ところで、本当は、昨年、千鳥川の源流から最下流までを調査するつもりでしたが、いろいろのことでできませんでした。「今年こそは」と今年も言っています。

 ところでこの写真は、去年の11月です。

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地集電話、農集電話だったかなあ

2014-03-19 18:06:44 | 思い出

 畑沢の実家に直径が約20cmのガラス製の灰皿があります。今まで、中を覗いたことがなかったのですが、よく見ると字が書いてありました。「一般電話開通記念 昭和55年10が31日 尾花沢地集電話連絡協議会」とあります。

 そこであれこれと電話に関する昔のことを思い出してみました。私が物心がついたばかりの時は、畑沢には一切、電話機がなかったようなようです。その後、商店をやられているお宅に村のたった一つの電話が入りました。その頃の電話は、箱型の真ん中にマイク、左に受スピーカーに相当するもの、右側にぐるぐると回すハンドルがありました。

 村で一つしかありませんので、外から電話がかかってくると大変です。商店の御家族がどんなに遠くても電話の相手方へ連絡をしなければなりません。これが、真冬ですととんでもないほどの御苦労をおかけしていました。当時の冬道は、一人がやっと歩ける一本道です。自転車も使えません。何キロもの道を歩いて知らせてくれました。本当に申し訳ない気持ちでした。

 それから、昭和40年代の中ごろでしょうか、一軒一軒に電話が入るようになりました。それが「ノウシュウデンワ」という発音でした。どのような漢字になるかは分かりません。

 上の写真は、「ノウシュウ」ではなくて、「地集」です。私の頭は直ぐに混乱しましたので、調べてみました。「地集電話」とは、「地域集団自動電話」だそうです。「ノウシュウデンワ」は、漢字にすると「農集電話」となり、正しくは「農村集団自動電話」だそうです。ということは、畑沢では、次のように電話の種類が変移したものと思われます。

農村集団自動電話 → 地域集団自動電話 → 一般電話

 地域集団自動電話から一般電話に変わった記念がこの灰皿だったようです。昭和55年ですから、当時、私も若かったはずです。ついでに未熟者でした。

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そろそろ橇(そり)引きが始まっていました。

2014-03-15 18:24:53 | 思い出

 毎年、三月の後半になると、田んぼに堆肥を運ぶ橇引きが始まっていました。橇には一畳分の広さがある木の箱が括(くく)り付けられ、その上に堆肥が積まれます。三月の後半になると雪がザラメ上になり、夜間の冷え込みでガンガンに硬くなります。その硬い状態は午前10時ごろまで続きます。これは橇引きには最適で、橇を引くために足を踏ん張っても足が雪の中に沈みこむことはありません。橇の下の雪も変形しませんので、摩擦抵抗が極端に小さくなり、快調そのものです。次第に気温が上がると、橇を引くのが重くなり足元もゆるくなってきます。

 田んぼには、橇で堆肥を運ぶ前に1.5m四方ぐらいに雪を掘って穴を開けておきます。穴に到着すると、木の棒を橇の下に差し込んで橇ごとひっくり返します。穴の大きさが橇の長さよりも短いのがミソです。橇よりも大きいと、橇をひっくり返した時に橇まで穴に落ちてしまいます。

 この写真は昭和45年ごろのものです。

 堆肥は、三月の橇引きまで、一年かけて蓄積されます。昔はどこの家でも牛を飼っていましたので、牛舎から出る糞尿が浸みこんだ敷き藁を積み上げておきます。堆肥が積みあがったものを「こえづか」と呼んでいました。「肥え塚」という意味だと思います、堆肥が積み上がった塚ということでしょう。

 この橇引きは、思わぬ体力強化の効果がありました。全力で橇を引きますので、足腰の特別な筋トレになりました。この筋力は、春の記録会まで続いて、自分でも信じられない記録を作ってくれました。ただし、私の場合は常盤中学校という範囲内でのお話です。尾花沢市全体ではもう通用しません。

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