-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

ラン科の植物(クモキリソウかな?)

2020-11-30 11:23:06 | 自然

 今から3年前の6月上旬、畑沢の山中を散策していると、見慣れない植物が葉を伸ばそうとしていました。一見、オオウバユリのような勢いある若芽です。でも、よく見るとオオウバユリのような色ではありません。もしかしたらラン科のクモキリソウかジガバチソウかもしれません。このような言い方をすると、あたかもラン科の植物に詳しい知識がありそうですが、残念ながら知識はありません。ただ、今から約30年前の職場で野生欄に詳しい同僚がいました。その人からの受売りです。当然、その程度ですから似た植物が現れると区別はできません。もっと葉が葉や茎が伸長し、さらに花が咲けば区別ができるのかもしれません。しかし、それから2か月ほど経ってから撮影したと思われる場所を探したのですが、見つけることはできませんでした。周りの草も成長して藪になってしまったようです。次の年もまた次の年も見つけることはできませんでした。

 畑沢での少年時代に、千鳥川の魚や第二次世界大戦での飛行機ばかりに夢中にならないで、少しでも他のことにも関心を持つことができていたならば、もっと心豊かに畑沢の風情を味わっていたでしょう。

 ところでこの植物を判別できる方は、コメントで教えてください。

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中畑沢の稲荷神社にチチャコイ補修

2020-11-29 17:21:41 | 近況報告

  令和2年10月18日に中畑沢の稲荷神社を訪ねました。その時、神社が得体のしれない動物によって多数の穴をあけられていました。このままだと神社がさらに壊されると思い補修しようと考えたのですが、それから一月以上もできないままになりました。私は畑沢で生まれ育ったのですが既に住人でなくなりましたので、勝手に地区の施設に造作を加えるべきではありません。地区の役員にお話しして補修することの了解を頂戴しました。

 ようやく時間に余裕ができましたので、11月24日、補修に出かけました。神社の穴は多数あるのですが、たった一日では全てを補修することはできません。この日は最も損傷が激しい入口だけにすることとしました。柱と引戸の隅が齧(かじ)られています。そこで柱にネットを被せ、引戸にベニヤ板を貼り付けたようですが、それも齧られています。

BEFORE

 先ずは柱の補修です。ネットを外した状態です。

柱の3面をトタンで覆い、釘でしっかり固定しました。これが意外としっかりしています。

AFTER

 

次に引戸の補修です。ベニヤ板を外した状態です。隅の部分も欠損しています。難解な状況です。

BEFORE

 引戸もトタンを使いました。接着剤などは使わなくてもピッタリと貼りつきました。

AFTER

 裏側から見ると、一見、手の込んだ工作に見えますが、単に引戸の形に合わせてトタンを切っているうちにこのようになりました。でもこれでも丈夫で使いやすいようにできました。自分でも不思議です。

 補修の全景です。少なくともここから動物が入れません。ただし穴は外にも沢山あります。後日の作業となりました。

 柱に張られていたネットにクワガタのメスがミイラ状態になっていました。インターネットで形を比較してみると、コクワガタに似ています。

 最後に付け加えます。私は「チチャコイ補修」しかしませんでしたが、神社の周りには何方かが「オッケナ整備」をして下さっていました。あれだけオッケナ作業は若い人の力があったはずです。嬉しい限りです。

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回り道して畑沢へ

2020-11-27 16:20:39 | 自然

 山形から畑沢へ行くとき、背炙り峠を通れるときは必ずそこを通るのですが、もう7年間ぐらいは大体,通れなくなりました。毎年、延々と雪が融けると工事を優先します。そこで尾花沢の町から古殿、延沢を通るときが多くなりました。しかし、今回(令和2年11月15日)は珍しく尾花沢から徳良湖、袖原、六沢、延沢(三日町)、細野を通ってみました。御利益がありました。中学校時代の同級生と再会して懐かしい顔を見ることが出来ましたし、他の同級生の近況なども教えて貰いました。

 村山市内では天気が良かったので、「むらやま道の駅」で休憩して甑岳を眺めました。村山市大倉地区のフットパスに参加してからは、甑岳を眺めるにも深い趣を伴うようになりました。甑岳の手前の山には、楯岡城跡があります。山全体が城跡になっています。

 

 道の駅の西側には、葉山が薄く雪化粧しています。葉山がカルデラだったのかどうかは分かりませんが、そのカルデラ状の内側に見える雪模様に横縞が見えました。地層が反映しているものだろうと撮影したのですが、上手く撮れていません。

 

 袖原でもきれいな青空です。遠くに葉山と月山が並んで見えました。山形からは葉山と月山の位置が逆です。さすがに兄貴分の月山は、完全に雪で覆われています。

 

 三日町から細野地区に入ろうとしたとき、シンボルの一つ、大平山が聳(そび)えていました。写真の中段を横切っている黒っぽい模様は、朧気川です。

 

 細野からの道は畑沢の「東の沢」を通ります。畑沢へ下り切ろうとする辺りで、熊野神社(おぐまんさま)が顔を出します。何本かの樹齢四百年と思われる大杉が取り囲んでいます。

 

 県道へ合流する前に、千鳥川の上流方向(南)です。中央の遠くに見える山に「背中炙り峠(古道)」があります。県道が通る背炙り峠は見えません。右に畑沢地区生涯学習推進センターが見えます。

 

 夏の間に繁茂していた雑草が萎(しぼ)んでしまい、視界が開いています。千鳥川の中の「大堰(おおぜき)」と呼ばれていた下畑沢の堰が全体の姿を見せています。今では川幅が3m程度の小さな施設ですが、護岸工事が行われる前の昔は堰は10mぐらいあったような気がします。堰の前に「大」が付くのも納得できる規模でした。幅は狭くなりましたが、段差が大きくなり、さらに永久的になりました。魚道が付いていませんので、イワナ、ウグイなどが遡上できなくなりました。これよりも上流にはウグイは生息していません。ウグイはもっと下流で産卵して、その後に毎年、遡上していたようです。イワナはむしろずっと上流で産卵していますので、遡上できなくなっても上流に棲息しています。ただ秋にイワナが産卵しようとしても、ここで足止めを食らっているようです。朧気川に棲息しているイワナとの交雑ができなくなり、遺伝子の多様性が狭くなっているでしょう。あっ!脱線してきました。好きなことになると夢中になります。「ザッコシェメ」の世界です。

 

 大堰の上です。堰の上流側には大きな淀みができますが、長期間の間に単純な浅場に変わりました。とても昔のように水泳ぎはできません。でも毎年やっていた「堰上げ」の重労働からは解放されました。

 

 中畑沢から下畑沢方向を撮りました。初冬の風景です。奥の右の山は最上町にある禿岳です。去年のこのころに、私はあの山頂にいました。

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畑沢の南隣(櫤山地区)にお邪魔しました。続き

2020-11-26 17:30:53 | 近況報告

 令和2年11月8日(日)に村山市内の大倉地区が主催した「大倉ため池フットパス」に参加してきました。

「ん! 何で今ごろになるまで投稿しなかったの」とお叱りの声が聞こえそうです。私もそう思います。私は素直な老人です。投稿が遅くなったのは、私のヘボ大工作業が邪魔したからです。

 年ごとに夜間にパソコン作業をすると睡眠に障害が出る様になりました。そのため日中にパソコンを使うようにしているのですが、ここ数ヶ月間、ヘボ大工に明け暮れてパソコンを使う時間がありませんでした。大工仕事は妻の友人から頼まれた棚作りです。簡単に請け負ったものの私の腕が未熟で、予定した期間の何十倍もの時間がかかっています。ようやく目途が立ってきましたので、ブログ投稿ができました。

 ところで、大倉地区を取材する狙いは次の二つでした。

① 畑沢に残っている先達屋敷伝説では、「畑沢の先達(山伏または修験とも言う。)

  である正学坊は甑岳参詣の先達役をやっていた」という事なので、甑岳修験につ

  いて学ぶ。

② 「背中炙り峠(古道)から楯岡へ行く道は、大倉ため池の脇を通っていた」かも

  しれないので、昔の道の跡などを探る。

 ①については、9月18日の「大倉修験と古の精霊たちコース」に参加し、甑岳修験の盛大さを感じ、さも畑沢から又は畑沢を経由した参詣者が多かったことが想像されました。畑沢の直ぐ隣でこんなことがあった事に驚きましたし、正学坊が先達したと言われていたことも納得できました。

 ②が今回の「おくら伝説コース」で確認しようとしたことです。

 さて、肝心の「おくら伝説コース」に参加した様子を報告します。

 先ずはフットパスのルートを御確認ください。次の写真でゴールド色の線です。畑沢は背炙り峠を越えれば直ぐそこです。でも今年も通れません。

 大倉地域市民活動センターに10時に集合しました。前回と同じように、新型コロナの感染防止のために、参加者同士が距離を取っています。参加者も20人に限定したそうです。

 

 堤の途中で周辺の説明がありました。次の写真のとおりです。溜池の水が抜けています。これから春に向けて貯水します。

 次に大倉ため池の説明は、下の看板を御覧ください。随分と古い(戦国時代)ため池で、決壊もしたようです。ため池にはそのような危険性が潜んでいるのですね。私には想像できませんでした。

 

 さらに石碑が建っていました。ため池の管理組織の変遷が刻まれています。

 

 

 最初に見学したのは戦国時代の見附楯跡です。「見附」は「みつけ」なのか「みつき」と発音するかを確認しませんでした。保角里志氏の「南出羽の城」では「三月」と表記していました。漢字の表記が「見附」ならば、「見張り場所」の意味となるようで、全国の城跡でも見られます。

 楯跡へ登る途中で下を見ると、次の班が近づいてくる姿が見えました。でもこの写真の狙いは人ではなくて、楓の黄葉を撮ったのですが、上手く表現できていません。

 

 楯跡の主曲輪に着きました。櫓台跡も見えます。楯跡の外から見上げると、小さい山だけのように見えますが、上に登ると結構な大きさです。楯と言うよりも小さな城そのものです。主曲輪の周囲を曲輪が幾重にも取り囲んでいます。今回のフットパスに参加する以前から前述の「南出羽の城」を読んで大倉ため池の何処かに楯跡があるということを知ったのですが、背炙り峠へ向かう度にため池方向を見ても、「小さな山」しか見えないので特定できませんでした。小さく見えたのはため池の大きさに胡麻化されたからと樹木に覆われて階段状の曲輪が見えなかったことによるようです。やはり現場を確認することが大切です。

 

 楯跡から南下して神明宮に到着です。ここも大部、古い神社の様です。巨大な灯篭がありました。この石材は周辺に産しないとのことでしたので、離れた場所から運んだことになります。山の上まで石材を運ぶのは大変だったでしょう。

 

 山に秋の果実が残されていました。ツルリンドウとガマズミかもしれません。

 

 前回に引き続き、「熊棚(くまだな)」を教えて貰いました。今年はブナや楢の実が不作だったので、熊は栗を食べようとして棚が多く作られているとのことでした。

 

 ため池での最後の説明がありました。戦前に米国から「青い目の人形」が日本の学校へ贈られました。ところが米国との戦争が始まるとその人形を処分するよう命令されました。小学校のある先生は処分するのは忍び難いので、このため池に沈めたそうです。

 

 草木庵で美味しい昼食を御馳走になってから、林提寺の紹介がありました。櫤山楯と所縁があり、昔は別の場所にあったそうです。

 

 かなり端折った報告となりましたが、実際はもっと沢山の見どころと聞きどころがありました。しかし、ブログに投稿すると、折角の味わい深いものが私の拙い言葉で味気ないものになるようで、この程度にいたしました。特に私たちを案内して下さった大倉地区の皆さんの優しい心遣いは、言葉では表現できません。実際にお会いしてフットパスを一緒に巡ってお感じになってください。

さて、今回の狙いであった古道については、簡単に結論できないことが分かりました。古道はどこでも一本だけではありません。大倉ため池の脇を通る古道も複数あるとの説明をいただきました。また、江戸時代の初めに羽州街道が整備された後、山形方面へ行く主たる街道は大倉ため池を通らないで、背中炙り峠から直接、林崎の羽州街道へ出たものかと思います。背中炙り峠から大倉ため池の脇を通ったのは、羽州街道が整備される前のことだったのかもしれない考え始めています。それは遅くとも最上改易の前までのことだったのかもしれません。興味深いことですが、非力の私には解明できない気がします。

 ところで、フットパスで頂戴した資料とさらに大倉地区の方々が私のために特別に御準備して下さった資料の中に背中炙り峠から中沢地区へ街道の付け替えがあった時期を示唆するものがありました。「寛永年間に背中炙り峠からの街道が開通した」と大倉地区で伝えられてきたそうです。以前から私が想像していたことを裏付けてくださいました。ありがたいことです。

 2回のフットパス参加で、さらに意欲が出てきたことがあります。1回目の甑岳修験のコースにおける「甑岳」、2回目に大倉ため池のコースにおける「櫤山楯跡」、そして両コースで紹介があった「勝負平」です。どれも登ってみたくなりました。「山男」ならぬ「山ん中の男」の血が騒ぎます。それもただ登るのではなく、「お話を聞きながら」がいいと思います。我儘で贅沢なことかもしれません。

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