-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

今年ぎりぎりの「背中炙り峠の楯」報告

2017-12-31 17:28:27 | 歴史

 平成29年12月31日、今年も残り僅かになりました。ふと、振り返って考えると、今年にお約束していたのに、まだ約束を果たしていないことがありました。それは5月14日に背中炙り峠の楯についての発見を報告することです。この日、楯跡と城跡の専門家が背中炙り峠の楯に同行して下さいました。その時に、私だけでは気づかなかったものが沢山、見つかりました。同行して下さった方々のお陰です。

 一番、大きい発見は新しい大きな堀切が見つかったことです。まったく想定しなかった場所でした。それもそのはず、畑沢側からの攻撃に対する防御を意図したものでした。実は5月14日にカメラを持参しませんでした。あらためて6月に調査しましたが、下の写真のとおり樹々が青々と葉を茂らせてしまいました。地形が見えなくなっていました。現場の写真としては落第です。

 これでは何の写真かが分かりませんので、模式図を造りました。どうですか、イメージできるかと思います。図の左側が曲輪という平坦に均(なら)された場所で、堀切に接した縁には高さ1mの土塁があります。それから堀切を越えた右側が自然な山の地形です。今は大木に覆われてしまい、この様な地形を見ることは不可能です。しかし、昔は樹々を総て切り倒して、敵が斜面を登りにくくしていたはずです。

 発見はこれだけではありませんで、もっと沢山の発見がありました。しかし、今年が間もなく終わりますので、取り合えず急いで今年の宿題を片付けました。読者の方々はどの場所なのかが全く見当つかないものと思います。それは年が明けましてからの宿題といたします。

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畑沢で今冬、初めての雪下ろしでした。

2017-12-30 20:12:02 | 近況報告

 12月27日ごろから29日まで山形県内は、全県的に大雪が降りました。早くも11月下旬から本格的に降り始めたのですが、中休みがあったのでゆっくりしていました。ところが、前述のとおりの大雪です。とても畑沢へ出かける元気がありませんでした。今回は寒さも降り方も尋常ではないようです。これからも続くと思うと、気が萎えてしまいます。ようやく30日に降雪量がぐっと少なくなりましたので、雪下ろしと相成りました。

 山形から尾花沢へは国道13号線を通りましたが、意外と年末の帰省者による混雑がありませんで、比較的、スムースに運転することができました。

 畑沢へ入って、先ずは一枚です。まあまあの雪の量です。

 午後に県道の除雪が行われました。この雪ですから除雪車のオペレーターも大忙しだと思います。御苦労なことです。

 雪は独特の幻想的な光景を見せてくれます。撮影場所は下の写真に見えるように、細野地区へ通じている農免道路(またの名を「スーパー農道」)の入り口です。畑沢の中では最も景色の良い眺めが得られます。

 

 先ずは南の方向です。千鳥川が直ぐ近くにあるのですが、今にも雪に埋もれそうです。左の山並みと右からの山並みがぶつかったところに背中炙り峠がある山があります。

 次に北の方向です。荒屋敷の家々が右側に見えます。ところで、山は光を浴びて白く輝いていますが、空が暗い色になっています。これは、曇天の西側から狭い範囲で西日が入り込んでいるからです。

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つけぎ(着け木)

2017-12-21 21:00:00 | 思い出

 今の11月25日に、尾花沢市内の牛房野地区へ出かけました。旧牛房野小学校が「ほたるの里郷土資料館」になっていて、そこに昔の農具や縄文時代の石器・土器などが展示・保管されています。その中で、珍しいものを見つけました。ずっと思い出せなかったある物の名前も思い出せました。それが下の写真です。札が付けられていますので、「つけぎ」と分かります。杉をシート状に1mm程度に薄く削ってあり、一方に硫黄を付着させています。下の写真はそのシートが束ねられているものです。囲炉裏などでスバ(柴 しば)に火を着けるために使います。束から一枚を引き出して、さらに適度の幅に割きます。硫黄が付いている方を囲炉裏の灰の中から出した熾き(おき)にくっつけると、硫黄部分が青白く燃え始めます。硫黄は独特のツーンとした刺激臭があります。次第に木の部分も燃え出して炎が大きくなると、杉の葉など燃えやすいものに火を着けることができます。

 とまあこれだけのことですが、話はこれだけではありません。昔の「良い子」の思い出が沢山あるからです。良い子たちは常盤小学校一年生。午後、学校から帰って、入り口で「只今」と言っても誰も答えてくれません。両親は田畑に出かけていて、夕方まで帰ってきません。良い子は直ぐに外で遊びだします。チャンバラ、かくれんぼ、相撲等々なんでもあります。3時間ぐらい経つと、今度は姉が帰ってきます。姉は良い子とは違う行動を開始します。夕食の準備です。小学校4年生の時から夕食、掃除、風呂の準備と一切を任されています。もう良い子ではありません。まるでミニ大人です。良い子はミニ大人の使用人です。いろいろと仕事を命令されます。特に囲炉裏の火を起こし、そこで煮炊きする番が主な仕事でした。囲炉裏に柴を並べて、その下に杉の葉を突っ込みます。それに「つけぎ」で火を起こして火を大きくします。囲炉裏では御飯、みそ汁が作られ、極めて稀に魚が焼かれます。夕食ができるころ、両親が農作業を終えて帰ってきます。

 良い子が珍しくも、家に帰ってたった一度だけ宿題をしようとしました。その時、「手伝えー」の母の声が聞こえ、私は「宿題するー」と言いましたら、「何言ってる。宿題するわげない。手伝うのやんだがら、このやろ」のきつーいお叱りの言葉でした。折角、改心して宿題をやろうとしたのに、このために立派な大人になる絶好の機会を失ってしまいました。しかし、姉はすごいもので、あれだけ手伝いをしながら、宿題を忘れることがなかったようです。当然、姉と私の評価には大きな格差がありました。私は宿題をしないために、学校の廊下に立ち、教室の後ろに立ち、足腰が丈夫になりましたし、何人もの先生に罵られても逆境に負けない雑草魂が育まれました。そして捻くれて、宿題無用論を唱え、「宿題なんかしなくても、学校だけで勉強すればいいんだ。家で勉強やるのは卑怯者」とまで勝手な理屈をこねます。手が付けられません。しかし、火の着け方は今でも上手です。良い子は上手に火を着けます。無用な火遊び、放火などの犯罪を憎みます。

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昭和5年の常盤村(交通・運搬道具の所有状況)

2017-12-18 15:54:13 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査した内容が記載されています。

 今回は交通と運搬に関わる道具を取り上げます。

 これまでと同様に「郷土調査」の表では、漢数字を用いていましたが、算用数字に置き換え、列の順序も左右を逆にしました。

 さて、下の表は交通と運搬に関わる道具の所有数です。三日町、九日町、古殿の自転車と荷車の所要台数が二桁になっています。

 各地区の戸数にはかなり格差がありますので、戸数当たりの所要台数で比較してみました。単位は%です。三日町、九日町、古殿の所有状況がさらに強調されました。自転車については、三日町、九日町、古殿地区が20%台となっており、畑沢、細野、鶴子地区の3、4倍です。荷車は三日町と九日町が多く所有しています。自転車も荷車も尾花沢との近さが関係しているようなしていないような感じですが、それらの道具が持っている有効性が関係しているのかもしれません。リヤカーはまだ一般的ではなかったようです。

 ところで、私が小学生のまだ「良い子」であった昭和30年代には、畑沢の家でも一家に一台の自転車がありました。小学2、3年生くらいになると、パンク修理もしました。昭和5年頃、パンクの修理はどのようにしていたのでしょう。


 百分率の表をさらに下のグラフにしました。縦軸の単位は%です。今回は初めて横軸に地区を配置しました。これまでは道具を横軸にしていましたが、今回のように、道具を横軸にした方が比較しやすいようです。EXCELを操作していると、勝手にこのようなグラフを作ってしまいました。これを「怪我の功名」と言うのですね。

 自転車、リヤカーが出てきましたので、良い子が昭和30年代にやっていた遊びを紹介します。今の良い子は、絶対にやつてはいけない遊びです。それは、リヤカーと一輪車を使って遊びます。リヤカーのハンドルに一輪車の前縁を縄で接続します。準備工作はそれが総てです。これを耕運機と言いました。坂道の上に持って行って、一輪車のハンドルを揚げると、耕運機はジワリジワリと加速されていきます。十分に坂道を下ると、スピードはかなりのもので、スリル満点です。ブレーキになるような装置がありません。さて、ここで「良い子」でないことがバレてしまいました。そうです。とんでもないことです。もしも、自動車が来たら交通事故になりかねません。幸い、自動車は来ませんでした。一日に一台か二台です。来るとすれば自転車ぐらいなものでした。今、これをやれば、背炙り峠を行き来する高級車と正面衝突を免れません。「いい時代」だったのか、それとも「とんでもない悪餓鬼時代」だったのでしょうか。

 

 

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隣の細野(巨木と阿弥陀仏)

2017-12-14 17:20:34 | その他

 延沢から畑沢へ行く場合、荒町を過ぎたところで、左右の視界が広がります。左側には遠くに細野地区が続いています。さらにその奥にスキー場のようになだらかな草原らしき景色が見えます。細野地区の人の話によりますと、それはワラビ園だということでした。ワラビ園だと分かっても、それでもこの目で確かめたい気持ちが納まりません。そこで、実際に行くことにしました。ただし、もう一か月以上も前の話です。

 荒町から市道を南へ進み、細野の集落を過ぎ人家が全くなくなりましたが、ワラビ園は見えません。と言うよりも完全に見失いました。それでも、どこまで行けるか、行くだけ行ってみたくなりました。目的が途中からコロコロと変わります。

 山の中に道が入ってから暫くして、右側に大きな木柱の標識が立っていました。「阿弥陀堂桂巨神木 樹令400年」と書いてあります。

 巨神木は標識から少し離れていて、山の奥の方へ入った所にありました。私にとっての巨木の類(たぐい)は、殆ど杉の木です。例えば、延沢お城山の杉、畑沢熊野神社の杉、畑沢延命地蔵堂の杉、戸沢村の土湯杉、遠く屋久島の縄文杉です。例外的に、東根の大ケヤキがあります。桂の巨木は見たことがありませんし、そもそも桂の木に対するイメージを持ち合わせていません。当然、知らないものには好奇心が湧き上がります。

 桂の巨神木を目の当たりにして、驚きました。異様な形です。さすがに400年の歳月を生きてきただけのことがあります。単なる幹が太くなるばかりでなく、根元から幾つもの枝が出て一まとめにされているような形です。桂とはこのように成長するものなのですねえ。感心してしまいました。他の樹種とは全く異なる樹形です。

 ところで、下の写真では「大きく」ないように見えてしまいましたが、それは私の「腕」が拙いのです。巨木の手前にある草の葉が大きく写ってしまったからです。実際は大き過ぎるので、かなり離れて撮影しています。

 下の写真は、阿弥陀堂です。堂の両脇にも杉の巨木が立っていて、堂の門柱の役割をしています。

 堂の中には、三体の石仏が座っています。向かって左の石仏の頭部は地蔵のようですが、地蔵ではないのでしょう。中央と右の石仏の頭部は、まるで女の子の「おかっぱ頭」のように、髪がたっぷりあるように見えます。このような石仏を見たことがありません。桂の巨木もそうでしたが、細野地区は畑沢の直ぐ隣なのに、これほどまでに違いがあります。これも文化の違いと言うのでしょうか。面白いものです。

 私は「阿弥陀仏」なる仏様についても知識を持ち合わせていませんので、少し調べてみましたらその形は一つではありませんでした。奈良や鎌倉の大仏のような形もあれば、この写真のように髪がフサフサとしている仏像もありました。細野地区の阿弥陀仏は、「フサフサ」派です。

 

 ところで、とうとうワラビ園を確認することができませんでした。

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