-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢の「ビッキ」はアイヌ語と共通

2020-01-21 09:59:10 | 歴史

 令和2年1月12日(土)、山形県内では「なんでも鑑定団」が放映されました。その中で、砂澤ビッキという彫刻家の作品が出てきました。作品も私好みでしたが、それよりも大きく関心を持ったのは「ビッキ」という名前です。番組の説明によると、アイヌ語で蛙(カエル)のことを「ビッキ」と言い、名前はそれに由来するとのことでした。それを聞いた時には驚いて、頭の中に電気が流れたような衝撃を受けました。長年、ビッキの謎が解けたような気がしたのです。カエルをどのように訛(なま)らせても、ビッキに繋(つな)がりません。カエルの発音とは全く別の所に語源があったようです。私の好きな縄文文化の流れがあったのです。縄文時代は北海道から沖縄まで同じ縄文文化圏にあったとする説には説得力があります。ところが、江戸時代に始まった「国学」では、「その昔、本州などはアイヌ人が住んでいたが、大和民族によって北海道に追いやられ、今は大和単一の民族になった」としていた。その証拠として、東北地方の地名にアイヌ語と共通する「…ナイ」「…ベツ」が付いているものが残っていることを挙げていました。別に遺伝学的な証拠がある訳ではありません。「大和単一民族」を正当化するための強引な屁理屈です。その歴史に関する考え方は、国家神道をテーゼとしていた戦前まで続き、その後、戦後の教育を受けたにもかかわらず、今もその考え方を引き継いでいる「歴史学者」がおられます。私のような理系人間には理解しがたいものです。ん!本題から脱線しようとしていますので、戻ります。

 地名だけでなく、動物の名前にも日本列島全体が縄文文化が残されていました。縄文時代と言えば、今から一万数千年前から始まったそうですから、ビッキも大した歴史を背負っていることになりますし、ビッキ文化を共有している東北地方はビッキとともにありました。

 先ずは畑沢のビッキたちに登場してもらいます。

 トノサマガエル

 ヤマアカガエル

 ツチガエル

 シュレーゲルアオガエル

 アズマヒキガエル

 ヒキガエルは別称ガマガエルです。畑沢ではダエドビッキと言われ、別格の扱いでした。このビッキは、元々、北海道にいませんでしたから、ダイドビッキはアイヌ語と共通性はありません。

 外にも畑沢にビッキはいます。例えばアマガエルですが、身近に沢山、いますので、いつでも撮れるということで写真はありません。カジカガエルは千鳥川にいますが、千鳥川で撮影をしていません。モリアオガエルは昔、田んぼに突き出した枝に沢山の卵を産んでいました。

 

 標準語とかけ離れている動物の名前は、まだまだあります。その中で「アッケ」を知りたくなりました。アッケとは次の写真のような生き物です。

 オニヤンマ

 サナエトンボ科の一種

 シオカラトンボ

 カワトンボの仲間

 キイイトトンボ

 エゾイトトンボ

 そうです。アッケとはトンボのことです。正確には、畑沢でイトトンボの仲間は「神様トンボ」と特別な言い方もしていましたので、正直なところ、これらをアッケと言っていいのか自信がありません。畑沢のアッケは他にも沢山の種類があります。〇〇アカネなどの赤とんぼと言われている小型の各種トンボは写真の整理ができていません。

 さて、「アッケ トンボ 方言」をキーワードにしてネットで検索すると、不思議なことにヒットしました。アッケやそれと似たトンボの方言が豊富にあることが分かりました。それも畑沢から遠く離れた地方にもです。山形県内では、アッケの外にアケズなどもあり、似たような方言が東北、関東へ広がり、中央部を飛んで九州にも残っているそうです。このような方言の分布を方言周圏論と言うのだそうで、柳田邦夫や橘正一の名前がネットに出てきます。アッケはその代表的な例として掲げられています。その他の多くの方言でも同様な事があるようです。

 ネットの「北海道方言辞典」によると、北海道ではトンボをアキズと言う方言があるそうで、似ています。しかし、アイヌ語ではなくて、北海道の方言と言った場合は、本州などから移住した人が出身地の方言を使っていることも考えられますので、こちらはアイヌ語とは関りがないかもしれません。

 これまでの「日本人は何所から来たのか」についての諸説の中に、「列島全体に縄文人が住んでいたが、大陸から人間が北九州、瀬戸内海沿岸、近畿へと入って来たので、縄文人の血を濃く受け継ぐのは、北海道・東北や九州・沖縄などの周辺に残った」との考え方があったような気がします。私も大賛成の考え方です。いろんな地域の人たちと一緒に酒を飲むと納得します。本州の中央部の人は酒が弱かったのです。大陸系はアルコール分解酵素の力が弱いとのことです。ん!また本題からずれてきました。つまり申上げたいのは、アッケに見られる列島の周辺部の方言に共通性が高いのは、元々、中央部と周辺部が分かれるものではなくて、全部が繫がっていたと考えられることです。畑沢で何ともなしに「アッケ しぇめ」をして、尻尾の一部を手でちぎり、藁(わら)ミゴを差し込んで虐待していた悪ガキは、日本人類の歴史を冒涜(ぼうとく)していたのです。アッケはビッキ同様に御先祖様と私たちを繋ぐ神様の使いのような存在でした。

 ところで、畑沢に残っている方言の中で、語源を想像することができないものは次のとおりです。

 マミ ; アナグマ

 チョンパ ; 蝶

 ツブ ; タニシ

 ハダヤラ ; 踏まれていない雪

 スガ ; 氷

 ドフラ ; 雪上に作った落とし穴

 タラボ ; 下畑沢の沢の一つで、田南坊という字があてられている。

 ヘンドリ ; 荒屋敷の奥にある遊水池

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畑沢に残る無縫塔(むほうとう 墓石の一種)

2020-01-18 18:21:24 | 歴史

 無縫塔とは僧侶などの墓石として使われるもので、一般人には用いられなかったものです。最初は禅宗の僧職に使われたそうです。私の数少ない経験になりますが、尾花沢市丹生地区にある巣林寺の墓地には、歴代住職の無縫塔が多数並んでいました。勿論、畑沢出身の関嶺(寒嶺)和尚の墓石があり、一つだけ特大の無縫塔が建っています。


その無縫塔が畑沢で新たに見つかりました。約1年前、M氏が「荒屋敷の奥に石垣の石のようなものが多数ある」とおっしゃるので、春に現場を教えてもらいました。その場所は細野地区へ向かう古道の脇です。石の上を覆っていた枯れ葉などを取り除くと、沢山の石が現れました。その中に無縫塔があったので、直ぐにこれらは墓石であることが分かりました。その日はカメラを持参していなかったので、秋に再度、調査を行いました。枯草の下から形の整った大きな石の塊が沢山、出てきました。


   分類すると、下図の四種類です。

A型が2基、B型が1基、C型が2基、D型が2基です。特にC型は特徴的な形で、断面が円になっています。紛れもなく「無縫塔」です。D型はその台座になっています。組み合わせると下図のようになります。


 B型も特徴的で、江戸時代の初期に用いられた墓石の形だそうです。A型はその後の時代の墓石の形です。つまり、どれも墓石であることが分かりました。

 ところが、問題は何故、ここに墓石があるかです。昔、ここが墓地であったとの言い伝えがありません。そもそも荒屋敷地区住民の墓地は、荒屋敷から南西方向約500mの「南の沢」の中ほどです。現在、生涯学習推進センターが建っている場所の奥にあります。

 墓石は互いに重なることなく整然と倒れている感じです。この倒れている状態も墓石の由来を考えるうえで大きなヒントになります。極、最近も墓参りをしていたと思われる物がありました。杉の根元の洞の中に、花を供えるときに使われたと思われる瓶とペットボトルが数多く置かれていました。長年、花を供えた跡です。これらのことから、この墓石は捨てられたようなものではなくて、墓として供養され続けてきたものであることが分かりました。そして、無縫塔の存在は僧職に関わる者の墓があるということです。僧職と言えば、昭和56年に廃寺となった徳専寺を思い浮かべますが、徳専寺の墓は別の所にあります。ほかに僧職と関係することと言えば、畑沢地蔵堂の庵主が考えられます。しかし、庵主のものと思われる墓は、既に地蔵堂の北側にある如意輪観音の脇にもあることが分かっています。そこには無縫塔と長方形の墓石があります。


 にもかかわらず地蔵堂の近くに墓を建てないで、わざわざ離れた荒屋敷の奥に墓を建てる意味が考えられません。それでは、明治になっての廃仏毀釈によって、熊野神社周辺にあった庵主の墓などが、荒屋敷に捨てられたとも考えられますが、それにしては整然と立っていたと見られますし、供養もされていたのが不思議です。

 さて、たまたまH氏からも貴重な情報を頂きました。「荒屋敷の奥に墓石があり、G家が面倒を見ていた」と言うのです。G家と言えば、嘉永四年(西暦1851年)にS家とともに百万遍供養塔を造立しています。百万遍供養塔を建てる前に、両家を中心にして畑沢地蔵庵の中で「念仏講」の数珠を回しながら念仏を唱えたことが窺えます。その際には勿論、地蔵庵の庵主も一緒のはずで、庵主と両家は信仰を通じて固く結ばれていたことは当然、考えられます。地蔵庵は延沢の龍護寺を本寺としていましたので、曹洞宗に属していました。S家とG家も龍護寺の檀家です。


 さて、明治になってからの廃仏毀釈は、目に余るものがありました。全国的に貴重な仏教関連の物が破壊されたそうです。例えば荒町の八幡神社境内にある白山大権現は仏が本地垂迹したことを意味する「権現」の文字が削られました。畑沢でもその愚行がなされた形跡があります。熊野神社の北西にある如意輪観音の顔が潰されています。権力の尻馬に乗って悪乗りした小役人がいたようです。ずっと大事にしてきた地元の人たちにはできない悪行です。

 太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」に基づいて、荒町の八幡神社は明治6年ごろ、畑沢の熊野神社は明治25年に「村社」に格付けされました。江戸時代までは神仏習合でしたので、熊野神社境内に庵主の墓があっても何ら不思議ではありません。しかし、明治になって、国家神道の名の下に仏教関係者の墓を神社境内から撤去された可能性があります。その時、SとGの両家は、如意輪観音の顔を傷つけるような酷い仕打ちを見て、何としても庵主たちの墓を守ろうとして、熊野神社から離れた荒屋敷の奥に墓石を移したことでしょう。両家は心優しい人たちであったと思われますし、その子孫の方々もその気持ちを引き継いできたようです。しかし、S家は今から百年前近くごろに畑沢を去りました。ひとりG家が供養を続けてきたのでしょう。

 青井法善氏の「郷土史之研究」によると、明治28か29年ごろまで畑沢地蔵庵には庵主がいたとのことなので、江戸時代の墓石が移転した後も庵主が亡くなれば、やはりこの墓石の場所へ埋葬された可能性があります。その場合は、単なる「墓石がある場所」ではなくて「墓地」と言うべきことになります。墓石が整然と立っていたと見える状況があるので、墓地である可能性が高いというべきでしょう。明治の初めからならば百五十年間以上、最後の庵主からだとすれば百三十年間近くも墓を守っていることになります。G・S両家の律儀な気持ちが伝わってきます。

 さて、これで畑沢で無縫塔は併せて6基確認できました。上畑沢の墓地に3基、下畑沢に3基です。下畑沢の無縫塔は上述しましたので、上畑沢の無縫塔について説明します。先ずは次の写真を御覧ください。

 

 全てが上畑沢の墓地の中にあり、どれも違う形をしています。上畑沢にも庵主が住んでいた庵(いおり)がありましたので、無縫塔は庵主の墓であったと推測しています。ただ、無縫塔が建っている場所は、戸別の区画の中です。庵主ならば庵として独立した場所にあるのが当然のように考えられます。下の写真のように、古殿の實相院の近くにも庵主の墓と思われる無縫塔があります。

 

 上畑沢の無縫塔について考えられるのは、庵主が上畑沢出身か又はその家と深い関係がある人だったものかもしれません。実際に下畑沢の庵主も上畑沢の庵主も畑沢出身の人がいたとの文献や言い伝えが残っています。この上畑沢の無縫塔には戒名が刻んであり、下畑沢の無縫塔に戒名が見えなかったのとは大きく異なります。まだまだ私は勉強不足で、この謎を解明できません。

 

文献名

著者又は発行者名

発行等時期

郷土史之研究

青井法善

1927年8月31日

畑沢之記録 

有路慶次郎

1958年1月

平成8年度岡田ゼミナール研究年報 地域史研究の方法と課題 山形県尾花沢市調査報告 第19輯

東北福祉大学社会福祉部

41番研究室

(大類 誠)

1997年

 

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雪を求めて

2020-01-15 21:14:06 | 近況報告

 今年は暖冬で、NHKのデータ連動で積雪量を見ても、尾花沢は0cmです。例年なら道路の両端に雪の壁が立ちはだかります。気象データの観測所は尾花沢市内は「尾花沢」の中にあって畑沢にはありません。久しぶりに畑沢へ出かけました。半月ぶりです。孫が来ると、娘と妻から「子守役」を仰せつかり、従わざるをえません。とても異議を唱えるなどの勇気を持ち合わせていません。当然、ブログの投稿は不可能になります。正月が終わり、孫たちもお帰りになされて、ようやく一息つくことができました。それでは直ぐに畑沢へ行くことができるかと言うと、そうもいきません。積もりに積もった家の仕事を片付け、さらに精神の回復する時間も必要でした。

 積雪がゼロですから、畑沢へは背炙り峠も通れるような気もするのですが、昨年の12月3日から通行止めになっています。仕方なく尾花沢を回り、さらに芦沢まで足を伸ばして「道の駅 尾花沢」を見てきました。やはりNHKは嘘をつきません。雪がありません。NHKを罵倒する国会議員がいましたが、私はNHKから守られています。NHKは、かんぽ生命の詐欺のような行為も正しく国民へ知らせようと頑張りました。ん!本題からずれました。

 「雪を眺むる尾花沢」になっていません。道の駅の前面は、がっちりと雪への守りを固めてパネルで覆われています。

 

 道の駅からさらに寺内も回り、かなりの道草をしながら古殿を過ぎました。車段方向の途中の朧気川の前には、吹雪対策の壁が万里の長城のごとく道路の脇を守っていました。雪がある時は大活躍をするのですが、雪がないと間の抜けたようにも見えて可哀そうです。

 

 畑沢には雪がありました。同じ尾花沢市内でも畑沢は雪が多く積もります。NHKの連動データだけでは分からないことです。

 令和2年1月15日のことです。

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