-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢は夏も花も真っ盛りでした。

2014-07-31 17:24:51 | 近況報告

 昨日(平成26年7月30日)、畑沢へ行きました。背中炙り峠の古道を確認するのが目的でしたが、畑沢の風景も約半月ぶりに堪能してきました。昨日は暑かったので、車の窓を全開して上畑沢の延命地蔵堂前を下っている時に、斜面に山百合が咲き誇り、強烈に百合の香りが車中に溢れました。今年はリフォーム作業に追われて、古里の夏に気が付いていませんでした。そうです。畑沢にも夏が来ていました。畑沢には山百合がよく似合います。

 毎年、上畑沢の人達は大事に山百合を避けながら草刈りをしていますので、山百合は元気よく育ち、一本の茎に7、8もの大輪の花を着けます。今が真っ盛りです。とても、花屋さんでは見ることができない見事さです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔は畑沢にお寺さんがありました。

2014-07-26 17:30:27 | 歴史

 現在は畑沢にお寺がありません。畑沢に最も近いお寺は、延沢の龍護寺(りゅうごじ)です。外に常盤地区では、六沢の「圓照寺」、三日町の「善法寺」と「金城寺」、鶴子の「龍泉寺」です。どの地区も畑沢よりもはるかに大きな集落です。畑沢は小さな集落なのにお寺があったというのも、畑沢を背中炙り峠越えの街道が走っていたことと関連があるような気がします。

 お寺は、「山楯」の北側にありました。「徳専寺」という浄土真宗の寺でした。常盤地区の寺は、禅宗が多いのですが、浄土真宗と言うのは珍しいものです。



 徳専寺は、写真に写っている建物の左に建っていました。現在残っている建物は、元々は寺の小屋だったと思います。山形県教育委員会が発行した「山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集(村山地域)」に、先ほど触れた「楯」の説明があり、昭和56年にこの寺が廃寺されたことが記述されていました。しっかりした人が調査して記録していますので、記述内容は間違いないと思います。

 徳専寺に関する資料から紹介します。先ずは昭和45年に楯岡高校社会部が、「郷土Ⅱ」に「浄土真宗徳専寺縁起」を資料として掲載しています。以下は原文です。

--------------------
浄土真宗徳専寺縁起
当山開基之古事何之頃カ不分明惟五尊之御裏寛永、慶安之暦慶善、慶栄之住知其前後之暦代不相知惟往昔銀山之地何所カ当山之奇跡有之由人口不残而己其後中古当 地干寺寺跡建立之開基者荘内鶴岡従知敬寺入住従其次第相続弥付第四世之住恵了之代文政十一戊子弥生中旬等二日夜自坊及消失宝物等過去帳只灰塵ト也歎哉 往 昔事不相知悲之余檀越之法名取々調即知行而己相記等尚万延元庚申歳次暮秋下旬第六世住智海代此壱札改而記
万延元庚申歳次暮秋下旬
 当山六世住釈智海(判)
--------------------
 正直分からないところだらけの文章です。「背中炙り峠一件返答書」に関するものを投稿した時のあの意気込みはなくなりました。夏バテといつもの「熱しやすく冷めやすい」私の性格がなせる業です。それでも、強引さと恥を恐れない気持ちだけは持っていますので、大胆に次のように読下してみました。


-------------------
 当山(この寺)の開基がいつであるかは分からないが、寛永(1624~1644年)、慶安(1648~1652年)の時代に慶善、慶栄……。ただ、昔々、銀山の何処かに当山の跡が……。その後、畑沢に建立したのは庄内鶴岡の知敬である。寺に入り住んでより、代々相続されている。第四世住恵了の時代、文政11年(戊【つちのえ】の子【ね】 1828年)3月の中旬…夜にお寺が火事になり、宝物と過去帳が灰塵になってしまい嘆かわしい。昔のことは相知らず、悲しみの余り…。…法名を調べて…記録した。なお、万延元年(庚【かのえ】の申【さる】1860年)…秋下旬第六世の住智海の時代に此の一札をあらためて記した。

-----------------

 以上、穴だらけの読下し文と相成りました。失礼の段は重々承知しておりますが、この程度が私の実力です。まあ、それでも何となく分かったような気がしたと思います。要は「最初、銀山に建てられたが、その後畑沢に移った。ところが、1828年に火事になってしまい、寺、宝物、過去帳が燃えてしまったので、詳しいことが分からなくなってしまった」ということになります。でも、「江戸時代の中ごろから終わりまでの畑沢の死亡者数」で投稿しましたように、死者の記録が残っていたようですから、過去帳については、調べ直したようです。

 寛永・慶安時代は、銀山はまだまだ盛りの時代です。銀山にはお寺もたくさんあったようです。しかし、1700年代の半ばになると、銀山は衰退してしまいます。その衰退の時期が、徳専寺の畑沢へ移った時期かと思います。


 このころの銀山に関する三つの資料があります。「大銀山としての野辺沢銀山」「延沢銀山の話」「尾花沢風土記」です。これらの資料によると、1741年~1743年ごろに江戸の大戸伝右衛門が銀山の再坑を試みたが失敗したそうです。私はこの「大戸伝右衛門」が畑沢に最後に定着した「新しい大戸」一族であると見ています。畑沢にもそれらしい口伝が残されています。徳専寺が畑沢に移ったのは、この新しい大戸一族が畑沢へ定着した時期ではないかと思いますが、それを証明するものはありません。


 ここで別の資料に目を向けます。尾花沢市史編纂委員会が発行した「尾花沢市史資料 第5輯村差出明細帳 附一年貢割付状.皆済目録」です。この中に畑沢の資料が二つ載っています。それぞれ次のとおりです。

-----------------------
  正徳四年 畑沢村高反別村差出帳(控)


一、    當村ニ寺無御座候
一、    當村堂 二ヶ所 地蔵堂・熊野堂 別當無御座候
-----------------------
  天明八年 畑沢村高反別村差出帳(写)


一、    浄土真宗 寺壱寺ヶ寺 谷地長楽寺末寺徳専寺
    屋敷御年貢地
------------------------


 この二つの資料によると、徳専寺は、正徳四年(1714年)に畑沢にまだありませんでしたが、天明八年(1788年)には畑沢にありました。徳専寺は1714年と1788年の間に畑沢に建てられたことになります。銀山が衰退した1700年代の半ばと一致しています。
 畑沢における徳専寺の檀家はそう多くありません。やはり元々いた古瀬、有路、大戸(古い方)一族は、龍護寺の檀家が殆どです。それでも、徳専寺は単なる浄土真宗信者の菩提寺としての役割だけでなく、畑沢では江戸時代から教育でも大きな役割を担ってきました。江戸時代においては徳専寺の住職が寺子屋の師匠、明治になると畑沢分教場(おくまん様)の「教師」として村の子供達を教えてきました。


しかし、檀家が少ないということが時代の趨勢で「寺がなくなる」ということにつながり、昭和56年(1981年)畑沢から「お寺さま」がなくなりました。あれから30年以上も経ちましたが、今でも私の脳裏には、心優しい御住職一家の姿が残っています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑沢分校のスキー大会

2014-07-24 18:15:51 | 思い出

 暑い日が続いています。暑い時に寒い時の思い出話です。畑沢分校は小学校1年生から3年生のために、冬期に開かれていました。常盤小学校までは4kmの道のりがありますので、真冬の雪の中での一本道は大変です。雪の一本道では、みんな同じ足跡をたどりながら歩きますので、小学校の低学年生では歩幅が合いません。とてもまともに歩けるものではありませんでした。そのため、小学校低学年は畑沢の真ん中にある分校に通うことになります。私は分校まで何百メートルの距離でしたので、天国のような感じでした。

 その天国のような分校で、スキー大会があったことを覚えています。場所は、下畑沢の西の沢の斜面です。写真の丁度、裏側に当たります。

 そのころ、会場となった山は、伐採をして間もなかったので、障害物のない白一色の斜面がありました。会場までの道はありませんでしたので、保護者が先導してカンジキか俵靴(たわらぐつ)で道を作ってくれたものと思います。

 肝心のスキー大会の内容については、一切の記憶がございません。政治家がよく言うセリフを真似ているわけではありません。正直なところでそうなんです。それでも記憶があるのもあります。授業がなくて楽しい一日だったようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑沢には二か所に「楯」がありました。

2014-07-23 21:05:10 | 歴史

 西暦1622年まで野辺沢城があったころ、畑沢が重要な地域であったことは、これまで再三に渡りブログに投稿してきました。野辺沢から山形へ向かう際には、畑沢を通って背中炙り峠を必ず通らなければなりませんでした。野辺沢氏のドル箱になっていた「銀山」からの金・銀を運搬する重要な産業道路が通っていたところでもあります。当然、軍事上も重要な位置にあったために、「背中炙り峠」には、大きな「楯」もありました。

 しかし、畑沢村の中にも、もう一つの「楯」がありました。平成8年3月に山形県教育委員会が発行した「山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集(村山地域)」に「畑沢楯」としてその調査結果が載っています。

-------------------------

畑沢楯 212-026

所在地 尾花沢市大字畑沢

築城者 不明

築城時期 不明

概要

 下畑沢の旧徳専寺(昭56年廃寺)南部の丘陵全体が、階段状の曲輪を有する楯跡となっており、「山楯」「荒屋敷」の地名も残されている。現在民家が建ち、下部は破壊されてしまっているが、残存遺構は曲輪が4段、最後部の標高は220m(比高30㍍)である。

 延沢から背炙峠を経て楯岡へ通ずる道筋を扼する位置にあり、延沢氏によって、出城として築かれた可能性が高い。伝承では古瀬蔵人が楯主とされる。

---------------------------

 「畑沢楯」という名称で記載されていますが、畑沢出身者には「山楯(やまだて)」と言えば直ぐに分かるでしょう。「山楯」は屋号と思っていたのですが、400年以上も前のことに起因していた名称だったようです。上記の概要で「旧徳専寺(昭56年廃寺)南部の丘陵全体」との説明に困惑してしまいました。これは、「旧徳専寺がある丘陵との南部にある別の丘陵全体」と解釈するものでした。

 詳しくその位置を確認します。旧徳専寺の南側にイヌイ沢があり、その沢の南側に山楯があります。山楯と荒屋敷は同じ丘陵にあり、その丘陵の南側には東の沢があります。「楯」は畑沢で「山楯」と呼んでいたまさにその場所のことでした。野辺沢城があったころ、荒屋敷には野辺沢氏の家臣が住まいしていたものと思われ、それが今、荒屋敷に住んでおられる方たちの「大戸」姓の元になったものと思います。

 荒屋敷の守り神である「稲荷神社」は荒屋敷に面した尾根の末端にあり、「山楯」とは細い尾根で繫がっています。そのことは、国土地理院の地形図を見るとよく分かります。楯に異変があった時には、荒屋敷を抜けて稲荷神社へ登り、そのまま尾根伝いに楯に入ることができます。荒屋敷と山楯は機能が一体的です。山楯と荒屋敷の稲荷神社からの眺望は、大変、優れています。北の方は畑沢の南端である「松母」、南は「背中炙り峠」まで見えます。つまり、畑沢村全体を見通すことができ、見張りには絶好の場所です。楯は地の利を十分に考慮して築かれています。

 なお、徳専寺は野辺沢城が廃城となって、「山楯」の機能を失ってから100年以上も経った1700年代になってから建造されていますので、「山楯」との関係は考えられません。しかし、場所は少しだけ違いますが、「地の利」はそのまま寺の適地でもあったのでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑沢での巨大な公共事業(2)

2014-07-18 18:06:44 | 歴史

 二番目の大きな謎となっている公共事業も砂防ダムです。先に投稿した人面杉の真正面にある小さな山の中腹にあります。沼澤の砂防ダムは、全体をコンクリートで固めて作られていますが、この砂防ダムは鉄骨らしいもので骨組みを作って、中に大き目の採石がびっしりと詰められています。堤体の表面に雑草らしきものが生えているのは、その採石の間から出ているようです。写真には大きさを比べる物が入っていませんので、堤体の長さを推定しにくいのですが、10mや20m程度ではありません。何百メートルは言いませんが、何十メートルかになります。それほどの「ダム」を作ってまで守ろうとする「大河」は、幅30~40cmの水路です。けっして「cm」単位が間違っているのではありません。どうして「cm」の水路が災害を起こす危険性があるのでしょう。
 工事の前に地元住民へ説明があったそうです。説明では、「ここには、断層が走っている」と言われたそうです。ダムを造るほどに危険な断層ならば、断層に特有の地形が見られるはずです。断層には正断層、逆断層、横ずれ断層があり、それぞれ断層特有の地形があります。そのような地形をこの場所で見たことがありません。また、特に調査をしなくても分かるほどの断層ならば、これまでの畑沢地区が示されている表層地質図にも出ているはずですが、その図面の畑沢区域には「断層」の表示はありません。
 ダムの近くに、看板がありました。


 
四つも看板が並ぶと読みにくいので、一つ一つを個別に掲示します。
 

 平成17年の3月22日に砂防指定地にされたそうです。断層があるとしたならば、遅すぎる指定です。文字が剥がれています。この看板から推察すると、砂防ダムは平成17~19年あたりに作られたかと思います。そう言えば、立石山の採石場が「倒産」したのもこの後あたりだったかもしれません。この砂防ダムでも立石山からの採石が使われたのでしょうか。確認できていません。


 
「貯水池」の文字が見えますが、ここには貯水池はないはずですが、どういうことでしょう。




 「土石危険渓流」とありますが、30~40cmの―幅の水路が「渓流」とは言わないはずです。また、土石流となるような「土石」がありません。また、「尾花沢市」の文字がありますが、砂防に係る事業は「県」の仕事であって「市」の仕事ではありません。仕事を担当していない「尾花沢市」は不要だと思います。不思議な看板です。


 
 文字が消えて分からないところがありますが、砂防指定地の区域を示しています。一般的に砂防ダム等を建造するにあたっては、「集水面積」を考慮するはずです。看板の図から推察して、集水面積は大目に概算しても100m×200m=20,000㎡ (0.02k㎡)ぐらいかと思います。普通の砂防ダムよりも二桁以上少ない集水面積です。こんなに少ない集水面積では、どんなに雨が降っても大した水量にならないので、ダムの力を借りるまでもありません。


 四つの看板全体を見渡してみても、大きな違和感があります。看板に記載されている内容が「剥げ」かかっていることです。この種の看板は、看板に直接にペンキ等で書き込むはずですが、ここの看板は粘着テープ程度のものが「貼られて」いるようです。大事なことが「剥がれ」ていいはずはありません。まるで、即席に作られた看板の感じさえあります。

 必要性も、看板に掲示されている内容も、看板に書き込む方法も全部が不思議な「砂防ダム」です。
 人間が作った不可思議なダムは、秋になるとニホンザルの青空食堂になるとのことでした。村の中で柿をくすねた猿の群れは、この砂防ダムの堤体に一列になって腰掛け、村を見下ろしながら、ゆっくりと柿を味わうそうです。


 一つ書き忘れました、この砂防ダムを建造していただいたお蔭で、砂防ダムの近くにあった廃屋が「補償」の対象になり、公費で解体していただいたそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする