-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その7)

2014-02-28 16:43:27 | 歴史

「背中炙峠一件」の8年後背中炙り峠入口に造立された「馬頭観世音」

 弘化5年(1848年)の「長吉一件」、嘉永6年(1853年)の「背中炙峠一件」と相次いだ豊島☆☆☆の奮闘の後も、豊島☆☆☆の記録があります。


 慶応4年(1868年) 「大乗妙典十六部日本巡国満願供養塔」造立。


 明治3年(1870年) 戊辰戦争における官軍の尾花沢、楯岡、名木沢での支払いに対する意見書を政府側に提出。豊島☆☆☆はここでも黙っていませんでした。

 

 そして、明治5年(1872年)に豊島☆☆☆は行年76歳で永眠しました。強者の不正や非道に対して、堂々と正面から立ち向かった人生でした。今でも、このように強者に立ち向かえる人物は極めて稀です。ところが、武士が我がもの顔で闊歩していた江戸時代でさえも、豊島☆☆☆は立ち向かっていきました。畑沢からこのような大人物が出現したことは、誇りにすべきことですが、畑沢で知られていないことが残念です。畑沢出身者の中では、江戸時代半ばの関嶺(寒嶺)和尚、天明飢饉の頃の古瀬吉右衛門、江戸時代最後のころの豊島☆☆☆の三人が傑出しています。畑沢はわずか30戸の小さな集落ですが、優れた人材を輩出してきました。あらためて、このような畑沢の先輩たちの姿勢に見習って、恥かしくない人生を目指したいものです。

 ところで、急に脱線します。隣の「細野」地区のホームページがありました。地域振興の様々なイベントが掲載されています。是非、御覧ください。私は明日(3月1日)に細野で行われる「メープルシロップ採取体験」に参加してきます。

清流と山菜の里ほその村 尾花沢市細野「かあちゃん広場」
http://www13.plala.or.jp/hosonomura/index.html

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幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その6)-5

2014-02-27 16:03:31 | 歴史

   大平山から見た背中炙り峠

 畑沢村、延沢村、細野村の反論は、いよいよ宿側の非道ぶりを攻撃します。読んでいくと、段々と腹が立ってきますので、落ち着いてお読みください。まるで時代劇で出てくる「ごろつき」が、弱い立場の村人を強請(ゆす)っている光景が見えてきます。ところで、一つの文がだらだらと長く繋がっているため、読みにくいところが沢山あります。御勘弁下さい。
 読む前に用語の説明をしておきます。


助郷;大名が参勤交替時に宿を利用する際に、宿場だけでは手が足りないので、近隣から手伝いに行かなければならない決まりになっていた。畑村村、延沢村、細野村などは尾花沢宿の助郷になっていた。

問屋;今の流通段階で卸をする「問屋(とんや)」ではなく、江戸時代における宿場のまとめ役。


―――――――――――
 将(まさ)に、私どもは、尾花沢村、土生田村、本飯田村三宿の助郷※で御座いますが、訴訟人どもが申し立てている内容は、諸侯(大名)様方の継立てに事寄せて、私どもの村から産出するものを遠回りさせて、荷口と名付けて銭を強請(ゆすり)取ってながら、百姓が売る物などを不当に購入する存念と見え、強欲無道、言語道断にございます。
そればかりか、聞くところによりますと、尾花沢村では助郷をしている二十程の村々から、前の年の暮れに人馬を雇い銭と名付けて、金銭を受け取っていました。それにも拘わらず、御大名様方が通行されるときには、人馬を差し出さないで、この分の人馬を村々へ割り当ててしまったために、村々の人馬の割り当てが格別に多くなってしまいました。前の年に集めた金銭は、全くの私欲にしてしまいました。問屋職に似合わない不正のものどもと、専らの風聞でございます。もし、このことが相違ないとすれば、助郷村々の百姓は苦しい立場に置かれ、難渋に及んで難しいことで御座います。
 既に先年に取り決めて、近くの村々の産物は大石田並びにその外へでも儲けのある方へ売払っても、尾花沢村で酒代をゆすり取らないことを百姓代表の印で證文を文化年間に役人へ差し出しておきながら、このことを反故(約束を破ること)にして、外の村々へは駄送の品を差し止めするよう御役所へ願い出ることは、甚だ不法なことで御座います。
 そのうえ尾花沢の小百姓どもが、大勢で雪の時期に延沢村地内の取上橋を渡ってきて、古殿組と九日町が持っている林を強引に伐採したので、古殿組は番をする人を置かなければならず、百姓の出費も少なくありません。
 そのうえ、廻米(江戸へ送る年貢米)を大石田川岸へ雪車(「そり」か)で運んでいた時に、道作り代と称して銭を強請取り、差し出さないと喧嘩を仕掛け、怖ろしく強引な振舞で御座います。
 なおまた、私どもの村々では雪の時期に、昔から船板と材木等を大石田村へ引いて届けてまいりましたのを、船板と材木等を私どもには引かせず、尾花沢のものどもが強引に多くの引き代のお金を取るために、船板と材木等が格別、値が下がってしまい、損失が少なくありません。
 このままにして置かれますと、後々にもどんな新たな手段が出されてくるかもしれないことは、困ったことばかりで嘆かわしい次第と存じます。
右の強引で強欲な非道の数々を御賢察下されて、これまでどおり背中炙り峠の諸荷物と産物を差支えなく駄送と背負いをして、村山郡全体が穏やかに相成りますよう御慈悲を以て仰せを下されるようお願い奉ります。
何卒、右の訴訟人たちを御召出して、一つ一つを御理解くださるよう幾重にもお願い奉ります。前書きにお願いしたとおり、背中炙り峠の諸荷物と村々の産物は差支えなく駄送、背負いして村山郡全体が穏やかに相成りますよう御慈悲を以て仰せを下されるようお願い奉ります。
 前書きの願いにあるとおり、背中炙り峠の諸荷物とその外の村々の産物を、道路で差支えないように仰せ下れば百姓は永続でき、多大なるお情けと有難き幸せと奉ります。
 右のこと恐れながら返答書を以て申し上げます。以上


嘉永六年丑九月

 ---以下省略します。---

 この返答書には、一切、豊島☆☆☆の名前が出てきません。しかし、この返答書に関わる別の古文書には、「(豊島)☆☆☆患いにつき、倅○○」を意味する内容が見えます。返答書は三村の代表者の名前で出されていますが、実際は豊島☆☆☆が強烈にバックアップしているものと思われます。また、このようなことを行える人物は、豊島☆☆☆しかいないでしょう。

 これだけの返答書を書くのは、並大抵のことではありません。まるで弁護士がいるような、実に訴訟に通じている感じがします。返答書は、大きく四つの部分から構成されています。最初に「訴訟内容の確認」、次に「横道に対する歴史的・現実的な使用状況・経済的側面からの反論」、そして「具体的な宿場側の非道ぶり」を挙げ、最後に「差し止め撤回による効果」となっています。

 豊島☆☆☆には、二人の付き人が常にいたと伝えられています。一人は豊島☆☆☆の健康管理を行う者、もう一人は祐筆に相当する人物だったそうです。恐らく、この返答書は祐筆に相当する付き人によって書かれたものだと思われます。

 この時豊島☆☆☆は56歳ごろでした。まだまだ働き盛りです。

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幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その6)-4

2014-02-26 22:56:58 | 歴史

 前回の返答書の現代語訳は、訴訟内容の確認でしたが、いよいよ「返答書」の内容は、反論部分になります。具体的事例を挙げて、徹底的に反論していきます。反論はかなり長い文章です。今回も途中で疲れてしまうかもしれませんので、御勘弁下さい。なるべく頑張ります。今回は、先ずは歴史から見た背中炙り峠の「天下の公道」の説明と周辺の村々の峠との関わり方を説明します。

 今日の応援は、背中炙り峠付近の弘法清水に祀られている水の守です。

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 このことについて、惣内の外七人が返答申上げます。右背中炙り峠の道というものは、はるか昔、奥羽の太守であった藤原秀衡公の平泉居館へ、羽州の諸侯が往来した街道に相違なく、故に日本道中記行程記にも明らかです。かつ、最上出羽の守義光が山形に城を構えていたころは、延沢能登の守が右背中炙り峠を行き来し、その後、寛永年間、鳥居佐京亮様の御領分だった時は、延沢銀山が大いに盛りの山だったので、家の数は四万八千軒余り、延沢村には月に六日も市が立っていました。延沢銀山から産出される銀は、背中炙り峠を通って江戸表へ搬出・駄送されました。それから引続いてこれまで、商人の荷物は勿論のこと、村々から産出される物を駄送してきた仕来たりがあり、横道などでは全くありません。

 なお、楯岡村は鳥居佐京亮様が転封されて以来、幕府直轄地になっていて、田口五郎左衛門様が支配されるまで、尾花沢と楯岡は同じ御支配でした。尾花沢も楯岡も同様に続いていて、村々から楯岡村へ睦まじく売買をして、その利益で村々は年貢を納めてきた仕き来たりがあります。ところが、このごろになって、新たに背中炙りの道を差し止められては、百姓は相続できずに転出する者も出てくるのは歴然としています。そもそも、村山郡は穀物その他の物を相互に融通しなければ、一郡が穏やかならざる基になる恐れがあります。特に延沢村については、松平清右衛門様十万石の陣屋だったところで、楯岡その外の上郷方面は延沢村陣屋付でした。年貢金その外は江戸表へ背中炙りから駄送していました。なお、仙台その他の諸国から御家中方が背中炙り峠を通行されているのに、横道などと言われるのは心外至極です。

 かつ、お上から言い渡されたことには、田舎から送り出す品々は誰へも勝手に送ることができ、並びに、川岸のことについてはこれまでの仕来たりにも拘わらず、どこの川岸であっても都合の良い所で船積み・水揚げができることを天保十三寅年の六月中に日本国中へお触れがありました。寛政十年以降では、米津越中の守様が背中炙り峠を通られて、御巡検されたときが時々ありました。御領地の米穀、産物等はこれまで日々、背中炙り峠を長瀞表へ駄送されていました。訴訟人たちが横道などと言うのは、不法千万のことと申し上げます。

 もっとも、背中炙り峠は、前に申上げましたとおり畑沢地内にありまして、右の村々は東西が険しい山になっていて、平山と言えるのは背中炙りの山だけで、百姓には農作業第一の草刈り共同の場になっています。日雇い人馬が行き来して楯岡の市へ行き来して百姓は相続しているような村です。もっとも、山寄りの村ですので、農作業の手が空いた時は山に励んで市場へ上郷辺りへ運送し、産出した品物と交易することによって朝暮れには煙が立てられる相続をしている者が多くいる村でございます。

 なお、細野村につきましても畑沢村と同様に極めて深い山の谷間の村で、村の生産量は、六百四十八石七升、戸数八十五軒あります。石高が戸数に相当しないのは、普通の年でも百姓が食べるものが不足し、他に金銭を得る品物もないので、山仕事に励んで生活しており、畑沢村同様に楯岡村の市場へ運送して交易することによって、お金の上納に差支えないようにやってきた慣習の村だからでございます。

 大貫治右衛門様が治められていたころ、既に穀物その外の産物等を背中炙り峠へ通すことを差止めされたことについては、畑沢・細野村・延沢村へ仰せ渡しがありませんでしたし、はるか昔からこれまで、穀物その外のものも背中炙り峠を滞りなく駄送することを仕来たりにしてきました。特に、荒町組には近辺に野山がなく、草刈りをする秣場(共同の草刈り場所)がないので、はるか昔から畑沢村へお金を払って背中炙り峠へ罷り越して、日々、通って草刈りをしていた組でございます。然(しか)るに、右の道筋を差し止められては、田んぼを相続していくこともでき申さず、難渋至極でございます。

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久しぶりに「おさいど」に参加ました。

2014-02-25 18:15:11 | 行事

 古文書が続いて、お疲れかと思いますので、今回は古文書を途中でお休みしまして、全く別の内容です。

 平成26年度2月24日に畑沢(上畑沢)で、「おさいど」がありました。昔は下畑沢、中畑沢、上畑沢の三ケ所で行われ、かつ、1月16日と1月24日の二回でしたので、全部で3箇所×2回で計6回あったようです。ところが、おさいどをする人が高齢化し人数も減ったので、たった一つのおさいどになってしまいました。実施する日も、厳冬期に実施するのは大変だということで、2月24日に落ち着いたそうです。「小さいことにこだわらない」おおらかな決め方です。私もおおらかなことには、いつでも大賛成です。

 さて、おさいどの準備は、午後1時から直ぐに始まりました。最初にやるのが、道路からの絶壁を登ることです。道路の除雪が徹底されていますので、舗装面が常に現れています。道路の周囲には、雪が積もっている上に除雪の雪がさらに覆いかぶさり、4mほどの壁があります。おさいどの場所は、その上に作ります。そこまでの階段作りを行いました。今年の雪は、ぎっしりと詰まっていて、スコップでの作業は大変な苦労です。ようやく階段ができると、持ち寄った萱(かや)や藁(わら)でおさいどを作りました。昔は山から切り出した柴で骨組みを作り、その周りに藁を括り付けました。ところが、近年、藁がありません。コンバインで刈りますので、藁は田んぼに切り刻んで置かれたままです。代りに登場したのが萱です。萱は背丈が高いので、柴の骨組みを必要としません。そのまま、立てかければ形になります。

 実際に点火するのは、夕方の6時でした。オリンピックの聖火台への点火とは異なり、飾りっ気なしに「どれ、しぃつけっか」です。十分に乾燥していますので、瞬く間に燃え上がりました。大きな炎が天に向かって立ち昇りました。地域によっては、掛け声があるようですが、畑沢では何も言いません。でも、習字で書いた紙を棒に刺して炎にかざして、炎上させる習わしがありました。紙が燃え上がるれば上がるほど、字が上手くなると言われていました。私はこれをした記憶がありません。そのためでしょうか、字が下手なままに還暦を過ぎてしまいました。

 火が燃え尽きると、道路の向かい側の「延命地蔵堂」に集まりました。特段、何らかの経を上げる訳ではないのですが、めいめいが手を合わせて拝んだ後は、持ち寄った料理と飲み物を拡げられます。美味しい赤飯、五目飯、漬物、餡子餅等々いろいろ御馳走になりました。話が弾んで、コミュニケーションの場となりました。普段は聞くことができない、畑沢の貴重な話が沢山、出てきます。懐かしい人々の名前も出ています。

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幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その6)-3

2014-02-24 15:44:34 | 歴史

 この背中炙り峠越えの通行の訴訟の一件については、「背中炙り峠一件」と呼ばれています。
 さて、前回に投稿した畑沢、細野、延沢の三村が代官への「返答書」と言う反論を、なるべく原文に近い形で現代語に直して見ます。長文ですし、素人でもありますので、多分に時間がかかります。私の場合は言い訳が多いのを特徴としております。

 ところで、今回の投稿は、返答書の中で三宿駅からの言い分をまとめたところだけとします。前回の原文と照らし合わせて見てください。何となく、原文を読めるようになります。
 今回は、背中炙り峠の山の神が応援しています。手作り感が何とも言えない趣がある石仏です。


――――――――――――――――― 
恐れながら返答書を以て奉り申上げ候(そうろう)
当御代官所の羽州村山郡
延沢村 名主 惣内・新蔵・長兵衛、
畑沢村 名主 源右衛門  組頭 佐五兵衛
細野村 名主 善兵衛   組頭 彦八
が恐れながら一同が申し上げます。

 

同州同郡
尾花沢村 名主問屋兼帯 清一郎  組頭 弥九郎
土生田村 問屋 喜六  名主 孫四郎
本飯田村 名主問屋兼帯 与右衛門
からの御訴訟によりますと、

 

 仙台及び其の外から当郡の上郷筋(楯岡、山形等方面)へ運送する諸荷物は、延沢村から畑沢地内字背中炙りと言う横道(「本道でない脇道」の意)の峠を越えて、秋元但馬の守の御領分である楯岡村は継立てされ、かつ、同郡上郷からの仙台その外の商人の荷物は、右楯岡から直に延沢村へ継立てされている。
 右の様に乱れてしまっては、宿場としての利益を失ってしまい、御朱印・御証文・御伝馬による御用のとおりに各大名の荷物を継立てするのに差支えてしまいます。先年に大貫治右衛門様が御支配されていた時に、延沢村に掛かる訴訟を申し上げたところ、追々、御吟味されて、右背中炙り越えのことは、以前から定まった賃銭もない、全くの横道に相違いないので、これからは御武家様方の荷物は勿論のこととして、諸荷物や背負い荷物も決して継立てしない様に通行を差し止め、かつ、同村で産出した米穀や畑産物も上郷方面へ駄送する物は、右背中炙り越えを差し止められました。ところが、その後に乱れてしまって、延沢村、畑沢村、細野村で産出の米穀と畑産物は、上郷筋へ勝手に右背中炙り横道を駄送する者もあるやに聞こえており、これからは御武家様方のお荷物並びに他郡と当郡の商人の荷物は勿論、右村で産出した米穀・畑産物も一切、右背中炙り峠越えをしないで、街道(羽州街道)で継送りするよう仰せ下さるよう、との訴訟人から願い上げがありました。

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