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-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

村差出明細帳を現代の畑沢と比較してみました。(3)

2015-07-31 19:58:20 | 歴史

 前々回の土橋、前回の宗教関係の建物等に続いて、今から約300年前の畑沢を現在と比べながら古文書から覗いてみます。今回は畑沢村の職業について、百姓以外のものを拾ってみました。

 畑沢村差出明細帳 正徳四年(1714年)

一、  當村ニ浪人無御座候(当村には、浪人はいません。)

 畑沢には、野辺沢家に仕えていたが、最上家改易に伴う野辺沢家の消滅によって、畑沢に帰農した者が何人もいたようですが、完全に農民となっていて、「浪人」扱いにはならなかったようです。

一、  醫師無御座候(医師はいません。)

 正式な医師はいなかったようですが、医師的な役割をしていた市三郎という村人がいて、大変な金持ちになり羽振りが良い生活だったとの伝説が残っています。背中炙り峠越えの街道が通っている畑沢村ですから、旅人にとっても助かったことでしょう。

一、  山伏壱人御座候  當山 正福寺申候(山伏が一人います。正福寺と申します。)

「山伏」と言うと、今の羽黒山などで見られるように法螺貝を吹き、小さな箱の様な物を背負い、小さな多角形の帽子の様な物を頭に載せて棒を手に持っている姿を思い浮かべますが、村に在住していた当時の山伏はかなり様相が異なります。当時は神仏習合で神社にも仏が祀られていましたし、「山伏」は現在の神主の役割の外に、占い、加持祈祷、湯殿山参りの世話、村の石仏に係る行事などもやって、多岐多彩なことに関わっていたようです。山伏には特典があり、お寺と同じように年貢の取り立てを免除されていました。その意味では、普通の農民よりかなり余裕のある生活ができたと思われます。山伏は妻帯しており、代々受け継がれていたようです。山伏の屋敷内には、その家だけの祠(ほこら)が祀られていましたので、この祠でも特定できそうです。

 明治になって神仏分離を強く推し進められた結果、ある程度に大きい神社の別当になっている者は完全に仏教を捨てて神官となり、また密教を選んだ者は天台宗や真言宗の「寺」の住職となりました。このどちらでもない山伏の大部分は、普通の農民となりました。

 畑沢の山伏は、幕末まで存在していたと思われます。それでは幕末よりもさらに約150年前の村差出明細帳に出てくる正福寺という山伏の家が、代を重ねて幕末まで続いたかも興味あるところで、畑沢で山伏であったと思われる家もほぼ特定できそうな気もしますが、現在はそこに在住しておりませんので、確認することができませんでした。

 さて、山伏はどこの村にも一人はいたようで、尾花沢市史編纂委員会が1978年に発行した「尾花沢市史資料 第5輯 村差出明細帳 附一年貢割付状.皆済目録」から畑沢以外の尾花沢市内の村明細差出帳に記載されている山伏また神職と思われる事柄を抜き出して表にしてみました。

 

上の表で尾花沢村の3人のうち2人については、「山伏」とか「修験」の単語が使われていません。普通の山伏でない神職かもしれませんが、確認できる力量は私にはありません。いつものように、何方か教えてください。

一、  行人・神子・道心者・鍛冶・大工・桶屋・舞廻・猿引・、此通り無御座候(行人(乞食僧のこと)、神子(巫女のこと)、道心者(仏道に帰依した者のこと)、鍛冶、大工、桶屋、舞廻、猿引、はこのとおりございません。)

 農民以外の特殊な職業や特殊な身分の者を取り上げていますが、誰もいなかったようです。例えば、当時の「大工」の範疇には、現在の木工を扱う大工の外にも石工も含まれていたようですが、畑沢には両者ともいなかったようです。畑沢の奥にはローデンやゴロウと言った石切り場がありましたが、石工もいなかったということになります。しかし、「石切り職人はいた」という伝説があります。

 ところで「」とは、士農工商の身分制度の番外に扱われていた身分です。動物の皮を使った職業などに就いていたのですが、西日本では所謂「民の差別」があり、辛く苦しい思いをさせられました。その点、東北では大きな問題にはなっていませんでした。

 ここで正直に申し上げます。「行人」、「舞廻」「猿引」、「道心者」の正体が分かりません。辞書で調べると、それなりの説明がありますが、それを見ても「何のこっちゃ」でした。これらの職業は、畑沢には最初から関係ない者ばかりのようです。恐らく、明細帳を作成するにあたって見本のようなものを見せられて書かされたような気がします。該当しないことは最初から書く必要がありません。該当するものだけを書けばいいのです。

一、  馬喰 壱人御座候 弥左衛門と申候(馬喰(ばくろう)は一人おります。弥左衛門と申します。)

 「ばくろう」とは、牛馬の仲買を主にした生業で、獣医師的な業務もやっていました。畑沢に弥左衛門という村人が馬喰をやっていたようですが、弥左衛門という屋号は畑沢には残っていません。馬喰は昭和年代にも見られましたが、畑沢の人ではなくて、他の地区の人がやってきました。

一、   弐人御座候 藤三郎 三太と申候(は二人います。藤三郎と三太と申します。)

 とは、罪を犯した者のことです。罪を犯したと言っても、村に住むことができるのですから、大きな罪を犯したわけではないようです。

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千鳥川ウォッチング(7)

2015-07-29 17:36:28 | 自然

 昨年の11月から久々の千鳥川ウォッチングです。畑沢が猛烈に暑かった7月27日に、無性に川に近づきたくなり、岡田沢と対峙している西側の山裾を流れている千鳥川を覗き込みました。すると、意外なほどに魚の姿が多く見られました。昔、子ども時代での光景のようです。昔は川のどこを覗いても、必ず魚の姿が見えました。ところが、最近は極たまにしか見られる程度だったのです。しかし千鳥川の最下流に近いこの場所には、沢山の魚が見えました。魚の種類は、ウグイ(畑沢のヘズギ)とアブラハヤ(畑沢のニガザッコ)の様でした。それにしても、こんなにも魚が復活したのは大変うれしいことです。それでは記念写真とカメラを向けても、大きい個体は素早く逃げて、残ったのはメダカ程度の幼魚だけです。

 県道へ戻り、荒町方面へ下ったのですが、またしても「川覗きたい病」の発作が起きてしまいました。松母橋を渡って直ぐに朧気川の右岸沿いには、管理用の砂利道が続いています。昔はなかった道です。「行きあたりばったり病」も併発して、行けるところまで行ってやろうと、この道を下ってみることにしました。直ぐに行き止まりと思っていたのですが、何処までも続いています。とうとう、朧気川と千鳥川の合流点らしきところが見えました。畑沢に生まれて、六十数年ですが、これまで一度も合流点を見たことがありません。初めて見る興奮で心臓がどきどきしました。川岸には葦が背丈以上に生い茂り、行く手を阻みました。慎重に進んで、川面に出ました。朧気川の右側から、チョロチョロと流れて来る水が見えます。ははあ、これが千鳥川かと拍子抜けしながらも納得しました。二つの川の合流点なら、もっと広い場面を想像していたのですが、何とも慎ましいものでした。

 合流点の慎ましさでは満足できませんでしたので、合流点から少しだけ上流の千鳥川はどんなものかと興味が湧いてきました。10m登っただけで直ぐに進めなくなりました。結構、大きな淀みになっています。遊漁券でも持っていれば、直ぐに釣りたくなるような場所です。

 今度は逆に、合流点から下流側の朧気川はどうなっているのでしょう。合流点もそうでしたが、朧気川の川底は固い岩盤になっています。私達、畑沢出身者は朧気川を松母橋から見下ろしたいますので、川石がごろごろしている姿を朧気川の総てと思いがちですが、実際の朧気川は、岩盤で構成されていると言えるものです。岩盤の岩質は堆積岩のようですが、その種類が何であるかは私には判定できません。恐らく新生代第三期あたりに形成されたと想像するぐらいです。

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畑沢も盛夏

2015-07-28 09:49:05 | 近況報告

 昨日7月27日は、朝から暑い日でした。背炙り峠を越えて畑沢に入りましたが、いつもの涼しさはありません。外に出るだけで全身から汗が湧きだしました。

 この間はまだ初夏だったのですが、今は間違いなく盛夏です。下の写真はおなじみの葛(畑沢語ではクゾ)です。マメ科植物ですので、たんぱく質に富み家畜の餌に好適ですが、今の時代は誰も刈り取りません。いたるところで、県道まではみ出してつるが伸びています。

 田んぼにもオモダカが咲いていました。代掻きの時に畦に寄せられた球根から、葉と根を伸ばして群落を形成していました。水田の厄介ものです。しかし、葉の形が面白いので、私としては好きな植物です。

 

 畑沢の盛夏で最も代表的な花は、「山百合」です。水田に続く山の裾には、多くの山百合が「咲いている」と言うよりも畑沢の人達によって育てられています。上手に山百合を残すように除草されています。

 

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村差出明細帳を現代の畑沢と比較してみました。(2)

2015-07-24 19:24:13 | 歴史

 前回の土橋に続いて、古文書から今から約300年前の畑沢を現在と比べながら覗いてみます。今回は宗教関係の建物等について記述されているものを拾ってみます。(太字が古文書の内容です。)


畑沢村差出明細帳 正徳四年(1714年)

 

一、  當村ニ寺無御座候(当村(畑沢村)には、寺がございません。)  

 まだ、このころは徳専寺がありませんでした。この30年後ごろに徳専寺が建てられます。

一、  當村堂 二ヶ所 地蔵堂 熊野堂 別當無御座候(当村には、堂が二か所あり、地蔵堂と熊野堂です。そこには別当はいません。)

 熊野神社は1655年に猶昌が建てたとの記録がありますので、熊野堂とは熊野神社であるのは間違いなさそうです。しかし地蔵堂らしきものは、上畑沢の延命地蔵堂下畑沢の畑沢地蔵庵があります。果たして、どちらが正徳時代の地蔵堂であったのでしょう。有路源右衛門家に残っていた古文書によると、下畑沢の地蔵庵は昌昂(1651~1737)が建てたとあります。昌昂の父親は1701年まで存命でしたので、昌昂が建てたのは1701年から1737年の間と思われます。そうすると村差出明細帳が書かれた1714年には、昌昂は満63歳になっており、下畑沢の地蔵庵が既に建てられていた可能性があります。しかし、堂は村人の集会所の様な機能があります。下畑沢に熊野神社と地蔵庵の二つがあって、上畑沢に何もないというのも不自然です。また、上畑沢の地蔵堂脇の杉の大木も熊野神社の杉と同じくかなりの古さで、上畑沢の地蔵堂も熊野神社と同じくらいの年代を刻んでいると考えられないでしょうか。結局、村差出明細帳の「地蔵堂」がどちらを指しているかは分かりません。

 畑沢の神社も地蔵堂も小さいものでしたので、そこの管理的立場を担う「別当」はいませんでした。荒町の八幡神社のように大きい神社は、当時から別当がいました。

一、  明神社 壱ヶ所御座候

 「明」なる神社とはどんな神社でしょう。熊野神社の外の神社は畑沢には二つあり、どちらも稲荷神社です。一つは荒屋敷の稲荷様であり、もう一つは中畑沢の稲荷様です。中畑沢は当時、関嶺(寒嶺)和尚の生家と外に1、2戸しかなかったと思われますので、稲荷神社を建てることはできなかったでしょう。逆に荒屋敷は、6、7戸はあったと思われますので、現在の稲荷神社が既に当時から建てられていた可能性があります。それにしても明神社の「明」の意味が分からないのではどうしようもありません。

一、  宮無御座候、廟所四ヶ所、山つゝきニ御座候(宮と呼ぶ大きな神社はありません。墓地は四か所にあり、山続きになっています。)

 「宮」と言うのは、伊勢神宮などのように特別な神を祀る神社のことです。わざわざ言わなくても、畑沢にはあるべきはずがあません。墓地は現在も二か所にあり、両方とも尾花沢市管理の共同墓地となっています。一つは上畑沢の延命地蔵堂の近くにあります。


 上畑沢の墓地(共同墓地)

 この場所は、恐らく縄文時代に遡れるほどに上畑沢の聖地だったようで、地蔵堂の南に墓地が作られています。板碑状の珍しい墓石が数多く見られます。


中・下畑沢の墓地(共同墓地)

 江戸時代は「荒屋敷地区の奥」的な位置関係にあった南沢に墓地が作られたものとおもわれます。この墓地には、天保年間や嘉永年間に建立された墓石と石仏が見られます。この墓地の奥には、火葬場だったところもあります。ある時代以降に下畑沢から分家などの形で、中畑沢の戸数が増えましたので、中畑沢の家々もここを墓地したようです。また、向かい地区もここへ墓地を移したようです。


 さて、現在残されている墓地は以上の二か所だけですが、村差出明細帳の四か所には、さらに二か所が足りません。それでは、もう二か所の墓地は何処だったのでしょうか。

 まず考えられるのは、「向かい」地区の墓地です。向かい地区は西暦1600年代の半ばに有路一族が帰農した所で、荒屋敷の向かい側の奥まった田南坊沢に塊っています。独立した小さい村を新たに作ったような形です。そのため、一族の守り神として熊野神社を向かい地区を囲む山の突端に位置づけています。当然、墓地なども独立していたと思われます。その証拠には、向かい地区の奥に火葬場が設けられていたそうです。その火葬場への出入り口を六地蔵が守っています。

 火葬場へ入るときには、この真ん中を通ったのでしょう。このように火葬場の跡はあるのですが、墓地そのものは見当たりません。ある時代になってから、中・下畑沢の墓地に移動したと考えられます。

 しかし、昔の墓石がただ一か所見られる場所があります。それは、畑沢地蔵庵の近くにある如意輪観音の近くです。

 この如意輪観音の向かって左には、二つの墓石が横たわっています。一つは禅宗の戒名が刻んである四角い墓石で、もう一つの墓石は無縫塔と呼ばれる卵を逆さにした形です。この無縫塔の墓石は、僧職にあった者の墓石に用いられるそうですので、この如意輪観音の近くにある墓石は、地蔵庵に関係した特別な墓石で、向かい地区住民の墓石もここにあったものではないと思われます。それでは、向かい地区の墓地は何処だったのでしょう。これから向かい地区の先輩たちにお聞きしていきますが、私の勝手な推測では、昔の火葬場に隣接する林の中ではなかったかと思います。

 

 次に最後の墓地です。中畑沢から五十沢へ通じているスーパー農道の入口には、六面幢、庚申塔、青面金剛、巡礼供養塔等の石仏があり、その中に墓石が一緒に並んでいます。

 中畑沢の古い墓石

 独特の形をしています。「墓」の文字がかろうじて残っています。「墓」と刻んであるのですから墓石であることは間違いなさそうです。

 

 このタイプの墓石は、古殿でもありました。中央に「墓」とだけあります。昔のある時代に流行った形なのでしょうが、かなりの古さです。

  さて、村差出明細帳では、それらの四か所の墓地は同じ山側に続いていると言うのですが、上畑沢の墓地だけは山続きになっていません。他の三ケ所の墓地は、どれも畑沢の西側の山の中です。上畑沢の墓地は、どちらの山の中にも入っておらず、東西の山の真ん中です。村差出明細帳を書くときに間違ったのか、それとも上畑沢の当時の墓地は現在の位置と異なっていたのか、私には解決できませんでした。

 

一、  籠屋敷無御座候(籠屋敷はございません。)

そもそも「籠屋敷」の意味が分かりません。どんな意味か教えてください。

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畑沢の最後の石仏発見か!

2015-07-22 19:34:20 | 歴史

 かねてから馬頭観世音の石仏を捜していました。既に畑沢の馬頭観世音の石仏は、3体が見つかっています。堂ヶ沢延命地蔵堂脇坂下の場所にあります。

 もう1体があると言うことを有路S氏から聞いていたのは、荒屋敷から南の沢へ登った場所です。県道を拡張する時に石仏を山の方へ移したと言うことでしたが見つかっていません。私に教えて下さったS氏も今年の5月初めに亡くなってしまいました。その後、大戸H氏が、石仏らしき大きな石があったとの情報を提供してくださいました。そして、ようやく先日に土を掘り返して調べてみました。かなり大きな角ばった石です。角ばっている点では石仏の可能性が大でしたが、尋常でない厚みがありました。

 

 重すぎるので掘り起こすことを諦めて、仕方なく表面を水できれいにして調べることにしました。少なくとも3面には、全く文字が刻まれていません。さらに、予想もしないことが分かりました。流紋岩だったのです。畑沢では立石山と大平山の上部からだけ産出します。畑沢ではタデスエス(立石石)と呼んでいるとても硬い石です。畑沢で産出しても、石仏には滅多に用いません。ただ例外的に延命地蔵堂の「湯殿山・象頭山」と沼澤の「湯殿山」に用いられているだけです。普通は畑沢の石切り場である「ローデン」か「ゴロウ」から切り出された凝灰岩が石仏に用いられます。とても馬頭観世音に用いることは考えられません。今回見つかった石は、馬頭観世音ではありませんでした。

 それでは、これは何でしょうか。こんなに大きい立石石が、こんなところに自然に存在する訳がありません。ただ一つ考えられるのが、江戸時代に石橋として使われた石材です。ここは、南の沢から流れてきた小川が、南の沢から荒屋敷方向へ道の下を通る場所です。石橋はどこにでもある物ではありません。畑沢には石橋に関する伝説と石仏が残されています。天明7年(1877年)に畑沢村の飢饉から救うために、古瀬吉右衛門が私財を投げ打って、畑沢から尾花沢までの街道に48もの石橋を造りました。昔の街道は県道に変わりましたので、その石橋も分からなくなったのですが、これまで沼沢で千鳥川に架かっている橋のたもとにその頃の石材が保管されています。今回のこの石は、古瀬吉右衛門が作った石橋の二つ目に残された大事な証拠のようです。

 

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