-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢の謎を解くために堺田へ

2018-08-29 20:58:55 | 歴史

 ようやく6月28日に、待ちに待った最上町の堺田に行くことができました。畑沢通信なのに、何故、最上町が出て来るのかを不思議に思われる方もおられると思います。実は、堺田は畑沢と大いに関係がありそうなのです。平成27年の畑沢祭の席で、同席していた先輩が、「松尾芭蕉が泊まった封人の家は、野辺沢(延沢)家の家老だった有路が先祖である」と話してくれたことに始まります。後日、そのことを思い出してインターネットで封人の家を調べたところ、封人の家は最上町堺田の名主で、先祖は野辺沢家の家臣であった小三郎である旨が記載されていました。

 私がそれまで読んだ郷土史家の本によると、この家老だった有路は、有路但馬と言って、畑沢の向かい地区に帰農した有路家の先祖と言われている人物です。しかし、畑沢では、郷土史家の本のことを知らずに、「有路但馬の子孫が堺田にいる」という認識があっても、「畑沢に有路但馬の子孫がいた」との認識を持っていないことにも驚きました。そして、もう一つの驚きは、「小三郎」は、背中炙り峠の楯跡にも残っている地名とおなじであることです。堺田の小三郎も、楯跡の小三郎も時代は一緒です。その関係に大きな興味を持ちました。

 そこで、最上町の封人の家に関する資料を確認したかったのですが、こんな私でも結構、忙しくて、最上町へ出かける機会がありませんでした。そこで、今年の2月下旬に、「邦人の家に関するインターネットのホームページは、最上町の観光協会のもの」と勝手に解釈して、確認もしないままに最上町観光協会へメールを差し上げましたら、親切に同町の教育委員会へ繋いで下さいました。さらに同教育委員会では、封人の家に詳しい歴史の研究家を紹介して下さいました。その方は、色々と教えて下さった外に、「重要文化財 旧有路家住宅修理工事報告書」に封人の家の先祖についての記述があることを教えて下さいました。そして、私が見たホームページは、待ちの観光協会で教育委員会のものでもなく、私が観光協会と教育委員会に御迷惑をかけてしまったことを自覚しました。

 最上町の方々にこれほどまでにお世話になって分かったのですから、直ぐにでも最上町へお邪魔して、資料を拝見すべきでしたが、私の行動力は実に乏しいものです。2月からずっと孫(乳児)の保育助手などに勤しんでいるうちに、何と4か月以上も経ってしまいました。ようやく孫から暫しの猶予をもらいましたので、張り切って最上町に行くことができました。

 当日、山形を9時過ぎに出発したのですが、道草の好きな私は途中で何度も停車して時間を費やしてしまいしたので、向町に着いたのが正午近くになってしまいました。昼時間にお邪魔するのは失礼なので、昼食を取りながら街の中を観光することにしました。

 町の玄関はやはり最上駅です。真新しい白い建物です。周囲には広い駐車場がありますので、駅に車を停めて鉄道で遠出できそうです。

 駅の構内には、鉄道を除雪する機械が沢山、見えます。奇麗に塗装されて冬季に備えています。最上駅は、この地区の除雪基地でもあるようです。

 

 街の中には畑沢に多い苗字を見ることもできました。最上町は畑沢と関係がありそうな気持になってきます。

 

 昼食を済ませて、最上町立中央公民館の図書室にお邪魔しました。職員の方々からとても親切にしていただき、「重要文化財 旧有路家住宅修理工事報告書」を拝見することができました。本の内容からは、期待以上の収穫がありました。今ではとても聞くことが出来ない情報だらけです。まさか、畑沢に関する貴重な情報が、畑沢との関係を全く想像できない場所にあったのです。

 

 資料を拝見し、次に肝心な「封人の家」そのものを見に行くことにしました。同じ町内ですから直ぐに到着するかと思ったのですが、10km以上もありました。封人の家は大きな建物です。江戸時代の名主ですから当然なのでしょうが、それにしてもかなりの大きさです。ここが、畑沢の謎に大きく関係していると考えている現場です。

 

 次に周囲の観光です。やはり堺田ならば、山形県と宮城県に降った雨が分かれる分水嶺です。封人の家から南へ緩やかに土地が傾斜しており、その先に分水嶺があるらしいようです。分水嶺の途中で見通しが効く広場がありました。そこで宮城県がある東を見ますと、実に不思議な光景がありました。山形県民が東を見ると必ずあるはずの「あれ」がありません。

 「あれ」とは、高い山並みです。「山形県と宮城県の境には、奥羽山脈がある」というのが常識のはずなのですが、視界の右(南)にある山が東方向で消えています。そして視界を左に移すと再び高い山が繋がっています。東側だけないのです。奥羽山脈が消えています。これが堺田の特徴を最も特徴づけているものです。堺田に近接する辺りには、何百万年以上も前から大きな火山がカルデラを幾つも形成しました。山形県側には向町カルデラ、赤倉カルデラ、宮城県側には鳴子カルデラと鬼首カルデラがあります。そのために、地形がこんがらがっています。その結果、一筋の大きな脊梁山脈になれなかったようです。

 

 分水嶺の場所です、奇麗な公園として整備されています。この場所は県境からかなり山形県の中に入っています。普通、分水嶺が県境になっている場合が多いのですが、ここでは分水嶺が県境になっていません。堺田の力が及ぶ範囲を山形県としたのかもしれません。

 

 分水嶺の公園からさらに南へ下ると、堺田駅がありました川らしいものも見当たらないのに、堺田の集落がある場所よりも一段と低い場所になっています。この地形も不思議です。もう一度、ゆっくりと眺めてみたい所です。今度は、鉄道で行きたいと思います。

 

 さて、最上町で資料を見せていただいて、私がまとめた文章は次のとおりです。

 

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有路小三郎の謎

 最上町には、松尾芭蕉が二泊三日滞在したと伝わる封人の家があります。芭蕉はそこで、有名な「蚤虱(のみしらみ)馬の尿する枕もと」の俳句を詠みました。封人の家の先祖は有路小三郎という野辺沢家の家臣でしたが、最上家が改易される前にここに移ったとの伝えがあります。そこで、最上町の観光協会、同町教育委員会の方々にお願いしたところ、町の文化財審議会のIさんを紹介していただきました。早速、Iさんから「重要文化財 旧有路家住宅修理工事報告書」に有路家の先祖に関わる記載があることを教えてもらいましたので、再び教育委員会の方々のお世話になりながら、報告書を拝見しました。

 報告書の中でUさんが記述している部分があり、同氏によると、堺田は「東と西からそれぞれ吹く風の通り道なので、寒冷の被害を受けやすい土地」で「農業の生産性が低く、昔から山野に依存する度合いが高い土地柄」だったそうです。それだけに、この土地に定着する人たちには「特殊な要因があるにちがいない」とUさんは見ています。また、この地域に古い家柄の小松姓と秋生姓のお宅もあって、これらの家にも有路家と同じよう過去の経緯があったであろうと示唆しています。

 Uさんが封人の家の先祖に関して、関係者から聞いた概略は次のとおりです。

封人の家に伝わる伝説(AY氏の話)

  「代々、堺田の庄屋を世襲してきており、その先祖は延沢からきた」

延沢の龍護寺と畑沢のAK氏の話

  「元和八年に延沢家重臣の有路但馬には息子が三人いて、最上家が改易されてから、兄の猶昌は尾花沢市の畑沢、弟は最上町の堺田と宮城県の一迫(現在の栗原市)に移った」

 猶昌を但馬の息子と見ることには、但馬の年齢猶昌の生まれた年から見て無理があります。当然、弟という立場も違うものとなりますが、戦国時代の知恵として、お家の存亡に係る一大事には、関係者が別々に住む危機管理方法が面白いと思います。

 封人の家と有路姓を結び付けるもう一つの参考資料がありました。昭和63年に第9版として発行された「奥の細道芭蕉と出羽路」(著者 早坂忠雄氏)です。封人の家について、次のような記述(概略)がありました。なお、著者は畑沢の隣、村山市櫤山の御出身です。


(堺田を含む)富沢地区は、既に慈覚大師(9世紀)のころから馬産地として名高かった。

AY氏の話によると、「祖先は延沢霧山城主、延沢家の臣、有路小三郎の一族で、当家は元和八年没落したが、それ以前に堺田に帰農した」とのことであった。


 これら二つの資料を次のようにまとめました。

①  延沢の龍護寺や畑沢のA家には、「有路但馬の三人の息子と言われている者は、畑沢、堺田、一迫に移り住んだ」

 と伝えられています。

② 一方、封人の家の「先祖は延沢家の家臣である有路小三郎で、最上家改易の前から堺田に帰農した」と伝えられて

 います。

③  さらに、堺田には有路姓以外にも小松姓と秋生姓が古くからあり、有路姓の家と同じように野辺沢家の事情に共通

 の経緯があったことが伺われます。

④ そもそも、堺田は一般的な農業を行うには難しく、馬を育てている場所に移り住むには、よほど特殊な事情があっ

 たことが考えられます。

 そして、まだ人気(ひとけ)が少ない地域に移り住んで、何の資産も持たない状況で生活していくのは、並大抵のことではできません。最初から何らかの資産があったか、又はどこかから定期的に資金等の補充があったことを伺わせます。これが事実なら、小三郎は有路但馬の息子ということになります。有路但馬の推定される年齢と小三郎の子孫が堺田の名主であったことなどの客観的な状況を考えると、小三郎が但馬の息子であったであることは辻褄が合うような気がします。

 それでは何故、改易前に移り住むことになったのでしょうか。これは上述の東根(里見)家や成沢家のように、最上家の改易に対して備えていたと考えられます。改易になってからでは財産を没収されますので、その前にかなりの資産を持って小三郎は堺田に移り住んだとも考えられます。これは普通ならば小三郎の野辺沢家に対する裏切り行為と取られ、追っ手を差し向けられかねません。但馬もその責任は重大で、切腹を免れません。しかし、野辺沢家中が同意のうえでの行動だったのでしょう。山形城にいる野辺沢遠江守に代わって、地元に残っている筆頭家老の有路但馬が、やがて訪れる大危機のために対策を練り、小三郎に最上領の最北端で何らかの備えをさせたとも思えます。最上家の改易後に、堺田村は新庄藩の保護・奨励の下で馬産地として発展していたそうですが、新庄領となる前の最上領だった時も馬の産地であったそうなので、お家再興の旗を揚げる時には、軍馬を整えることができます。

 堺田は畑沢から直線距離で約25km、自動車道路で33km約40分の距離なので、遥か彼方にあるようにも感じますが、意外と畑沢とは身近に感じられる景色があります。畑沢の北北西に、懐を開いたように聳えている禿岳(かむろだけ 標高1,261m)が大きく見えます。堺田はこの山の5km手前にあります。もしも堺田と畑沢の有路がある目的を共有していたならば、畑沢からこの山を眺めるたびに、堺田の同志を思い浮かべていたでしょう。

 小三郎の名は、畑沢にも残っています。背中炙り峠の楯跡の一角に「小三郎」と呼ばれている小さな沢があります。畑沢側からの楯への入り口に当たります。既述したように、背中炙り峠の楯は野辺沢領の最南端を守り、かつ南へ軍勢を繰り出す前線基地的な機能を有した重要な施設だったと考えられ、小三郎は「小三郎」と呼ばれていた場所で楯の何らかの重要な役割があったのではないかと考えました。また、隣の沢には「平三朗」の地名があり、さらに楯から少し離れた奥まった沢のかなり広い平坦地には「又五郎」の地名が残っています。平三朗の名前の手がかりは見つかりませんでしたが、「又五郎」は野辺沢遠江守の幼名です。又五郎、小三郎、平三朗とまだ若い主従の南へ進軍する時の駐屯場所を意味していたとも考えられ、小三郎が野辺沢家の重要な家臣であることを証明する地名であり、封人の家に伝わる小三郎が畑沢に存在していたことを証明する地名でもあると考えました。そして、小三郎が最上家改易の前に堺田村に移ったということは、そのころ既に背中炙り峠の楯が不要になっていたことになります。

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生き物がいっぱい

2018-08-24 10:38:23 | 自然

  平成30年8月22日、いろんな生き物を見てしまいました。先ずは上畑沢の延命地蔵堂の境内で見た蟻地獄です。ウスバカゲロウの幼虫が臼のような罠を仕掛けて、落ちてきた蟻を捉えます。蟻にとっては地獄です。大雨が降った時には、この辺りの地面も水浸しになったのでしょうが、この時にはもう乾いた地面に多数の蟻地獄ができていました。蟻もせっせと歩き回り、地獄に足を突っ込んでしまったものもいましたが、必死に足をバタつかせて地獄から逃げ出していました。

 小川では、畑沢では珍しいくらいに小魚が群れています。殆どがアブラハヤで一匹だけ大型のドジョウが水底に這いつくばっています。最近、畑沢でも魚が大分戻ってきました。写真では魚が曲がって写っていますが、魚が曲がっているのではなくて、水面が波打っているからです。私は水中カメラを持っていません。偏光レンズで水面の上から撮影しました。

 魚だけではありません。蛙も沢山いました。賑やかな色彩でしたので、トノサマガエルと思ったのですが、かなりスマートです。もしや、別の種類かとも考えましたが、やはりトノサマガエルでした。

 こちらは別の個体です。少し日陰にいます。きっと利口な蛙なのでしょう。

 こちらは水の模様が奇麗に映っていましたので、登場させました。こんなところで泳げたら気持ちいいでしょう。

 アップ撮影です。蛙の水かきがよく撮れています。

 生き物が沢山いても、その上流はコンクリートの三面張りと大きな段差がありました。この上流には生き物に良好な環境があるのですが、そこまでは上っていけません。

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背炙り峠で遊びました

2018-08-23 19:36:55 | 近況報告

 

 平成30年8月15日に大雨が降り、尾花沢市内に24時間降水量が110ミリを超えました。その十日前の8月5日にも大雨となり、尾花沢市内は全戸に避難勧告が出されていました。今年はとんでもない年です。幸い、5日の大雨による畑沢の被害はなかったのですが、それよりも15日の降水量の方が多かったようです。ただし、避難勧告等が出ませんでしたので、大丈夫だったのであろうと推測していました。それでも、降ったことは事実なので、大分時間が経過しましたが8月22日に畑沢へ出かけました。

 大雨で背炙り峠が通行止めになっているかと心配しましたが、通れました。先ずは一安心です。いつもの湧水のところで、嬉しい光景を見ました。奇麗に掃除がされています。しかも、水量も豊富です。

 

 湧水を飲みたかったのですが、急いでいましたので撮影だけして、そのまま通過です。

 畑沢で水路等の状況を確認したところ、確かに水位がかなり上昇した痕跡がありました。しかし、どこでも溢れるようなことはなかったようです。一安心です。

 やりたいことを終えて、帰路、久しぶりに峠からの風景を眺めることにしましたが、峠の夕日には少し早かったようです。しかし、車がないのに、ランニングスタイルの方がお一人で楯岡方面を眺めていました。車がないことを不思議に思って尋ねて見ましたら、何と楯岡から峠まで走ってきたということでした。数百メートルで音をあげる私とは、月とスッポンです。世の中には大した人がいるものです。唯々、尊敬し、話し込んでからお別れをしたら、太陽が葉山に隠れて始めて、夕日らしい雰囲気になりました。でも、「奇麗な夕日」には程遠いものです。それでも写真をお見せするのは、この写真の中央に飛行機が写っているからです。飛行機があれば、特別です。見えますかねえ。

 飛行機は嘘ではありません。それが何より証拠には、次の写真に望遠で撮影した飛行機が写っています。しかも、拡大すると、JALであることが分かりました。きっと、甲子園大会決勝で戦った金足農業高校を応援した人たちが乗っていたのでしょう。飛び方が、実に晴れ晴れとしていました。主翼の両端が上に反り返って感情を表しています。

 反対方向に目をやると、甑岳の雄姿が見えましたが、両脇に只ならぬ雲が湧きあがっていました。所謂、積乱雲です。この日も台風19号の影響を受けた猛暑で、山際のあちこちに、もくもく雲が登っていました。この写真は上昇中の積乱雲でしょう。

 

 峠から少し楯岡側に下って再び雲を見ると、上が平坦に変形しています。積乱雲の真ん中で激しい雨が落下したようです。雲の上には、奇麗な月が出ています。まだ満月にはなりませんが、十分な輝きがあります。

 さらに林崎まで来ると、雲は積乱雲の面影が薄くなっていました。 月はここにも追いかけてきてくれました。


 ところで、山の中では大雨の爪痕がありました。路肩が崩れていました。何年か前に山側にU字側溝を設置し、谷側の路肩にガードレールのアンカーを埋めました。アンカーを埋める時は、元々の地面を掘り起こしますので、土の粒子同士の結束が弱くなってしまい、浸食を受けやすくなります。だから、私はいつも、路肩を掘り起こさない工法を推奨しているのですが、毎年、同じ工法を繰り返しています。このような山岳地帯は、平坦部の道路とは異なるやり方が必要です。優秀な職員がいるはずですから、十分にその能力を発揮してもらいたいものです。最近、「粛々と仕事をする」ことが流行っているようですが、それではロボットに負けます。おかしいと思ったら、一旦、立ち止まってしっかりと問題を是正することが必要です。

 これ以上に浸食が進まないように、可愛らしい小さな土嚢が並べられていました。こんな土嚢があるんですね。

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