-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「先達屋敷」その2

2016-06-22 21:59:27 | 歴史

 先達屋敷その1を投稿してから大分日数が経ちました。申し訳ありません。たった一人の孫が来ていて、来る前の準備と来てからの子守役に忙殺されています。ブログを書くには真夜中しかありませんが、老人が真夜中にパソコンを操作すると、寝入りが極端に悪くなります。健康を第一に考えて、パソコンはお休みにしていました。しかし、ようやく時間が取れましたので、前の投稿を忘れながらも、どうにか続きを書きました。

 

 先達屋敷跡の杉林は西の奥に向かって続いています。奥へ入ってみました。杉林の下は草が生い茂って良く見えませんでしたが、歩いているうちに地形が分かりました。段々畑のようになっています。最初の3段ほどは、1段の奥行き10m以上もありましたが、西へ登って行くにしたがって1段の奥行きが短くなって奥行き3m程度です。つまり、奥へ行くにしたがって急傾斜になっているということです。全部で8段ありました。先達屋敷は、東西100m以上、南北50m以上です。大雑把に計算すると、次のようになります。

100m以上 × 50m以上 → 5,000㎡以上

ということになります。前回のブログで示した6,000㎡に近い数字になりました。私の計算が強引だと憤慨されている方もおありかと思いますが、世の中はこの程度の大雑把でよいのではないかと悟ることも大事です。大体、50mも100mも私ごときが適当に感じたことであって、計測したものではありません。

本題に戻ります。先達屋敷は、全体的に段々になっているのですが、西へ向かって右側と左側の段々の位置は異なり、右側と左側の真ん中に真っすぐに道らしきものがあります。今では、完全に獣道です。

 西へ登る道は、やがて行き詰まりになりますが、その近くに湧水がありました。湧水量は多くはありませんが、それでも一軒の家が使う水であれば十分な量です。昔、先達屋敷の大半は畑だったので、湧水を水田に使うわけではなくて、全て炊事などに使っていたはずです。湧いた水は、水路によって先達屋敷の南端を東へ向かって流れ下っています。

 

 水路が下へ下る途中に、コンクリート製の水甕(みずがめ)があります。昭和50年代ごろに使われたものと思われます。ここからホースで下の道路の方へ導水したのでしょう。

 

先達屋敷を、田んぼと千鳥川を挟んで東の端から全体を眺めてみました。本当は、真上から撮影した航空写真ですと、先達屋敷の形がよく分かるのですが、勝手に航空写真をブログに使用することができません。しょうがありませんので、私の写真で見ていただきます。先達屋敷の跡は総てが杉林になっているようです。

 

それではこの正学坊という山伏は一体どんな人だったのでしょうか。正徳四年(西暦1714年)の「畑沢村高反別村差出明細帳には、正福寺という山伏が記載されています。それからたった33年後は名前が全く異なる正学坊が畑沢の山伏です。そもそも正徳四年の「正福寺」という山伏の名前は異例のようです。山伏ならば、全部ではないのですが、大抵は「院」や「坊」が最後に付いていました。「正福寺」は院も坊も授けられない山伏だったのでしょうか。それが、その後に坊を獲得したか、又は坊を持っている山伏が取って代わったことになります。私は、前者であろうと考えています。全くの別人が入り込んで来て、短期間のうちに先達屋敷ほどの土地を手に入れられるとは思えません。正福寺の時代も含めて代々の山伏が資産を貯めたのではないかと思います。

 青井法善氏の「郷土史之研究」に紹介されている「本末并分限御改帳 金剛院」は、延享四年に記されました。その頃の畑沢では次のようなことがありました。

 

延享元年(1744年) 上畑沢に山の神(石祠)造立

延享3年(1746年) 関嶺(寒嶺)和尚が丹生村の巣林寺で没す。(満90歳)

 

 そして、このころに浄土真宗の徳専寺が銀山から畑沢へ移転してきたと考えられます。延享元年の山の神は、田んぼと千鳥川を挟んで先達屋敷の向かい側の山の上に建てられています。山の神には願主などの主催者名は刻まれていませんが、昔から上畑沢のある家が守ってきました。そして、この家は昔から金剛院との付き合いが深いようです。回りくどい言い方になりましたが、私はこの家が正学坊にかなり深い所縁のあると考えています。延享元年には、既に正学坊は先達屋敷を構えていて、向かいの山に山の神を単独で祀ることもできたのでしょう。そして、寛永五年(1853年)に畑沢村が背中炙り峠に巨大な石仏「湯殿山」を造立する時には、そのリーダーとなり、また翌、寛永六年の「背中炙峠一件」の訴訟でも畑沢村の代表格として代官所に堂々と反論したその家であったろうと思います。

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「先達屋敷」 その1

2016-06-17 21:24:11 | 歴史

 去る2月24日に行われた上畑沢のオサイドで、初めて耳にすることがありました。早々とオサイドを燃やし終えて、延命地蔵堂で懇談している時のことでした。「せんだづやすぎ」なる言葉が出てきました。そのことを口に出した人も、その謂(いわ)れを知らなかったので、出席者に問いかけたようです。私も畑沢に生まれてからかなりの月日が流れて、どんなに訛った畑沢語でも、標準語に直すことぐらいはできます。「せんだづ」は畑沢でしばしば使われています。「△△へ出かけるときに、〇〇がせんだづして行った」などと使われ、「せんだづ」は先達のことで、「案内役」又は「指導者」的な意味です。「やすぎ」は、屋敷を意味していますが、単なる建物の敷地を意味するものではなくて、敷地とそれに連続する畑も含まれます。畑沢で「〇〇屋敷」と呼ばれているのは、先達屋敷の外に「他人太屋敷」と言われている所があります。こちらは以前、ブログで取り上げたことがあり、かなりのお金持ちでした。

 さて、私も大いに興味が湧いたのですが、誰に聞いたらよいのかも分からず、途方に暮れていました。ところが、昭和2年に青井法善氏が著した「郷土史之研究」に次の記述がありました。

==========================

金剛院

金剛院は字荒町にある ‥‥

‥‥‥寛永年中 羽黒派の修験となり最上十七院の触頭となった。

   延享四丁卯年四月

‥‥

畑沢

 屋敷 一畝十歩         正学坊

   畑  八畝十五歩     名主 九右衛門

‥‥

 

正学坊址

金剛院の支配下で延享四年四月調べ上げた帳簿の内にある正学坊の址 現今は畑となって先立屋敷といふてある 中畑沢と上畑沢の間右の丘の上である。

===========================

 

 それでは説明します。正学坊は、山伏又は修験者と言われる者です。江戸時代までは、各村に山伏、修験、又は修験山伏などと表現される者が住んでいました。この者たちは、現代の山伏や神主とはかなり異なっていて、村の民間信仰や加持祈祷、相談役などを生業としていました。当時、民間信仰は沢山ありました。庚申供養塔に見られるような石仏を見れば、その数の多さと種類の多さにお気づきになると思います。畑沢にも石仏は50体近く残っています。山伏(以下、この表現にします。)は宗教に携わる者なので、「生業(なりわい)」と言うことには、抵抗を感じる方もおられましょうが、それで収入を得て生活するのですから、私は一般の生業と何ら変わらないとものと思います。しかも、山伏は寺の僧などと同じように、公租を免じられていましたので、普通の百姓たちから見れば、羨ましい限りの生業です。

 前置きがかなり長くなってしまいました。この正学坊は金剛院という荒町の山伏をトップとする羽黒山グループ17人に属していました。正学坊は、湯殿山参りをする参詣者を先達する役割も持っていたことになります。これは推測ですが、正学坊は背中炙り峠を通る参詣者を担当したものと思われます。江戸時代は背中炙り峠を通る参詣者が多かったことでしょうから、正学坊の収入もかなり多かったのではないでしょうか。

 羽黒山は、このころ天台宗に改宗していました。湯殿山は真言宗です。石仏「湯殿山」が山形県内ばかりでなく、県外の東北はおろか関東地方にも広く建てられています。それだけ湯殿山参りが盛んだったことが分かります。はて、天台宗である羽黒山のグループなのに、真言宗派の湯殿山詣でとはこれ如何に。そうです。かなり込み入った事情があったようです。宗派間の問題、奥之院の問題、時の権力者との関係等々があり、宗教は決して一途な信心だけでは済まない状態でした。あまりにも複雑なので、私には説明する根気と明晰さが欠けているということで、とりあえず本題に戻ります。

その正学坊の建物としての敷地面積は、一畝十歩となっていますので、現在のメートル法に換算すると、約700㎡になります。畑は八畝十五歩ですから約5,300㎡です。従って、先達屋敷全体では約6,000㎡になります。山伏としての収入の外にこれだけの土地面積を有するのですから、「広大な面積」と「羨望」の意味を込めて、畑沢の人たちは「先達屋敷」と呼んでいたことだと思います。

 いよいよ、6月8日に先達屋敷の場所を探しに行くことになり、いつものように「行き当たりばったり方式」で、道路を歩いていた中畑沢のH.T氏に先達屋敷を知っているかを尋ねました。すると、驚くほどに詳しく御存じでした。私は極、少数の人しか御存じないと思っていたのですが、幸運にもその極、少数の人に最初からお会いすることができました。同氏によると、「先達屋敷は、甑岳に登る人たちを先達する者の屋敷で、上畑沢に入る直ぐ手前にある右カーブにあるブロック擁壁の上にある。今は杉林になっているだろう」ということでした。しかも同氏はその場所が畑になっていたことを覚えているとのことでした。私が知りたいことを完璧なまでに教えてくださいました。正学坊は湯殿山詣での先達だけでなく、甑岳詣での先達もやっていたようです。甑岳でも山岳信仰が盛んに行われたそうですから、このお話も信憑性が高いものです。背中炙り峠を越えて、新山村から登るルートがありました。正学坊は広範囲な仕事を持っていました。

 教えて下さった場所に行ってみました。ブロック擁壁は直ぐに分かります。県道29号線の西側です。擁壁の高さも間知ブロック6段だけです。簡単に登ることができました。

 

 擁壁を登り少し凹んだ地形をさらに登ると、平坦な地形が広がっていました。完全な平坦ではなく、緩斜面といったところです。一面、杉林になっていて、杉は胸の高さでの太さが40cmぐらいもありました。植えてから半世紀以上は経っているようです。屋敷跡に杉を全面的に植林してあります。比較的、手入れがされています。

 「屋敷」の県道に面している側は、中央部分が道路側に岬のように突出していて、灯台が立っている岬のような形になっています。その突端からは甑岳を眺望できます。決して自然の地形ではなくて、ある強い意図をもって作られた地形に見えます。この場所には何らかの石仏のようなものがあったかもしれません。


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畑沢の生き物観察

2016-06-09 19:16:11 | 自然

 

 

 

 生き物観察と言ってみても、大したことはありません。いつものように、行き当たりばったりで撮っただけです。

 川べりにキイチゴの花が咲いていました。一口にキイチゴと言っても沢山の種類があるそうです。しかし、私は畑沢のキイチゴがどんな種であるかを確認する努力はいたしません。それよりも、いつ頃になると食べられるようになるかが問題です。お菓子に恵まれなかった昔は、キイチゴは御馳走でした。近所の友達とあちこちと食べ歩いたものです。


 田んぼの中には、オタマジャクシが沢山、泳いでいます。これもどんな種かは分かりません。オタマジャクシが泳ぎだすと、田んぼに、わんさかと湧くようにごちゃごちゃしていたミジンコが食べつくされて、姿を見なくなります。

 そのオタマジャクシが泳いでいる田んぼの中に、何やら獣の足跡がありました。足跡が付くのは水が入っていない時期のはずです。田植えの前後に何かが、餌を求めて入ったのでしょう。何の足跡かを特定できませんが、消去法を試してみます。熊、カモシカ、猪、ノウサギではありません。イタチもこの大きさには合いません。猫はこの形ではありません。残りは、タヌキ、アナグマ、犬ですが、犬の放し飼いはないでしょうから、タヌキかアナグマだけとなります。しかし、足跡が不鮮明なので、さらに犯人を絞り込むことができません。ということにしておきますが、所詮、特定する力がありません。

 この足跡の持ち主、水が抜けた田んぼで、タニシなどを食べていたのでしょう。

 水辺の近くにヤマアカガエルがいました。これまでブログで何回か紹介しました。畑沢にはこの蛙が多いようです。中々、スリムで羨ましいスタイルです。産卵期を終えてやせ細っているのか、それともいつもスタイルがいいのでしょうか。

 水辺にカワトンボが元気に飛び回っています。羽化したばかりの若いカワトンボは羽の色が違いますが、これは十分に大人になっているようです。

 千鳥川の中に珍しい光景が見られました。小魚が群れていました。こんな光景は遠い昔に見たきりです。昔は千鳥川のどんな所でも、魚の姿を見ることができました。ところが、最近は極、たまにしか魚の姿を見ることができなくなりました。農薬、河川工事、立石山の採石、重機による作業道工事と、枚挙に暇がないほどに川を痛めつけた結果です。幸いにも最近は若干、回復傾向にあります。うれしいことです。

 さて、この沢山の魚たちは、アブラハヤです。畑沢では、ニガザッコとか単にニガと軽蔑されている魚です。しかし、今では千鳥川の回復を知らせる天使のようなものです。写真の白い管は、田んぼにポンプアップするもので、その吸い込み口に魚の餌となるごみがつっかえているのでしょう。

 

 山楯の調査をしている時に、杉藪で妙な葉を見ました。どこかで見たような初めて見るような葉です。私のあやふやな見立てですが、もしかしたら「サルナシ」ではないかと思います。キウイの御先祖様のような植物ですから、キウイの葉に似ているような気がします。しかし、これまでサルナシの実(コクワ)を食べたことはありますが、葉をしっかりと観察したことはありません。

 同じ場所に、畑沢で最も大きい思われるヤマボウシの花が咲いていました。道路から大分離れていますので、中々、人目に触れることはありません。でも、必見すべき見事さです。


 アオイの仲間であるウスバサイシンが沢山、生えていました。この植物には、独特の形の花が咲くはずですので、株の根元を探してみましたが、何処にも花がありませんでした。花の咲く時期が違うのかもしれません。いつ咲くのでしょうね。

 

 道路の近くの藪で、ちょこまかと忙しく飛び回る蝶のようなものがいました。撮影は困難を極めました。最高の出来でもこの程度です。羽の色が美しいというよりも兎に角にぎやかです。白、黒、黄色が入り混じっています。調べましたら、「トラガ」という蛾の仲間だそうです。昼行性なので、益々、蝶と間違えてしまいます。

 

 最近、私の仲間に昆虫好きが増えました。お陰で、私も感化されています。これまでは昆虫を見ても関心がなかったのですが、最近はやたらと昆虫が気になります。この虫もその一つです。5月の末に屏沢で見かけました。蜂のような、蝶のような、蛾のような虫です。上のトラガを調べている時に、偶然、この虫の写真と名前が出てきました。「ヤマトシリアゲ」だそうです。この虫の雄は、しっぽの先がサソリの尻尾のようになっているのだそうです。しかも、肉食だそうですから、私には好きになれない「虫」 です。

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畑沢は初夏かな

2016-06-08 19:55:25 | 近況報告

 平成28年6月8日、まだ通れない背炙峠ではなくて、尾花沢を回って古殿、車段に入りました。何やら幟(のぼり)を立てている人たちがいました。幟を見ると、私は直ぐに「祭」とか「イベント」に結びつきます。そして、「誰にも」「どんなことでも」聞くことができる才能を発揮しました。車を止めて聞きましたら、来たる6月22日に尾花沢一周の駅伝大会があるのだそうです。市役所の方々が作業をなさっていました。

 畑沢はどこか蒸し暑い空気に囲まれていました。どことなく、どんよりと曇っているのですが、気温は十分に夏です。田んぼは一面、水に満たされています。

 近くに葦(アシ)が葉を伸ばしていました。この時期、この葦を見ると、遠い昔を思い出します。実に今から約60年も前の田植えのころです。昔、田植え作業には一家全員が出かけました。まだ小学校にも入らない私は、田植えのどんな役にも立ちませんが、一応、田植え現場にはいました。大人たちの仕事を見ていたのでしょうが、大した関心もなく田んぼの周りをうろうろしていたことでしょう。休憩の時に中学生の兄が、葦で船を作ってくれました。それがこの船です。それ以来、この葦船は私の得意技の一つになりました。、葦船は帆に風を受けてすーっと軽やかに進んでいきます。 

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畑沢地蔵庵(大改訂版)の追加‥‥考察みたいなもの

2016-06-06 21:49:29 | 歴史

 前回のブログで、畑沢地蔵庵に庵主が住んでいたことを投稿しました。庵主が居たのは、元禄15年(西暦1702年)から明治28、9年(西暦1895、1896年)までの間ということですから193年か194年間ということになります。その間に何代もの庵主が交代したことでしょう。江戸時代は、浄土真宗以外はどの寺の住職も世襲ではなく、全く血縁のない者が代替わりをしていたようです。それもそのはず、浄土真宗以外は妻帯が許されていませんでした。曹洞宗(禅宗の一派)である龍護寺に属している畑沢の地蔵庵は、当然、独身の庵主が住んでいたはずです。しかも、若い僧がどこかの住職になる前に、修行として一時的に庵主になっていたのではないかと想像しています。従って、庵主は畑沢に骨を埋めるのは、かなり例外的ではなかったかと考えてみました。

 しかし、そうは言っても、何らかの理由で衰弱するなどして死亡した庵主は、少なからず存在したでしょう。泰外は一つの石に一字ずつの法華経の文字を書き写すなどの過労などで衰弱したほかに、畑沢を襲った宝暦の大飢饉(1753~1757年)、天明の大飢饉(1783~1787年)などの災難に倒れた庵主もいたのではないかと思います。そこで気になるのが、地蔵庵の北東約30mの斜面にある二つの墓石です。如意輪観音の脇に横たわっています。村人の墓場は、当時こことは別の場所に四か所ありました。地蔵庵近くにある墓石は村人のものとは思われません。恐らく、地蔵庵の庵主のものと思われます。

 墓石は違うタイプのものが二つです。一つは一般人の墓石に用いられている形で、「智岳☐秋信士」の戒名が刻まれています。もう一つは、文字が一切なく、「無縫塔」という卵を逆さまにした形のものです。これは江戸時代には主に僧侶などの墓石として用いられたそうです。例えば、初代庵主の泰外は僧だったと思われますので、無縫塔が建てられた可能性があります。それでは、もう一つの墓石はどうでしょうか。まだ僧になっていない庵主か、又は庵主でない誰かということになります。もし、無縫塔が泰外のものであるとすれば、今から307年前の墓石となります。龍護寺に何らかの記録があるかもしれません。どなたかスビタレの代わりに確認してください。

 

 

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