-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

久し振りに背炙り峠からの風景 そして妄想

2021-08-28 17:02:45 | 伝説

 令和3年8月26日(木)に草刈り作業を終えて背炙り峠から山形へ向かう途中で、久しぶりに峠の切通しで村山市方面(南方角)を撮影してみました。ここで撮りたい風景は、本当は夕焼けなのですが、まだ午後4時を回っただけでしたので太陽は高いままでした。それでも、しつこくシャッターチャンスを待とうとしたのですが、そんな殊勝な考えは私には似合いません。結局、いつものように適当に撮りました。太陽が高いままでも、それなりの美しさがあるだろうという楽観的な考えです。この場合、このような楽観論は私個人だけにしか影響しませんが、これが国の政策でもやられたら大変です。国難に見舞われている時は、最悪のことを想定しながら最大の準備をしなければなりません。決して「仮定の話はできません」などと頓珍漢な話は政治家は不要です。ん?、横道に反れました。でも言いたくなります。皆さんも大いに意見を言うべきです。

 先ずは村山市のシンボルの一つである甑岳です。いつ見ても雄大な山です。しかも、しばしば頂上が雲に隠れて神秘性があります。畑沢方面からも、畑沢の山伏「正学坊」の先達で多くの参詣者が訪れたそうです。

 

 視界を約90度右に移すと、林崎方面になります。ただし林崎そのものは、岩神山の陰になります。下の写真右側の三つの瘤のある山です。そこから右に勝福山(名前に自信がありません。)が続いているように見えますが、二つの山の間には、高来沢があります。二つの山は、流紋岩という固い岩でできていて、険しい斜面を有しています。

 

 岩神山の山腹を横切る「線」らしきものを感じましたので、望遠にしてみました。「線」は左の尾根から岩神山を右へ緩い角度で登っています。これまで私は畑沢で五つの楯跡調査をしたために、山の中に何らかの構造物らしきものを見つけると、総てを楯跡とか城跡に関係づける悪い癖ができてしまいました。もしかしたら、「岩神山にも城跡があるかもしれない」ということです。ど素人の妄想とお笑いください。恐らく、作業道でしょうが、でも「ここへ行ってみたい」です。

 このような気持ちになる理由もあります。昨年、大倉地区のフットパスに参加して、案内して下さった方が、「岩神山の麓には、現在は誰も住んでいないが、昔は新宿(あらしゅく)という集落があったという伝説がある」と教えてくれました。この「あらしゅく」という発音は、畑沢の「あらすぎ」とかなり似た発音に思えました。「あらすぎ」は正式な地名は荒屋敷(あらやしき)です。しかし「あらやしき」を訛らせても「あらすぎ」になるのは至難の業です。一方「あらしゅく」が「あらすぎ」に訛るのは至極当たり前のように思います。

 城跡に関する山形県の第一人者が執筆した尾花沢市史の城跡の説明には、「宿(しゅく)は、宿屋を意味するものではなくて、山城などに出入りする家臣たちの住居がある場所を意味している」らしきことが書いてありました。「もしや新宿は岩神山を山城とする郎党の集落かな」と感じています。畑沢の荒屋敷の近くには、楯跡が二つもあります。これまで、畑沢の歴史に関心を寄せていた大先輩は、「荒屋敷は荒れた屋敷を意味するものではなくて、新しい屋敷を意味していたのかもしれない」との見解を示していました。だから、岩神山が城跡や楯跡であるか否かを確かめたいのです。その推察が当たっていれば、畑沢の荒屋敷が、実は新宿であったであろうと考えることができます。

 

 勝福山を拡大しました。山頂部が平たんに見えますので、益々、城跡のように感じます。野邊沢城跡と似ています。自然の力でこれほど平坦にできるものでしょうか。「確かめたい」です。

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やがて風に乗ります(カキラン)

2014-09-09 18:03:32 | 伝説

 カキラン(柿蘭)はいつの間にか花の時期が終わり、種子の房になっていました。今年は忙しくて、畑沢へ行く時間があまりありません。何しろ、「ど素人」がリフォームのために、毎日のように大工や左官に変身しています。単に忙しいばかりでなく、下手な鉋研ぎ方をしたために、腱鞘炎で「ばね指」になってしまいました。これがなかなか治りません。

 

 さて、カキランの種子は普通の植物とは大分、様相が異なります。カキランなどのラン科植物の種子は、種子の中に栄養分を持っていません。発芽後はラン(蘭)菌の助けを借りて成長します。ラン科の種子は、遺伝子を残すための必要最小限の成分だけですから、種子とは思えない粉末状です。種子が風に流されて、どこかに着地してそこにラン菌がいなければ成長できません。などと知ったかぶりにしていますが、全て本から教えてもらった受け売りです。私が種を蒔いたこともありませんし、顕微鏡でラン菌を覗いて見たこともありません。畑沢のカキランも殆ど見られなくなりましたが、ここのカキランは何としても守っていきます。

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背中炙り峠の歴史的背景

2014-04-22 20:28:34 | 伝説

「ただいま畑沢のまとめ中」から抜き書きして紹介します。今回も背中炙り峠です。実は、まとめているのが、まだ背中炙り峠しかありません。

 

(ア)  古代から中世


 背中炙り峠越えの街道について書かれている古代の記録を見つけることはできませんが、この街道に極めて関係が深いと思われる街道があります。それは、現在の銀山温泉の奥にあった上の畑から太平洋側(宮城県側)に抜ける街道です。山形県側からは「銀山街道」や「上の畑街道」と呼ばれ、宮城県側からは「仙台街道」や「最上街道」と呼ばれてきました。この書では、「仙台街道」と言うことにします。仙台街道から山形県に入ってきて、現在の村山市や山形市方面に行くときは、背中炙り峠を通っていくようでした。
 さて、この街道の宮城県側からのルートは、漆沢から軽井沢を経て軽井沢峠至り山形県側に出ます。峠から直ぐの場所に天沼があり、そこからしばらくは緩やかな下り斜面が続いて、沢筋に変わってから「上の畑(昔の宿場)」に至ります。この街道が歴史の記録に出てくるのは、天平9年(西暦737年)に大野東人(おおのあずまびと)が大和朝廷軍の陸奥按察使兼鎮守将軍として宮城県側(多賀柵)から秋田県・山形県側(出羽国)に進行したと伝えられています。進行される側である出羽国などの東北地方にとっては、大野東人は、歓迎されざる「侵略者」の手先であると思いますが、世の中はでは一般的に、朝廷側など権力者の行動は肯定されて受け入れられています。その話はともかくとしまして、この時に初めて街道が開かれた訳ではなく、ずっと前の時代から存在していた街道を大野東人が通ったということだと思います。そして背中炙り峠も同様に、地形的なことを考慮すると、大野東人が東北に進行する前から存在していたであろうと考えられます。

 

 

 実は、古代や中世の古文書ではないのですが、幕末期に書かれた「背中炙峠一件返答書」では、次のような趣旨のことが書かれています。

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 背中炙り峠越えの道は、奥羽の太守であった藤原秀衡公(1122~1187)がいる平泉へ参上するために、羽州の諸侯が通った道である。

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 藤原秀衡がいた時代は、古代から中世の過渡期に位置しています。返答書では藤原秀衡の時代には、既に背中炙り峠越えの街道が主要な街道だったと主張しています。しかし、返答書が主張する藤原秀衡の時代に背中炙り峠が使われていたという古文書は見つかっていません。私の師匠である大類M氏によると、「藤原秀衡という文言は、いろんな古文書に出てくるが、確たる証拠ではなく単なる慣用句的な用いられ場合が多い」のだそうです。

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大平山の残雪

2014-04-17 12:28:56 | 伝説

 大平山、別名畑沢では「ほうざやま」と言っている山です。大平山の寶沢から見た時の呼称です。大平山の姿は、いろんな角度から眺められますが、私は、やはり寶沢からの眺めが雄大さを感じさせるので大好きです。この写真は、平成26年4月15日に、背炙り峠への入口で撮影しました。真ん中の川は、千鳥川です。

 この山へ登るルートについて、この近くの古瀬H氏に聞きましたところ、昔は左の尾根筋を登ったそうです。昔は、尾根筋に山道があったと思いますが、今では恐らく藪の中かと思います。

 因みに、私は去年、右の真木山(まぎやま)から登り、藪を漕ぎました。普通の人は左から登るのに、私は全く逆の法から登ってしまったようです。「スビタレ」だけでなく、「あまのじゃく」でもあるようです。

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可愛いカモシカに会いました。

2013-12-10 12:55:37 | 伝説

 畑沢へ行った昨日、下畑沢の道路上でカモシカに会いました。まだ、今年生まれた体高が1mにも達しない幼獣です。本来ならまだ親離れしない段階だと思うのですが、何らかの理由で親とはぐれてしまったのでしょう。これから独力で、厳しい冬を乗り越えなければなりません。私は山羊を世話していたことがありますので、このような幼獣を見ると保護したくなるのですが、何ともできません。来年の春まで生き延びてくれることを祈るだけです。

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