-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

田植えの前にコロコロ

2014-01-30 16:02:59 | 民具

 田植えをする時に、植える場所を示す線引きをする木の道具です。円筒形の直径は、1m足らずです。杉材で作られていて、見た目よりも軽くできています。今の田植えは機械で行われますので、この道具が使われなくなってから何十年の歳月が流れています。それでは捨てればいいのですが、大事に扱ってきたものですので、簡単に捨てる気にはなれません。そして、田植えには思い出が沢山詰まっています。田植えの時、私の家には何人かが手伝いに来てくれました。その時に、この道具は主に父の役割りでした。大人にとっては、問題なく軽々と扱える道具でも、子どもには大きすぎて扱えません。それでもいつかは、私が扱う時が来ると思っていました。私が大人になった時、この道具は不要になっていました。

 この道具の名前をまだ書いていませんでした。正直、申上げると分からなのです。単なる「枠(わく)」だったような、そうでないような状態です。どなたか教えてください。

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ある幼い日に道端に咲いていました(ウツボグサ)

2014-01-29 15:25:48 | 自然

 下畑沢の地蔵庵で夏に咲いていました。特に珍しい花ではありません。全国どこでも普通に見られる花です。花の名の「うつぼ」は、蛸の天敵である魚のウツボではありません。昔、士が弓矢を入れた「うつぼ」に因んだものだそうです。調べてみると、「弓矢を入れるうつぼ」には、色々な種類があるそうです。私は弓にも疎いのですが、私なりにこの花に似ている「うつぼ」を考えてみました。昔、囲炉裏のそばに「弁慶」と言うものがりました。筒形の粗目に編んだ竹篭に、藁を入れてあります。これを囲炉裏の上に吊るして、串に刺した川魚などを刺しておきました。この弁慶に似たもので作られた「うつぼ」があったと思います。

 ところで、私の幼いころの思い出をお話します。小学校へ行く前の年、幼稚園や保育園はありませんので、今の私のように、毎日が日曜日でした。すってんてんの体に、着物を着せられていました。当然パンツなどというものは身に着けたことがありません。その日、天気は上々、青空が広がっていました。私は一人で道路の脇にしゃがんで、虫を眺めていました。虻(アブ)だか蜂だか分からない特殊な虫です。その虫はたいして大きくないのですが、飛んでいる時は大きな甲高い音を出します。何匹かが、乾いた砂利道の上でじゃれ合っているかのように飛んだり止まったりを繰り返しています。そのうちに、砂利道の脇に咲いていた花に止まりました。その花の紫が鮮やかで、強烈なイメージを私に植え付けてしまいました。この花を見るたびにあの虫を思い出し、あの虫を見るたびにこの花を思い出します。そして、あのころの畑沢の情景が目に浮かんできます。

 今、畑沢の道路はアスファルトに舗装されていますので、道路の脇にウツボグサが生える余地はありません。ウツボグサは注意深く、畦道などを探す必要があります。

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謎の花は「ノギラン」でした。

2014-01-28 20:39:30 | 自然

 大分前に「何方か、教えてください。」といテーマで投稿しました。下畑沢で夏に撮影した花ですが、名前がどうしても分かりませんでしたが、今日ようやく分かりました。「ノギラン」だそうです。あのころ、私は「総状花序」であること、「葉がロゼッタ状」であること、「ユリ科」であることをキーワードにしてネットで検索したのですが、まるっきりヒットしませんでした。

 しかし、別の花を調べるために、図鑑を眺めていましたら偶然、発見できました。それによりますと、総状花序、ユリ科であることは同じでしたが、ロゼッタ状という説明は出てきませんでした。それでも、私の「いい加減でテキトーな勘」は間違いではなかったようです。これで益々、自分の「勘」に自信ができました。

 勘のことはどうでもよいことでした。失礼しました。肝心のこの花のことを説明します。ネットで見るノギランは白っぽいのですが、畑沢のノギランは色がかなり濃く美しいようです。花と花も個々の間隔が適度にあってバランスよく配置されています。ついでに葉の形も、上品でまろやかな感じがします。ここまで書きますと、私の「畑沢びいき」であることは間違いないようです。

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大きな戦争で多くの人が亡くなりました。

2014-01-26 17:12:56 | 歴史

 常盤中学校のグランドの北側には、戦争で亡くなった方々を慰霊する「忠魂碑」があります。太平洋戦争では日本の戦没者は240万人とも310万人とも言われています。随分と人数に差があります。当時の日本全体の人口は7千万人ぐらいだったようですので、約3%の国民が短期間のうちに悲惨な状況で亡くなりました。若い世代だけでの割合となると、どうなるでしょう。とんでもない割合になります。そして、犠牲者は死亡者だけではありません。傷病者が大勢いました。外見からでは分からない「心に深い傷を負った」まま、黙して語らない生活をしている方も、やはり大勢いらしたようです。そのような方々とは全く逆に、軍隊での階級を平気で自慢されている方もおられました。

 

 水上徳太郎氏が平成7年に発行された「日清戦争以降常盤地区戦没英霊芳名簿」によりますと、畑沢では、日露戦争で1人、太平洋戦争で11人が亡くなったようです。当時の畑沢の戸数は約50戸ですから、5軒に1軒の割合で悲しい戦死の知らせを受けました。

 年代別では、20歳代が7人、30歳代が4人です。

 亡くなった場所は、フィリッピンが4人、中国が3人、ビルマが1人、内地の陸軍病院が2人です。

 亡くなった時期は、昭和15年が2人、17年と18年が各1人、20年が6人、21年が1人です。21年に亡くなった方は亡くなった場所がビルマとありますので、恐らく、無謀と言われた「インパール作戦(昭和19年)」に参加して既に亡くなっていたがその時は確認されずに、戦後になってから死亡が確認されたようです。

 

 昭和19年ごろは日本敗戦の色が濃くなっていたにもかかわらず、戦争を続行したため大事な人命が次々と失われていきました。戦争で次代の担い手が失われたことによって、畑沢のような小さな集落では、その後の村の運営に大きな痛手を受け、衰退に拍車がかけられました。

 太平洋戦争で亡くなられた方々の中で、最も若い世代は、もしも御存命であったら90歳を迎えられていたでしょう。

 

 ところで、Wikipediakの「背炙峠」に背中炙り峠の歴史と現在の写真を載せてもらいましたので、御覧ください。

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石仏を造立した年代が物語るのは何か。

2014-01-24 14:30:35 | 歴史

 昨日のブログに引き続き、今回も畑沢以外の地区における石仏と比較します。

 古殿及び細野地区には、明治以降の石仏が見られます。

 古殿地区では昭和30年代にも庚申塔が造立され、細野地区の「馬頭観世音」は、大正年代に造立されています。

 

 それでは、畑沢ではどうでしょうか。

 御覧のとおり、明治維新(1868年)以降の石仏はありません。明治維新よりも少し前の時点で造立されただけで、明治になると石仏は全く造立されなくなっています。それまで、畑沢では戸数の割には甚だ多くの石仏が造立されてきました。私は、過去のブログでその理由を、背中炙り峠越え街道との関係で私見を述べさせていただきました。それを繰り返しますと、「背中炙り峠越え街道の運搬に関わる仕事によって、畑沢の人達の収入がかなりあり、その財力で多くの石仏を造立することができた」というものです。

 一方、まだ紹介していませんでしたが、「畑沢の人達はとても生活が苦しいと見え、救いを求めるために、多くの石仏を造立した」という考えで書かれた文献もあります。しかし、この考え方は間違いであると思います。生活が余りにも苦しい状態では、とても石仏を造立する余裕はありません。ある程度の余裕があってこそのことだと思います。畑沢にはかなりの余裕があったと思います。

 ところが、明治以降は背中炙り峠越え街道が急速に萎んでいきます。延沢から尾花沢への道路が整備されて、流れが大きく変わってしまいました。畑沢には、峠越えの運搬に関わる仕事がなくなってしまったでしょう。その結果、明治以降は畑沢で石仏を新たに造立する「力」がなくなったと考えられます。

 その点では、古殿、細野地区は明治以降も大きな変化が生じずに、以前のように石仏を定期的に造立できたのでしょう。また、当然ながら、庚申塔などはその地区における庚申講に対する熱心さにも、大きく関わっていることも、もう一つの理由になりますことも付け加えておきます。

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