楯には沼が必要だったはず
これまで、このタイトルと第一回目と第二回目を投稿してから大分、日数が経ってしまいました。
沼沢に「沼」があったのではないかと思うのは、伝説が残っていることを一つの理由にしましたが、そればかりではありません。「背中炙り峠の楯には沼が必要だ」と思うことがあるからです。
背中炙り峠の楯は、南の方角から侵攻してくる上杉軍などの敵に対して、野辺沢城の南端の砦として設けられたと見られています。例えば、上杉軍が米沢方面から山形を過ぎて北上してくると、村山市林崎から峠のある東に方向を変えて進軍してきます。上杉軍にとっては、最上家の重臣である野辺沢氏をどうしても討たなければなりません。背中炙り峠の楯は、元々、この攻めてくる方向の地形は急峻で容易に登ることができませんが、さらに何重にも曲輪、切岸、堀切が作られて守りが固められています。ところが、楯を直接に攻撃しないで、一旦、東方向へ遠回りして、ゴロウという石切り場へ回っていくと、容易に野辺沢領へ入り込むことができます。不思議なことには、ゴロウ周辺だけ尾根がなくなっているからです。敵はここまで進軍してくると、その後はなだらかな沢伝いに背中炙り峠の楯や野辺沢城へ進むことができます。
そのルートは、下図の赤い矢印のとおりです。黄色は45度ほどの絶壁です。感覚的には70度か80度に感じるほどで、樹木などを掴まなければ登れません。着色していないところも、急ではありませんが斜面でする
そこで、この方向からの敵の侵攻を塞ぐためには、沼沢が通りにくい場所であることが必要です。沼沢は山の斜面が川へ迫っていますので、川の周辺を塞ぐことができれば、侵攻は容易ならざるものになります。沼沢地内においては、左岸は峠がある山が千鳥川によって絶えず削られている地形です。そのため、小三郎、平三郎、一の切り二の切り、三の切などの小さな沢があるところ以外は、概して急斜面になっています。ところが、右岸はどちらかと言えば緩斜面もあります。しかし、一ケ所だけ狭隘になっている場所があります。それは、立石山の急斜面が千鳥川に接している場所です。ここへ両岸の急斜面が崩れて、又は急斜面を人為的に崩すことができれば、堰止湖(せきとめこ)が誕生します。もしも私が背中炙り峠を守る武将であったとすれば、立石山の斜面や尾根に残っている立石石(たてすいし)を谷へ崩し落とします。石は轟音を上げて千鳥川へ落ちていったはずです。また、向かい側の斜面も樹木を伐採していれば、容易に鋤や鍬で谷へ土砂を落とし込むことができます。「沼」を作ることはできるのです。人為的に沼を築堤しなくても、自然の力で沼が形成された可能性もあります。自然に形成される可能性については、後日、その考察結果を御披露いたします。
人為的または自然形成のどちらにしても、沼沢に沼があったであろうことによって、「楯は沼沢から入れば脆い」という背中炙り峠の防御の謎は一つ解決できそうです。ところで、この沼があったであろう場所の直ぐ北側の左岸には「平三郎」という場所があります。沼が楯の防御施設の一つであったならば、平三郎は沼周辺を守る侍であったかもしれません。平三郎からは楯へも沼へも駆けつけることができます。