令和3年8月26日(木)に草刈り作業を終えて背炙り峠から山形へ向かう途中で、久しぶりに峠の切通しで村山市方面(南方角)を撮影してみました。ここで撮りたい風景は、本当は夕焼けなのですが、まだ午後4時を回っただけでしたので太陽は高いままでした。それでも、しつこくシャッターチャンスを待とうとしたのですが、そんな殊勝な考えは私には似合いません。結局、いつものように適当に撮りました。太陽が高いままでも、それなりの美しさがあるだろうという楽観的な考えです。この場合、このような楽観論は私個人だけにしか影響しませんが、これが国の政策でもやられたら大変です。国難に見舞われている時は、最悪のことを想定しながら最大の準備をしなければなりません。決して「仮定の話はできません」などと頓珍漢な話は政治家は不要です。ん?、横道に反れました。でも言いたくなります。皆さんも大いに意見を言うべきです。
先ずは村山市のシンボルの一つである甑岳です。いつ見ても雄大な山です。しかも、しばしば頂上が雲に隠れて神秘性があります。畑沢方面からも、畑沢の山伏「正学坊」の先達で多くの参詣者が訪れたそうです。
視界を約90度右に移すと、林崎方面になります。ただし林崎そのものは、岩神山の陰になります。下の写真右側の三つの瘤のある山です。そこから右に勝福山(名前に自信がありません。)が続いているように見えますが、二つの山の間には、高来沢があります。二つの山は、流紋岩という固い岩でできていて、険しい斜面を有しています。
岩神山の山腹を横切る「線」らしきものを感じましたので、望遠にしてみました。「線」は左の尾根から岩神山を右へ緩い角度で登っています。これまで私は畑沢で五つの楯跡調査をしたために、山の中に何らかの構造物らしきものを見つけると、総てを楯跡とか城跡に関係づける悪い癖ができてしまいました。もしかしたら、「岩神山にも城跡があるかもしれない」ということです。ど素人の妄想とお笑いください。恐らく、作業道でしょうが、でも「ここへ行ってみたい」です。
このような気持ちになる理由もあります。昨年、大倉地区のフットパスに参加して、案内して下さった方が、「岩神山の麓には、現在は誰も住んでいないが、昔は新宿(あらしゅく)という集落があったという伝説がある」と教えてくれました。この「あらしゅく」という発音は、畑沢の「あらすぎ」とかなり似た発音に思えました。「あらすぎ」は正式な地名は荒屋敷(あらやしき)です。しかし「あらやしき」を訛らせても「あらすぎ」になるのは至難の業です。一方「あらしゅく」が「あらすぎ」に訛るのは至極当たり前のように思います。
城跡に関する山形県の第一人者が執筆した尾花沢市史の城跡の説明には、「宿(しゅく)は、宿屋を意味するものではなくて、山城などに出入りする家臣たちの住居がある場所を意味している」らしきことが書いてありました。「もしや新宿は岩神山を山城とする郎党の集落かな」と感じています。畑沢の荒屋敷の近くには、楯跡が二つもあります。これまで、畑沢の歴史に関心を寄せていた大先輩は、「荒屋敷は荒れた屋敷を意味するものではなくて、新しい屋敷を意味していたのかもしれない」との見解を示していました。だから、岩神山が城跡や楯跡であるか否かを確かめたいのです。その推察が当たっていれば、畑沢の荒屋敷が、実は新宿であったであろうと考えることができます。
勝福山を拡大しました。山頂部が平たんに見えますので、益々、城跡のように感じます。野邊沢城跡と似ています。自然の力でこれほど平坦にできるものでしょうか。「確かめたい」です。